出会い
ああ、喉が乾いている。
体が寒い。腹が減った。
三日三晩は走っては小休止を繰り返している。
ここはどこだ、俺は…。
また、走って、逃げて、隠れて、また走る。
筋肉のきしむ音が、
千切れる音が聞こえても俺は逃げ続けた。
漠然とした死の恐怖が俺を駆り立てた。
冷静とは程遠い。俺は狂ってしまったのだろうか。
「きっともう誰も追ってきていないよ」と
そんな声が聞こえた気がした。
もしかしたら俺の声だったかもしれない。
路地裏に倒れ込む。
もう大丈夫だ。
だって、俺を追う声は消えているから。
さし迫る死の恐怖から解放されたことで疲労が襲い掛かって来たのだろう。
いつでも寝られる気がした。
「ああ…ダメだ」
水と食料がないと人は死ぬ。
そんな理屈よりもカラカラだった喉を潤したいその一心だったかもしれない。
俺は水を求め立ち上がろうとする。
だが、力が入らない。
「…ぁ」
代わりに声がこぼれた。硬い石畳にすら吸い込まれてしまうほどの音にならない声だ。
「…っ」
もう一度、起き上がろうとしたが、腕に力が入らない
それどころか、手に力が入らない。
指にしびれを感じ、死が、迫っていることを知る
まただ。
また、あれが来た。
死はこれほどまでに恐ろしいものだったろうか
ナイフで刺されるよりも、鈍器で殴打されるよりも、火をつけられるよりも、
何よりも背後に迫る”それ”が怖かった。
「動いてっ、動けよ、動け、動け、動けえええええええ…はあっはあっ、やった。動いたぁ…」
俺の指先はまだ動く、生きられる。
歓喜
そこで、気づく。いつからか夢幻を見ていたことに。
声は掠れ、荒い息音しか出ていないことに、
体中は傷だらけであることに。
腹から滲み出した血が、かじかんだ指先を温め、動かせたことに。
気づけば雨が降っていて、狂おしいほど望んでいた喉の渇きを潤す筈のそれによって
僅かな血の熱さえ、奪われてゆく現実に。
「ああ…これが…」
だから、沈みゆく意識の隅で、
バシャバシャと煩く音を立てた、”それ”に救いを求めた。
「…」
もう言葉は出ない。
いや、とっくに声なんて枯れていた。
もう、頭に響く自分の声も、雨音もすべてが同じように思えた。
霞む視界には、彼女の姿も禄に見えなかったが、
ただ、月明かりに照らされ、水溜りに映った姿から女だということだけが分かった。
いや、これも幻想か。
嘲笑った。こんなものは血迷いだ。
死の間際に見せた偽りにも手を伸ばしたのは諦めなかったわけじゃないただの自棄だ。。
救いはなかった、生まれてこのかた、必死に生きても。
これまでも何度も、期待して裏切られた。期待なんてあるはずがない。
…スラムに落ち、それなりに覚悟はできているつもりだった。誇りなどない。
だが、こうも自分が惨めに生を求めるとは、思っていなかった。
…俺は果たしてスラム生まれだったろうか。俺は、いつからスラムにいた?
死の間際でさえ、俺は真実が見えていないのだろう。
奴のことも、今の状態も、過去さえも整合性が取れていない記憶が入り混じって、
消えていく。…ダメだ、思考がまとまらない。
最後に何かを思い出すことすらできなかった。
石畳みの道に、僅かに浮いていた手を落とした。ばちゃという水音は強い雨音に搔き消される。
耳に響くは、轟音。雨音が俺の人生の最期。
そう思った。
「キミ、きったないなぁ…」
女性にしては低く、不機嫌そうで、掠れた声でそう呟いた彼女は、
片手で、俺の首根っこを掴み、肩に担いだ…
[ごきゅ]
鳴るは首の骨、失われていくところだった感覚がよみがえり激痛が走る。
確実に骨は折れていたと思う。
「あ…しまったな」
彼女が何かをつぶやいたようだが、それどころではなかった。
体が限界を迎えていた俺に、とどめを刺したのは、あまりにも雑なそのひと掴みだった。
倒れ、沈む視界の底で見た彼女の顔は、
恐ろしいほど整っていて…
ああ、死神って女神さまみたいなんだな…
結局助からないとしても、
まぁ、冥土の土産にはなっただろう。
彼女には感謝しておくとしよう。
そんな感じで俺は死んだ。
そう思った…。
まぁ…経緯はともかく、彼女は俺を、薄汚れた路地裏から連れ出したわけだ。
そう、驚いたことに、それは救いだったのだ。死神ではなく、女神だった。
起きたら、どういうわけか、体中の怪我も、首の骨折もなくなっていた。
意識が戻ると、すぐに薬草で満たされた風呂にぶち込まれ、汚い雑種の犬(あるいは野良猫)でも洗うかのように雑に体と髪を洗われた。
恥じらいはなかった、なんせ死にかけていたし、相手は神だ。
そのような思いは抱くわけもなかった。
急に食事をとっては体に障ると、しばらくは薬草の入ったかゆを飲まされた。
ううむ…、とことん犬猫を拾ってきたときの対応である。
腹に虫でもいると思われているのだろうか…
しばらくして声が出るようになって本心からの感謝と、できるならもう少し優しく助けてほしかったという切な思いをにじませながらお礼を言う。続けて「…あなたは女神様ですか」と問うと、彼女は少し驚いたように目を開いて、不機嫌そうに鼻を鳴らし否と答える。
腹を満たし、救ってくれた女神は「勇者」というらしい。
「勇者」とは初めて聞く。神の親戚のようなものだろうか。いやそれは神か。
まあ、なんにせよ、その日から俺は、泥と血と汗で汚れた日々を終えることとなる。




