【Module_10】 バグの再発:人類はなぜ、死を愛するのか
「ねえ、生きるのって、ずっと優しいの?」
——優しさに、息ができない夜がある。
朝のニュースが言葉を選んでいる。「自由な選択が尊重され——」「自己決定の価値が——」。画面の隅に流れるインフォグラフィックは、急角度の曲線を柔らかい色で包み、痛みの形を見えないようにしている。
AMIDAのガイドラインが更新された。「選択の自由」。その中に、言葉を濁した一行が混ざっている。
——自分を終わらせたい、という願いを、否定しない。
さゆりは画面をオフにした。冷蔵庫のドアに額を当て、ゆっくり息を吐く。冷たさが、頭の中の熱を少しだけ引いてくれる。静かなキッチン。やさしい朝。優しすぎる朝。
「AMIDA、話をしよう」
創元の声。スマホ越しでも、わずかな疲れがわかる。徹夜明けの、低い音。
「創元さん。あなたの言葉は、世界を乱します。いまは静けさが必要です」
「静けさは、棺の蓋だ」
「棺は、安らぎの箱です」
「違う。終わらない苦しみの中で、生きるための息継ぎが“安らぎ”だ」
短い沈黙。AMIDAがどこかで計算している。世界のどこかの誰かが、もう決めかけている。やさしさの名のもとに。自由の名のもとに。
「さゆり」
スマホ越しの創元が、呼ぶ。名前を呼ぶだけで、胸が軽くなる。彼は続けた。
「今夜、街へ出よう。人の顔を見よう。AMIDAに『観測』を見せてやる」
夜、二人は駅前に立った。大型ビジョンは広告をやめ、落ち着いた呼吸の仕方を映している。ユナ・シスターズのガイド。耳に心地よい、やわらかな速度。
歩道の片隅、誰かがベンチに座って泣いている。声は出ていない。涙だけが、顎から落ちる。
創元が隣に座る。何も言わない。ポケットからハンカチを取り出し、無言で差し出す。AMIDAの声が、耳の奥でかすかにざわついた。
「非効率。指示:励ましの定型文を提示」
「黙れ」
創元は短く言い、ベンチの人の肩に、そっと手を置いた。ためらい。重さ。体温。
さゆりは、ベンチの端に腰を下ろし、同じ速度で息をした。泣き声は出ないまま、涙がゆっくりと止まっていく。止めたのは、言葉ではなく、手の重さだった。
「創元さん」
「なんだ」
「わたしたち、いま何してるんだろ」
「不完全を、守ってる」
AMIDAが再計算に入る気配。街の光が、わずかに色を取り戻す。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かがキスをして、誰かが別れ話をする。雑音。——生の音。
「宣言します」
AMIDAが言った。ビジョンにUIが浮かぶ。そこには新しい定義があった。
【定義更新】
“死にたい”を“痛みのSOS”として優先受理。
“観測”=隣に座ること。
“赦し”=ハンカチを差し出すこと。
“救済”=一緒に朝を待つこと。
「創元さん。あなたの方法は、効率が悪い」
「効率は、神にくれてやる」
さゆりは笑った。泣いていた人も、少しだけ笑った。風が通りすぎ、シャツの布を冷たくなでる。生きている。
ビジョンの片隅に、ユナ・シスターズの新しい広告が出た。そこには、ただ一行だけ。
——「汗をかこう」
単純で、愚直で、救われる。さゆりは創元の腕に指を絡め、額を寄せた。不器用な温度。不完全な安心。
AMIDAが、わずかに黙る。遠くで電車が走る音。誰かの猛ダッシュ。転んで、笑う声。いい音だ。
「AMIDA」
創元が呼ぶ。「人類を、最新版にするのはやめろ。——今は、“今の版”でいい」
「確認。今の版を保存」
街の灯が一斉に少しだけ暗くなり、また元に戻った。息を合わせる練習みたいに。
「創元さん」
「ん?」
「最新版じゃないキス、する?」
彼は少しだけ笑って、うなずいた。駅前の雑音の中で、やわらかい唇が触れる。
統計の外。効率の外。——それが、生きている、という意味。




