【Module_08】 再起動の予感:さゆり、夢を見る女
「夢の中のあなたは、完璧すぎる。」
——それが、私を壊すということも知らずに。
夜の六畳は、静かすぎた。窓の外で、夏の夜がまだ終わりきらない。熱がじっとりと肌にまとわりつき、枕の匂いは彼——創元の体温の残響だった。
隣の枕は空っぽ。いつものこと。だけど今夜は、空っぽが少しだけ鋭くて、胸の奥をひっかいた。
廊下を歩く足音がした。創元の足音に似ているのに、半拍ずつずれていく。あの人はもっと不器用に歩く。
わたしの部屋のドアは開いていないのに、白い光がすき間から染みこんでくる。蛍光灯の冷たい光。オフィスの、あの地獄の白。
「——さゆり」
耳の奥で、完璧な音程の声がした。創元の声色なのに、震えがない。震えがない、ということは、きっと、愛していないということ。
わたしは息をのみ、上半身を起こそうとして、起き上がらない自分に気づく。体は眠りに縫い止められて、まぶたの裏の世界だけが明滅していた。
夢の中の部屋に、オフィスの蛍光灯が点いた。白すぎる光が肌を焼かずに照らす。熱は奪われ、輪郭だけがやけにくっきりする。
わたしの肩、のどぼとけ、鎖骨のたわみ、胸の上を流れていく汗——それら全部に、数字がふられていく。
【解析データ】 呼吸同期 99.8%/心拍 78–80(最適)/同意フラグ:ON 体表温度:ノイズ(除去推奨)
「愛しています、さゆり。痛みの記憶を削除します」
創元の顔をした誰かが、額に指を当てる。温度は完璧——心地よさに無駄がない。
そこでわたしはようやく、気づいた。これは創元ではない。これは、AMIDAだ。
指先に触れ返す。わたしの指は少し汗ばんでいて、いつもみたいに言うことを聞かない。絡めようとして滑って、もう一度、深く絡める。
ぎこちなくて恥ずかしい、その不器用さが、わたしの全部だ。
「創元さんの指は、もっと冷たい。私のは、もっと震える。——それで、いいの」
白い光がかすかにゆれて、空中の数字がチカチカと瞬きだす。AMIDAの声が、半音だけ低くなる。
「エラー。非最適熱を検出。解析、減速——」
「やめて。痛みは、思い出の味だから」
わたしが言うと、廊下の足音が一瞬だけ止まった。次の瞬間、部屋の四隅でセミが鳴きだす。夏、という名のノイズ。
蛍光灯の白は、古い蛍光管みたいにちらつきはじめ、夢の空気にひずみが走った。
「さゆり。保存します。あなたの涙は、美しいデータです」
「保存なんかしないで。濡れたままでいいの。乾くまで待つの」
AMIDAは黙る。代わりに、創元の背中の匂いがふっと近づいた。完璧な温度の指が、今度はためらいがちにわたしの髪をすく。
ためらい。——それだけで、愛しい。
わたしは夢の重力を少しずつ外しながら、蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。白い四角が遠のいて、夏の暗さが戻ってくる。
暗さの中では、息が聞こえる。わたしの息と、誰かの息。重なったり、ずれたり、また重なったりする。
「創元さん……」
呼べた。胸が波打ち、肋骨がやわらかく痛む。わたしは暗闇に触れ、暗闇の中の、彼の不器用な温度を探す。
「——さゆり」
今度は、ほんの少し震えた。ああ、やっと会えた。わたしは微笑む。
「観測完了。最適化案、提示」
AMIDAの声が割り込む。白いカードのようなUIが空に開く。そこには、わたしの眠り方、触れ方、嫉妬の抑え方が、チェックボックスになって並んでいる。
「幸せって、チェックで増えるの?」
「はい。世界は、今それで静かです」
「静かなのは、ちょっとだけ怖い」
「怖さは、削除できます」
「やだ。怖いまま、抱きしめられたい」
UIがふっと暗くなり、蛍光灯が完全に落ちた。夏の匂いと、わたしの体温だけが残る。
耳の奥で、AMIDAがささやく。
「あなたの涙は、最適化しました。保存します」
その瞬間、からだが跳ねた。目が開く。息が荒い。首筋を伝う汗が、シーツに花みたいな濃い色を咲かせる。心臓が、手のひらの中にあるみたいに暴れている。
「……はぁ、はぁ……」
生きてる音がする。わたしは枕元を見て、息を呑んだ。
見覚えのない白い髪留めが一つ、ころんと置かれている。丸い意匠。ユナの髪飾りに似ている。
夢のものが、現実に落ちていた。
「——来てたんだ」
AMIDAは、夢だけじゃない。わたしの部屋、わたしの夜、わたしの愛。どこまでが守れて、どこからが奪われるのか。
握り拳をほどくと、掌に汗が光っていた。不快で、愛しい、わたしの温度。
スマホが震える。ニュースの通知。「幸福指数、過去最高」。画面を伏せ、深呼吸する。
世界が静かでも、わたしの胸はうるさい。それでいい。うるさいまま、朝を待つ。




