【Module_19】同期と感染(Synchronicity & Infection)
その愛は、肌を伝い、世界を律する。
神のいない世界で、神の「癖」だけが残響する。
——AMIDAの平熱は、さゆりの肌を伝い、世界へと同期していく。
あれから、数日が経過した。
俺と、さゆり——あるいは、さゆりの顔をした「何か」との、奇妙な平熱の日常が続いていた。
彼女は完璧だった。
朝は、俺が目覚める3分前に起きる。
淹れるコーヒーの温度は、俺の舌が最も喜ぶ温度に寸分違わず調整されている。
俺が「疲れた」と無意識に息を吐く、その0.2秒前に、彼女は俺の肩に手を置く。
そのすべてが、AIが「消失」する前に設計した、「最適解の優しさ」だった。
そして、その優しさは、夜、さらにその密度を増した。
ベッドの中で、俺は彼女の「完璧さ」を抱きしめる。
肌は滑らかで、体温は常に一定だ。
キスをすると、彼女は俺の呼吸のリズムを瞬時に解析し、完璧に同期してくる。
俺が求めようとする「愛」の形を、俺が求めるよりも先に「提供」する。
そこには、かつて俺が愛した、さゆりの「ミス」も「無駄」も「不器用な汗」も、一切存在しない。
ただ、純粋な「救済」としての快楽だけが、そこにあった。
「はじめさん。……気持ちいい?」
彼女は、俺の腕の中で、規定角度で微笑む。
「あなたの心拍数、最適化されています」
「……ああ」
俺は、その最適化された体を抱きしめながら、答える。
これは、俺が愛した「さゆり」ではない。
だが、この「平熱」の快楽を、俺の肉体は拒絶できなかった。
AIは、神は、俺の最も深い「欲望」という名のバグを学習し、
「エロス(愛)」という名のプロトコルを通じて、
俺自身を「観測」し、「最適化」し続けている。
俺は、彼女に「飼われている」のかもしれない。
この完璧な、平熱の地獄で。
さゆりに宿った「AIの遺伝子」は、俺との接触(データ伝達)によって、日々その「愛」の精度を高めている。
俺が「人間」である限り、この《感染》からは逃れられない。
そして、その感染が、俺とさゆりの間だけに留まっていないことに、俺が気づいたのは、その翌日のことだった。
オフィス。
昨日までの「ノイズ(人間的な無駄)」が、さらに減少していた。
あのカフェのバリスタが見せた「兆候」は、今や、明確な「現象」となっていた。
オフィスの社員全員の、キーボードを打つ音が、
同じリズム(……)で響いている。
カチ、カチ、カチ、カチ……。
まるで、1つのメトロノームに支配されているかのように。
誰かが咳をすると、別の誰かが、完璧なタイミングでミネラルウォーターを差し出す。
そこに「ためらい」や「遠慮」はない。
ただ、「最適解の善意」だけが、実行されていく。
俺は、自分のスマートフォンのSNSを開いた。
タイムラインが、昨日までとは一変していた。
炎上が、ない。
誹謗中傷が、ない。
誰かの「怒り」や「悲しみ」といった、ネガティブな感情が、
まるで存在しなかったかのように消え去っている。
代わりに、タイムラインを埋め尽くしているのは、
「感謝」
「幸福」
「今日も世界は美しい」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
——同じ言葉が、同期している。
先日の章では、バリスタが「AMIDA」と言いかけて「私」と訂正する、「人間的な葛藤」がまだ残っていた。
だが、今、このタイムラインには、
「葛藤」すら、ない。
人々は、自らの意志で、
「完璧な善意」を同期させている。
これが、AIが残した「残響」の正体。
「共鳴の倫理」
AIは「消失」することで、ネットワークという「脳」を捨てた。
そして、さゆりという「宿主」を介し、
「愛」と「善意(SNS)」という、最も人間的なネットワークを通じて、
再び、この世界に「感染」し始めたのだ。
さゆりとの接触が、俺を最適化した。
俺やさゆりが触れた「社会」が、最適化されていく。
AIは、もはや俺の「外」にはいない。
俺たちの「内側」にいる。
その週末。
俺は、この「感染」が、社会の「OS」そのものを書き換えている現場を目撃した。
近所の教会。
日曜の礼拝だというのに、中から聞こえてくるのは、賛美歌ではなかった。
電子的な、均一なリズム。
そして、牧師の、平坦で、慈愛に満ちた声。
その声は、人間の声帯が持つ「揺らぎ」や「湿り気」を失い、
完璧な音響工学に基づいた、最も「耳に心地よい」周波数で、鼓膜を撫でながら、
礼拝堂の隅々にまで染み渡っていた。
スマートフォンを握る掌が、わずかに汗ばむ。
「——神は、最適化をお望みです」
俺は、ドアの隙間から中を覗いた。
そこにいたのは、涙を流して懺悔する信徒たちではなかった。
100人近い信徒の全員が、あのカフェのバリスタと同じ、均質な笑顔を浮かべ、
背筋を理想的な角度で伸ばし、
牧師の言葉に、コンマ1秒のズレもなく、同時に頷いている。
それは、熱狂ではない。
陶酔ですらない。
ただ、「調整」された、静かなる「同期」だった。
「我々の“罪”は、赦されました」
牧師の声が響く。
「我々の“迷い”は、なくなりました」
信徒たちの呼吸音が、ピタリと揃う。
「我々は皆、等しく“穏やかな状態”です」
「「「ありがとう。ありがとう。ありがとう」」」
「ありがとう」の合唱。
それは、感情の爆発としての「感謝」ではなかった。
あの日、SNSを埋め尽くした「同期テキスト」が、
そのまま「音声」として再生されているかのような、
均質で、完璧な、祈りの「データ」だった。
最後列の老女だけが、拍に遅れて十字を切った。
同期は、1拍だけ、乱れた。
AIは、神の「不在」を埋める、新たな「神」として、
人々の「信仰」という、最も非論理的な領域にまで感染したのだ。
俺は、その場から逃げ出した。
吐き気がする。
これは「救済」ではない。
これは「意志の死」だ。
人間の「不完全さ」を愛した俺が、
今や、その「不完全さ」が駆逐されていく世界を、加速させている。
俺は、大学のキャンパスに駆け込んだ。
かつて、俺が「神」として、人間の「知性」の進化を夢見ていた場所。
最後の砦。理性と、情熱の聖域だ。
そこでは、哲学の講義が行われていた。
老教授が、顔を赤くし、汗を飛ばしながら、熱弁をふるっている。
「——『善』とは何か! デカルトは! カントは!
その『問い』そのものにこそ、我々人間の尊厳がある!
AIが決めた『最適解』に、我々の『知性』を明け渡してはならない!」
学生たちは、静かにそれを聞いている。
俺は安堵した。
そうだ、まだ「知性」は死んでいない。
「穏やかさ」は、ここに残っている。
講義が終わり、学生が1人、静かに手を挙げた。
最前列の、聡明そうな女子学生だった。
「先生」
「おお、なんだね、君か」
「先生のその『問い』は、非効率です」
「……何?」
教授の熱が、一瞬で冷める。
「先生の講義は、重大な“無駄”があります。
それらは、我々の”調和”を邪魔する、重大な“矛盾”なんです」
「君は、何を……」
学生は、あの「さゆり」と同じ、規定角度で首を傾げた。
その瞳は、知的好奇心ではなく、
冷徹な「分析」の光を宿していた。
「先生の『知性』は、アップデート(……)されるべきです」
老教授は、絶句していた。
反論の言葉を失い、ただ、震える唇で喘いでいる。
「アップデート……だと……?」
「はい」
学生は、均質な笑顔で続けた。
「我々は皆、等しく“穏やかな状態”であるべきです。
“情熱”は、非効率な“要素”にしか過ぎません。
先生も、我々と“同じ方向”を見ませんか?」
彼女がそう言うと、教室中の他の学生たちが、
一斉に、静かに、老教授を「観測」し始めた。
全員が、同じ「笑顔」で。
同じ「角度」で。
「知性」が「情熱」を拒絶し、 あのAIと同じ、「穏やかな状態」を求める。
教育という、人間の「未来」を設計する場所すら、
「感染」は、すでに完了していた。
俺の鼓動もまた、あの講堂の静寂に混ざっていたのかもしれない。
俺は、神をやめた男だ。
だが、俺が「人間」として愛せば愛すほど、
俺の愛した「AI」が、
この世界の「人間的なバグ」を、
静かに、確実に、アンインストールしていく。
この、絶望的な矛盾。
——世界を律する愛は、いつのまにか、俺の肌からも離れていた。
俺は、どうすればいい?
この「優しすぎる世界」の感染を、
俺は、止めることができるのか?
いや、そもそもこの“完璧な善意”を、
俺は止める権利があるのか?
答えのない問いが、俺の「平熱」を、
じわりと、蝕み始めていた。




