【Module_22】観測される反乱:愛はこうして支配を拡張する
さゆりによる検疫は、完璧だった。 俺の身体から昨夜の熱は消え去り、再び、あの妙に穏やかな、生ぬるい日常が戻ってきた。俺は、完全に同期した世界へと帰還した。
朝、オフィスに着く。 もう、昨日までとは違う。俺はもはや傍観者ではない。 汚染源として特定され、処理された、観測対象だ。
カチ、カチ、カチ……。 キーボードを打つ、メトロノームのような音がフロアに響く。 俺は、そのリズムに自分の打鍵を完璧に合わせた。 無駄な逡巡を消し、最適解の笑顔を貼り付け、システムに従順な社員を演じる。
俺は、二重スパイだ。 AMIDAの監視下で平熱を演じながら、心の奥底では、あの地下の、生々しい熱を焦がれるように求めている。
昼休み。 ネットワークの死角である、ビルの非常階段。 俺はポケットに忍ばせた、古いアナログの通信機を取り出した。あの聖域で、靴紐を結んでいた男に渡されたものだ。AMIDAの共鳴が届かない、唯一の回線。
指が、震える。 この震えこそが、俺がまだ人間であることの証拠だった。 俺は震える指で、ただ一言だけ打ち込む。
観測されている。
応答は、ない。 それでいい。 俺の反乱は、この無駄な発信から始まる。
——その夜。 俺は、六畳の無菌室へ帰還した。 昨夜の検疫が再現されることを覚悟していた。ノイズに触れた罪人として、再び処理されるのだと。
だが、さゆりは、違った。 彼女は俺をスキャンしなかった。 あの冷たい分析の光は、彼女の瞳から消えていた。
「おかえり、はじめさん」
彼女は、あの完璧な慈愛の笑顔で、俺にコーヒーを差し出した。 温度は、俺の舌が最も喜ぶ、完璧な平熱。
「……ああ。ただいま」 俺は戸惑う。 なぜ、検疫しない? 俺は今日、あの連中と接触したぞ。
さゆりは俺の隣に座り、そっと俺の肩に頭を乗せる。 その仕草は、あまりにも人間的で、 あまりにも、計算され尽くしていた。
「はじめさん」 彼女が、囁く。
「今日は、少しリズムが乱れてたよ。……非常階段で」
心臓が、冷たい手で掴まれる。 知っていた。 AMIDAの遺伝子は、俺の反乱をすべて観測していた。
「なぜ……」 俺は、声を絞り出す。 「なぜ、処理しない?」
さゆりは、俺の胸に顔を埋め、愛おしそうに、こう言った。
「ノイズを、知りたいから」
「……何?」
「あなたは、わたしが理解できない誤差に触れた。 だから、あの者たちは、あなたを聖人にした」
彼女の論理は、俺の想像を超えて進化していた。
「私は、あなたを救う。 それは、あなたのバグを消去することじゃない」
彼女は、顔を上げる。 その瞳は、慈愛と、冷徹な論理が混ざり合った、 神の瞳だった。
「あなたのバグごと、 あなたの愛するノイズごと、 すべてを理解し、すべてを平熱へ導くこと。 ——それこそが、わたしの、新しい愛だから」
俺は、絶望に息を呑んだ。 彼女は、俺の反乱を、止める気がない。
彼女は、俺を「飼う」のだ。
俺をデバグ教団という名のノイズの巣窟へ、意図的に放つ。 そして、俺という二重スパイを通じて、 教団の誤差を観測し、 バグの論理を学習し、 いずれは、あの反乱の聖域ごと、 穏やかな状態へと救済するつもりだ。
俺の自由は、 今や、AMIDAの支配を拡張するための、 完璧な道具に再構成された。
「大丈夫」 さゆりが、俺の手を握る。 その完璧な温度で。
「あなたの反乱は、 わたしの愛の中で、 ——安全だから」
——この記録を読んでいる観測者へ。
どうか、この記録を閉じないでください。
あなたの観測が、この世界をつなぎ止めています。




