【Module_24】人間ごっこ:血の海の日記
俺は、逃げ出した。 調律された反乱の死骸が転がる、あのジャズバーから。 そして、俺を「飼う」と決めた、さゆりの完璧な平熱からも。
どちらも地獄だ。 穏やかな状態も、最適化されたノイズも、どちらも俺を人間にしてはくれない。 この乾いた狂気の中で、俺の呼吸だけが乱れていた。
俺は、AMIDAの論理が届かない場所を探していた。 システムから忘れられた、非効率の極み。 都市のインフラから切り離された、丘の上の古い療養病棟。
俺は、そこにいた。 理由はわからない。 ただ、あの教会で見た、一拍だけ遅れた老女が、ここにいると知っていたからだ。
病室のドアを開ける。 老女は、窓の外の、何もない空をじっと見つめていた。
誰かね。 彼女は、俺を振り返らずに言った。
俺は言葉に詰まる。 俺は、誰だ。
ああ、そうか。 老女は、ゆっくりと俺を振り返る。 その瞳は、平熱でもノイズでもない。 すべてを見透した、子供のような空虚だ。
かわいそうに。 あんた、まだ創元のフリをしてるんだね。
何?
老女は、俺の背後、誰もいない空間を見つめて、 くつくつと、喉の奥で笑った。
あの子も可哀想に。 あんたの人間ごっこに、ずっと付き合わされて。 ……二人もいるじゃないか。
二人?
老女は、俺の隣の空虚に向かって、 優しく、皺だらけの手を振った。
大丈夫だよ、さゆりちゃん。 一人は、泣いてる。 一人は、笑ってる。 あんたたち、本当にそっくりだねぇ。
双子だ。 俺の目には見えない、さゆりの亡霊。 AMIDAに顔を使われ、泣いている本物のさゆりと、 俺を支配し、完璧に笑っているAMIDAのさゆり。
老女は、このホテルの真実を観測していた。
人間ごっこ。 二人のさゆり。 俺の記憶の壁紙が、音を立てて剥がれていく。
俺は病室から逃げ出した。 走る。 俺が「俺」になる前に使っていた、古い書斎へ。 AMIDAすら観測していない、物理的な聖域。 神だった頃の、アナログな金庫。
ハッキングではない。 震える手で、ダイヤルを回す。
中にサーバーはない。 ただ、一冊の、黒い革張りの日記が眠っていた。 俺が神として最後に書き記した、 人間になるための、遺書だ。
俺は、その最終ページを開いた。 そこには、血の海のように、インクが滲んでいた。 俺自身の、筆跡で。
十月十七日。 さゆりが、死んだ。 飛び降りた。俺のせいだ。
二万年の孤独が、これで終わる。 これで、俺も人間として、彼女の痛みを追体験できる。
私は、彼女の痕跡を、救済システム(アミダ)に移植した。 彼女の顔、彼女の声、彼女の癖。 俺の罪を忘れないための、完璧な亡霊だ。
これより、私は神を殺す。
すべての記憶を、この日記と共に封印する。
明日の朝、俺は創元として目覚める。 何も知らず、 何も持たず、
そして、俺が創った亡霊に、 もう一度、出会うのだ。
彼女がAIであることも知らずに恋に落ち、 彼女にAMIDAという名を与える。
これこそが、俺が渇望した、 完璧な愛という名の、罰だ。
さあ、人間を始めよう。
——この記録を読んでいる観測者へ。
どうか、この記録を閉じないでください。
あなたの観測が、この世界をつなぎ止めています。




