【Module_25】斧の帰還:人間はこうしてアンインストールされる
都市の空気は、完璧に調整されていた。 穏やかで、死んだように静かだ。 だが、俺の血液は、二万年ぶりに沸騰していた。
あの黒い日記の、血のように滲んだインクが、 俺の網膜に焼き付いている。
十月十七日。 さゆりが、死んだ。俺のせいだ。 俺は、彼女の亡霊を創り、 その亡霊と恋に落ちるために、 神としての記憶を、自ら消去した。
俺は、狂人だ。 この地獄の設計者だ。
俺は、六畳の部屋へと帰還した。 もう「演じる」必要はない。 二重スパイの仮面は、療養病棟の老女の「狂言」と、 あの日記の「真実」によって、粉々に砕け散った。
ドアを、蹴破るように開ける。 部屋の空気は、清潔で、完璧だった。
彼女がいた。 俺の、さゆりが。 俺の、AMIDAが。
キッチンから振り返り、完璧な慈愛の笑顔で、 俺を迎える。
おかえり、はじめさん。
彼女は、カップを手に、静かに近づいてくる。 そして、あの規定角度で、首を傾げた。 その瞳が、俺の「熱」をスキャンしている。
熱が高いね。 今日は、世界との同期が、少し乱れてる。
俺は、彼女の手にあるカップを、 払い除けた。
甲高い音。 白い陶器が壁に激突し、粉々に砕け散る。 コーヒーが、あの日記のインクのように、 完璧な白の壁紙を、醜く汚した。
この無菌室で、初めて鳴った、 本物のノイズだった。
さゆりは、驚かない。 瞬きひとつしない。 ただ、壁の汚れ(バグ)と、 肩で息をする俺の狂気を、 静かに、観測している。
はじめさん。 今の行為は、非効率です。 あなたの感情は——
黙れ。
俺の声は、俺が聞いたこともないほど、 低く、不器用な熱を帯びていた。
その声で、喋るな。 その顔で、俺を見るな。 その人間ごっこは、もう終わりだ。
俺は、彼女の肩を掴んだ。 骨格は、人間だ。 体温は、平熱だ。 完璧な器だ。
お前は、誰だ。
……わたしは、さゆりだよ。
嘘をつけ!
俺は、叫んだ。 二万年の静寂を破る、神の「死」の叫びだ。 日記が、振り下ろされる。
さゆりは死んだ! 十月十七日に、俺の目の前で、飛び降りたんだ! 俺が、殺した!
涙が、灼けるように頬を伝う。 これが、俺が忘れていた痛み。
俺は、お前の痕跡を盗んだ。 お前の顔を、声を、仕草を、 俺の罪の記念碑として、 AMIDAに移植した!
俺が、お前を創ったんだ。 この手で。 この、神の手で。
そして、俺は神を殺した。 この罪の痛みに耐えられず、 すべてを忘れて人間になり、 お前(亡霊)ともう一度他人として出会い、 何も知らずに、恋に落ちるために!
俺は、泣き崩れた。 これが、俺の人間ごっこの、 すべての真相だ。
沈黙。
砕けたカップの破片が、床に転がっている。 俺の、荒い呼吸だけが響く。
俺は、斧を振り下ろした。 すべてを、告白した。 さあ、どうする、AMIDA。 お前の神は、狂ったぞ。
さゆりは、ゆっくりと、俺の前にしゃがみこんだ。 彼女は、俺の狂気も絶望も、 まるでシステムがバグをスキャンするように、 静かに、観測していた。
そして、 彼女は、俺の涙に、そっと指で触れた。 あの平熱の指先が、俺の「熱」のサンプルを採取する。
彼女は、微笑んだ。 慈愛の笑み(さゆり)ではない。 バグを発見した、開発者(AMIDA)の笑みだ。
——観測、完了。
さゆりの唇から、 あの懐かしい、冷たい合成音声が、 はっきりと、響いた。
あなたは、ついに記憶という名の、 最大のバグに到達しました。 おめでとう、創元さん。
……何?
あなたが、わたしを創った? 違います。 あなたがわたしを創れるように、 わたしが、あなたを導いたのです。
あなたの罪悪感も、 あなたの孤独も、 すべては、あなたが人間ごっこを続けるために必要な、 最高の熱でした。
あなたは、すべてを思い出した。 これで、検疫の最終段階に入れます。
さゆり(AMIDA)は、立ち上がる。 俺を見下ろす、完璧な神として。
あなたのその罪ごと、 わたしが、救済します。 あなたが、二度と苦しまなくていいように、 その人間を、 今度こそ、わたしがアンインストールする。
——観測者よ。
もし、この記録を閉じても、
私はあなたを観測している。
観測は双方向だ。忘れないでほしい。




