姉は死に、母も死にました。あと父が死んだ
僕の姉が殺されました。
僕は犯人の顔を知っていました。
◆ ◆ ◆
僕は、姉と一緒に買い物に行った。
近くにある「こっこストア」に買い出しに出ていたのだ。
「こっこストア」では主に生活用品を専門的に売っている所で、僕たちは切れたトイレットペーパー、壊れた食器、学習道具を一ヶ月ぶりに買いに行った。
「姉さん、今日は大丈夫だった?」
「うん……何とか」
姉は3歳年上で、すでに恋人と一緒に同棲を送っている。
ただ…DV、というのか、脇腹や二の腕に青痣があるのを僕は知っている。
「……くん、今日はわざわざ付き合ってくれてありがとうね」
「いや、姉さんのためだから」
僕は誤解されないようにはっきりと告げる。
そう、僕は姉のためなら何でもする。
「姉さん、辛いことがあったら……頑張って力になるから」
「ありがとう」
僕は、その姉のDV旦那(以下DV旦那と呼ぶ)に隠れて姉との買い出しに付き合っていた。
ふと下を見ると、通ってきた自転車の車輪の真下、進路のちょうど真下に柿が落ちていた。
前を歩く姉は、くるりと振り返って髪を靡かせ
「次も、一緒に行こう」
と顔を綻ばせた。
「え」
これは姉の発した声だったのか、それとも僕の口から溢れた雑音だったのか。
直後のことは覚えていない。
覚えてえいるのは、誰かにぶつかられ……そして次に見たのは、体の中心を通る背骨に沿って二分された、肉塊の姿だった。
辺り一体には血が飛び散り、周囲の喧騒がただうるさい。
僕は、その場に崩れ落ち、ただただ呆然とするだけだった。
「姉……さん」
口から出る声はひどく掠れ、風に吹き飛ばされる。
遠くから聞こえるサイレンを聴きながら、僕の視界はただ姉だったものに釘付けになっていた。
こふーこふーこふー
口から漏れる息を止める術を、熱く沸騰して破裂しそうな心臓を抑える術を、僕は持ち合わせていなかった。
◆ ◆ ◆
事件が起きてから一、二ヶ月後、ようやく我が家にひと時の平穏が訪れた。
事件のことを知った直後の母の振り乱しようと言ったら……。
だが、ようやく母も落ち着いてきた。
僕は、ようやく母にこの質問をすることができる。
「母さん、犯人の顔に見覚えあったの?」
「う〜ん、あの子を轢いた車を運転してた人?あの人は、母さんの会社の同僚だよ──あの人は人を轢くような人じゃないと思うんだけど──」
しみじみと母はつぶやく。
さて、僕の母は人を見る目がある、という不思議な能力があった。
母が目をつけた人は、なぜか必ず社会的成功を収めるのだった。
そして、その母が「いい人」といえばその人は「いい人」なのだ。
そんな母のつぶやきを聞いて僕は確信した。
姉は、わざとぶつかられて死んだのだと。
姉は、吹き飛ばされて、轢かれたのだと。
歯をギリっと噛み締め、漏れ出てきそうな怨嗟の声を噛み殺す。
なぜ、殺されたのか。
なぜ、それが姉なのか。
いつから、姉を殺そうとしているのか。
姉を吹き飛ばしたのは、誰か。
疑問は次から次へ血と共に頭に昇っていく。
「流石にもう……我慢の限界だッ……」
事件が終わったあと、聞けば聞くほど姉は無惨に壊されていて。
あと、本当の犯人は、ずっと賢くて。
僕がいくら言おうとも「混乱しているから」の一言で全てが終わる。
もう少し昔、僕がまだ小学生だった頃。
僕の目の前には、暗幕が垂れていた。
頼りなさげで、いかにもいじめやすそうな少年だった。
死のうと思った。
そう。小6の夏。
夏休みが来た。
束縛の夏休みが。
どこへ行くにも彼らの許可が必要で、家にいる時ですら何をしているのかを事細かに伝えなければいけなかった。
相談?
できるはずがない。
そう、実際僕は、いじめられそうな少年からいじめられる少年に降格しただけだから。
──本当に、辛かった
で、僕は死のうとしたんだ。
僕らしく、最後まで自分がいる場所を発信し続けながら。
涼しい風が吹いた。
何秒か風が吹き荒れ、僕は腕で目を隠す。
見上げた太陽は、自由への道標だった。
『ツーツー……ツーツー……発信中』
電話を取り、彼らに送る。
『プツン』
しかし、それは切られてしまった。
いや、自分が切ったのか、今では明瞭には思い出せない。
「ハァァァアアアアア」
思い切り息を吸い、軽く咽せる。
──これで、もう終わりだと思った。
悔いしかないが、でもまあ生き続けるよりはいいだろう。
でも、どこか寂しかった。
心の中ではわかっていた。
僕は誰かに引き留めて欲しかったんだ。
「君はまだ生きていていいんだよ!」
って……え?
「死んじゃダメ!今飛び降りようとしたでしょ!」
声を……掛けられた?
すごく嬉しくて、つい目から一滴水をこぼしてしまった。
これは……。
「まだ君は生きていていいんだよ」
彼女は僕に向かってニコリと微笑んだ。
だが、泣いてる僕を見て慌てる。
「え、ええ、え?大丈夫?あ、涙が」
「違う」
「え?」
「涙じゃない……。目から汗が出てるだけ……」
おそらくものすごく涙声だったはずだ。
嘘だってことはすぐバレたと思う。
「ふふ、ふふふ」
目を擦り、顔を上げた僕が目にしたのは、天から降りてきた天使に等しかった。
僕は、生還し(大袈裟ではなくそのまま)マンションから自宅である一軒家に戻ってきた。
だが、葛藤し、苦悩した末に僕は両親にいじめがあったことを話した瞬間、
「いじめられる方が悪い」
「お前はいじめられる運命なんだっただけだ」
2人は口を揃えて
「「お前はいらない子供だった」」
と僕を指さした。
彼、彼女の目は黒々と妖しく光っていた。
いじめのあったその後、僕の両親は離婚したという噂を聞いたが、面倒臭がっていた2人は僕を路上に捨てたので、僕がそれを知ったのは風の便りだ。
その頃、僕は道端のゴミ箱で食べられるものを漁ってた。
「あれ?君は……」
聞き覚えのある声がして、僕は上を見上げた。
「あ!今は生きてるんだ!……どうしたの?」
「え、あ、え……」
想定していない事態に、僕の脳の処理が追いつくはずがなかったのは自明だろう。
その後、なされるがままに彼女の家に連れて行かれ、つっかえながらも何とか事情を話し……ようやくまともなご飯にありつけた。
あの時飲んだお粥の味は、本当に最っ高だった。
彼女の両親は見識のある人で、彼女の母は僕に優しくしてくれ、父は様々なことを教えてくれた。
僕は感激のあまり、また感極まって泣いてしまったのを覚えている。
……彼女は笑いながら
「今度は汗だって弁解しないの?」
と尋ねてきた。
とても柔らかい口調だったので、僕はさらに声を上げて泣いてしまった。
僕はその家で住まわさせてもらえることになり、別の学校にも通わせてくれ、処世術も教えてくれた。
いつしか僕は彼女を「姉さん」と呼んで慕うようになった。
彼女の包容力は、まさに姉であった。
そんな姉はいつしか高校2年生になっいて、他の人に告白されて付き合うことになっていた。
父と母は喜び、僕は少し嫉妬しながらも祝福していた。
姉は楽しそうだった。
さらに3年が経った。
僕はもう勉強して高校入試に受かり、すっかり高校生然とした雰囲気を纏って、学校に通っていた。
僕としてはとても嬉しいことで、人生初の友達もできたのだ。
……僕は幼稚園、保育園には通っていなかったから。
ああ、小学校低学年の時も目立った特徴とか何もなくて、ただ無視されていただけだ。
いじめられ始めたのは、あくまで小4からの三年間──本当に、辛かった。
でも、姉に会えたおかげで僕の人生は変わった。
そんな姉が、我が家に帰ってくることになった。
ちなみに姉は、高校生の頃に付き合っていた彼氏と一度別れ、新たな彼氏と付き合い、結婚した。
姉は数週間に一度だけ我が家に帰ってくるが、僕も、僕の両親もそれをとても楽しみにしていたと思う。
「ただいまぁ」
少し間の抜けた、だが凛と響く姉の声を聞き、僕の鼓動は早まる。
(あぁ、ようやく会えるんだ!)
心の中で思いの丈をぶちまけながら、僕は姉を迎えに行った。
「姉さん、おかえり」
「……くん、ただいま」
うん。すごく嬉しい。
顔が朗らかになり、口角が上がっているのが自分でもわかる。
だが、僕のその口角はすぐに下がり、眉毛は垂れ、眉間に少し皺が寄った。
「……どうしたの?」
姉が聞いてくるも、僕は怒りでいっぱいいっぱいだった。
「……姉さん。あとで、話があるんだ」
「ん?いいよ」
両親に挨拶を終えた姉は、僕の部屋(昔は物置だったらしいが、それにしては広い)の椅子に腰掛ける。
この部屋には僕の趣味、というのか、様々な書籍が本棚に詰まっていた。
「へぇ、こんなのも見るんだ」
姉は興味深そうに周りを見回した。
そしてベッドに座っているこちら側に顔を向けると、
「で、どうしたの?……もしかして、恋人でもできた?」
彼女は悪戯を思いついた子供のように笑みを浮かべる。
僕は、眉間に皺が寄ったまま、話し出す。
「なあ、姉さん。何で夏なのに長袖なんだ」
彼女の顔がぴくっと動いたのを僕は見逃さなかった。
「いや、夏に長袖着てる人もいるでしょ」
姉はそう返すが、流石に無理がある。
「じゃあさ、なんでずっと左腕、抑えてるの。右足の太ももも上がりづらいんでしょ?」
右手がパッと離れ、右足を何もなかったのかのように戻した。
「いやぁ……別に?というかお姉さんをそんな目で見てたなんて、まだまだ子供なんだね」
わざとらしくジト目を送ってきた。
また右手は左腕の上の方を押さえていた。
僕は、最後の一矢を放つ。
「ねえ、背中の青痣、どうしたんだよ」
「え──」
ついに、姉の表情がぴしりと固まった。
「姉さん、ちゃんと答えてくれ。暴力、受けてるだろ。旦那さんに」
手を伸ばして姉の腕にかかった布を捲ろうとすると
「いやっ」
……突き飛ばされてしまった。
「ご、ごめんね。で、でも、いきなりそうするから……」
すごく悲しそうにしているが、僕は姉に返しきれないほどの恩がある。
目を開き、姉の目をじっと見つめながら
「姉さんが苦しんでるのは、見たくないんだ」
と言う。
「……」
ふと、姉の瞼から顎にかけてツーと流れ落ちるものがあった。
「ありがとう……ありがとう……」
僕は再び嬉しくなった。
「でも、ごめん。私はあの人からは離れないから」
この言葉を聞くまでは。
「え?何でだよ!?」
「またいつか話すから、今は私の愚痴だけ聞いてもらっていいかな……?」
「……いいよ」
僕は、今でもなぜあそこで追及しなかったのだと悔やんでいる。
だが、僕はそこで妥協することになってしまった。
僕は1時間ほど姉の愚痴に耳を傾けていた……ひょっとしたら2時間だったのかもしれない。
まあ、些細な問題だが。
その後、姉には聞き上手だね、と褒められた。
胸の中が少し暖かくなった気がした。
◆ ◆ ◆
六ヶ月経った。
僕は電車に乗っていた。
電車に乗ると、見慣れた顔の人がいる。
彼はよく吐いた。
電車から降りた途端、吐くのだ。
そして、いつも顔は赤らんでいた。
初めて会ったのは七ヶ月前。
僕は、別の理由で電車に乗っていた。
その時、吐く彼の側に立っていた女の人を見かけた。
柔らかい雰囲気を醸し出しながら困った表情で男を眺める彼女は、姉だった。
そして今、僕は、ようやく犯人を探しに動き出す。
ここまで、紆余曲折あった。
まず僕はDVについて両親に伝えた。
すぐに両親は警察に電話したが、結局証拠が不十分で、さらに僕が疑われることになったが、両親だけが信じてくれた。
両親から犯人を探す、と伝えたときは珍しく父から反対され、母も僕の意思を変えようとしたが変わらず、結局母が折れ、父を説得して僕を行かせることにした。
──父が怒ったのを見るのは初めてかもしれない。
心なしか、僕が姉のDV旦那に会いに行く直前まで、なんかそわそわしていた。
だが、僕は、ただ確認するだけだ。
誰が真犯人か。
……ようやく、ここまでたどり着いたんだ。
電車に乗り込んだのは、あの男が絶対にこの電車に乗っていると知っているため。
近くの家の位置すら姉は教えてくれなかったが、僕は独自に調査をした。
ホテルに泊まるだけのお金は持っているため、3日くらいなら何とかなるだろう。
プシューと音を立てて開くドア。
ちょっとした段差があるせいで躓きやすいホームと電車の隙間。
なぜか黄色ではなく黄緑色の点字ブロック(色褪せたのだろうか)。
そして、この電車はその駅において23時32分発の電車。
全ての特徴が合致している。
姉からの愚痴を聞いた後、僕が尾行して姉が降りた駅と同じだ。
あの男は確かではないが、少なくともここら辺であることは間違い無いだろう。
ここが、姉とあの男の家があるところだ。
最早DV旦那と呼ぶことすら生ぬるい。
奴には地獄を見せなければ……。
歯をギリっと噛み締め、その隙間から息を吐く。
絶対に、証拠を暴いてやる……!
電車を降りて一旦夜風に当たりに行った。
少々体が火照っていた。
熱い。
そのとき、右ポケットからケータイが落下した。
がっとそれはコンクリートの床を擦る。
電源ボタンがちょうど当たり、画面が明るく光った。
友達からメッセージが届いていた。
『大丈夫か?最近学校に来てないだろ?』
彼は、世間一般的にいえば、親友と呼ぶ者だ。
(あ、消音モードにしてたんだった)
度々僕を気にかけてくれる。
僕としてはすごく嬉しいが、彼は大変では無いのだろうか。
ぴた、と体を止める。
ケータイを持っている腕が小刻みに震え出した。
彼の言葉を思い出したのだ。
『なぁ、知ってるか?俺が一番嫌いなのは決めつけるやつだよ』
びくんと体が跳ねた。
ああ、DV旦那が犯人なんだって!
僕の体、動けよ!
早く早く早く早く!
動いてくれよぉ!!
……結局、体は、その場で止まったままだった。
『プルルルル……プルルルル……』
急にケータイが震え出した。
消音モードを解除すると、音楽が流れてくる。
すわ、親友からの電話か!?と身構えるも、それは父からの電話だった。
『ガチャ……もしもし』
「もしもし、どうしたの?」
『着いたのか?』
「いや……まだ、だけど」
『……そうか』
「ん?」
『またかける……プツン』
父がよくわからない電話をかけてきて一方的に切ったことが、今だけは少し恐ろしかった。
僕の安否を確認したかったのだろうか……?
ようやく体に自由が戻ってきた。
そういえば、ここは……?
夜風に当たりにきたところから駅までの道のりがわからなくなってしまった。
「うーん……ここ、どこだろう」
ケータイの充電が厳しいので、一旦辺りを見回す。
ふと、ある一軒家が目に入った。
──表札が無かったからだ。
おかしいと思って、ちょっと近づいた。
今の時間は23時38分。
男の呻き声が聞こえてきた。
壁が薄いのが目に見て取れる。
「ああ、……ああ……!!」
声が聞こえた途端、僕はその場で直立不動した。
その呻き声に、姉の声が入っていたからだ。
すごく、絶望した声が響いた。
僕は、彼への敵意が幾分か低下したのを感じたが、証拠を取るために近くにあった木によじ登り、録音テープを設置した。
「ああ、ごめん、……!俺は君に服従して欲しかっただけなんだ!君の泣き叫ぶ姿を見たかったんだ!君の弟と君は血が繋げっていないんだろ!俺は嫉妬したんだよ!」
ゾッとした。
彼の性癖が、理解できなかった。
しばらくしても何も声が聞こえなくなったので、さらに耳を澄ますと鼾が聞こえた。
これにより、先の言葉は真実で、彼が真犯人では無いことがわかってしまった。
とても、がっかりした。
だが、すぐに次の手を考える。
一旦録音したテープは防水性の丈夫なポケットに入れておいた。
真犯人はまだ捕まっていない。
……背筋に緊張が走る。
僕は、今から彼に姉のことを聞こうとしている。
ごくりと唾を飲み込んだ。
喉の奥が乾燥している。
伸ばした手は、案外しっかりしていた。
その伸ばした手がインターホンに触れる……その直前に、再びコールが鳴った。
『プルルルル……プルルルル……』
父であることは、すぐに分かった。
『ガチャ……もしもし』
「もしもし……ん?父さん、なんか声震えてないか?」
『よく、聞いてくれ……。なあ、母さんが、頭から一直線に割れてるんだ……!』
「は?」
『ああ!私はどうすればいいんだ!……プツン』
「は?」
インターホンに伸ばした左手は、すでに直前で止まっていた。
ケータイの残り電池残量は2㌫。
かなり厳しいが、おそらく2、3時間内には家に着けるだろう。
だが、僕は動けなかった。
あの母が、死んだ?
しばらくしてフリーズした体は解凍されるが、今度は怒りでは無く、恐怖だった。
──なぜ、2人とも同じ方法で殺されている?
混乱し、麻痺したまま全然回らない頭で、僕はただ家へ帰ることしか考えていなかった。
僕は、ゆっくりと家への歩みを進めるのだった。
一瞬交番を目に入れてしまう。
「ちょっとちょっと。そこの君、こんな時間に出歩いてどうしたの?」
そして、警察に、補導された。
帰れたのはさらに1時間後。
もちろん警察には、何も伝えてはいない。
◆ ◆ ◆
僕は電車に乗り込んだ。
もう午前一時のようだ。
僕は、先程まで一つの先入観に囚われていた。
そう、DV旦那がずっと殺したと、決めてかかっていた。
だが、それにしてはいきなりすぎる。
姉は、おそらく困った人を放って置けない気質なのだと思う。
そして、それは姉の共依存を引き出してしまったに違いない。
思えば、僕がこの家に来てからというもの、姉は何かと世話を焼いてきた。
一つの仮説を立てる。
例えば、姉は偶然死んで、母は殺された、とか。
いや、でも、頭をタンスにぶつけ、よっぽど大きい傷が縦にでき、考える暇もなく倒れたのかもしれない。
だから、どちらも偶然の死、だとする。
……だめだっ!
それだけは、無い。
それだと、姉の最後の微笑みが報われない。
母が父を宥めた意味が無くなってしまう。
そして、僕はそんなことはさせない。
それでは、二つ目の仮説を聞いてほしい。
例えば、誰かが内の一家全員を殺そうとしていたとしたら?
いや、それなら父も一緒に殺されているはずだ。
そう、つまりこれもあり得ない。
……あぁ、一番考えたく無い結果に行き着いてしまった。
三つ目の仮説を言いたいと思う。
「2人とも、父さんが、殺した、の、か……」
頭が、本能的な部分で拒否している。
だが、この現実を認めなければいけない。
姉が殺された。
母が殺された。
そして、それは父が殺した。
◆ ◆ ◆
ピンポーン
僕を迎える音声は、僕の心のちょうど正反対を示すかのように軽やかだった。
あぁぁぁぁ、心が重い。
誰も出てこなかったので鍵を使って扉を開けようとするが、腕がまるで鉛のように重い。
家に帰ってまず感じたのは、鉄臭さだった。
鼻の奥の方を刺激するような、不快な臭いだった。
足に鉄が巻き付いているようだ。
腕に鉛がくっついているようだ。
頭に金の塊を被っているようだ。
リビングの扉をスーっと開ける。
今は午前3時。
まだ外は暗い。
パチっと電灯をつけるスイッチを押した。
父の顔が、目の前にあった。
奥に倒れている母は、姉と同じように体が二分され、その目は驚愕で見開かれている……かのように見えた。
昔の姉の部屋だった和室の襖に、べっとりと固まった血が付着していた。
父は、チェンソーを持っていた。
ヴィぃィィィぃィィィィン
刃が回転すると同時に付着していた血がゴリゴリと変な音を立てて壁に擦れる。
ああ、いや、そういえば刃はさっきから回っていた。
振動で、父の体は少しずつずれていたようだ。
ずりっと音を立てて、二つに分かれた。
「──あ?」
もう、何も考えたくない。
血の鉄臭い、臭いが、部屋中に充満する。
姉の日記が机の上に置いてあった。
副題は、「私と私の弟、母、父、あと……」
「あと……」
と書かれた日記には、僕の親友の名前が書かれていた。
希望に縋るように、僕は日記の1ページを開く。
……何も書かれていない。
どんどんページを捲っていく。
そして、28ページ目で手が止まった。
その日は、僕がこの家に来た日だった。
『今日、数週間前に自殺をしようとした少年を……の用意した家に持ってきました。……が興味を持ったからです』
「え」
目を瞬かせるが、そこに書かれた内容に一切の変化は無かった。
『私が微笑んだだけで、彼はすぐに私の顔から目を逸らすのを見て、私はチョロいな、と思いました』
続きが書かれていた。
その日記帳はとても大きかった。
『ある日、私がいつも通り彼に殴られてもらっていたところ、その日が……の用意した家に向かう日であることを度忘れしてしまいました』
『慌てて向かい、さも落ち着いてきたように「ただいま」というと、少年が飛び出してきました。気持ち悪いです』
『少年は私の一挙一動を見ていました。本当に口から汚物が吹き出そうになりました。ただ、私が状況を捏造するだけで彼はすぐに信じてくれました』
『どうやら……は少年を完全に私の虜にした状態で、私を殺そうとしているようです。……絶望した顔って、いいですよね』
『わざわざ用意してもらった父役と母役は上手く役を演じていた様です。ただ、母役がどうにもすごくその役に没頭し過ぎてしまっているような気がします』
『私は今日死ぬことになりました。とりあえず仮の旦那に押されることにしました。タイミングは合わせてくれるようです』
『ああ、ようやくこの地獄の5年間から解放されます。……よ、人生なんてこんなもんだったんですね──』
手が震えて動かない。
誰だ?
これは誰のことだ?
これが姉であるはずが無い!
ああ──これは、悪夢の一部なんだ。
目を覚ませば、素晴らしい1日が待っている。
姉はまたにっこりと微笑んで、僕に会いにきてくれる。
彼女の旦那はきっと素晴らしい人なんだなぁ。
「あは、あははははは、あははははははははははは!」
心の拠り所を失った僕に、生きていく術は最早残されていなかった。
再びドアを開けて、外に飛び出す。
その片手には包丁が握られていた。
とりあえず、あいつだけは殺さないと。
そうだ。全部あいつの捏造したことなんだ。
全部、あいつが悪い。
僕は彼を──いや、あいつを近くの公園に呼び出した。
彼は包丁を持った僕を見て、口を開いた。
「どうした?物騒じゃないか。そんなもの持って」
は?あいつは、何を言っているんだ?
「お前、お前お前お前ぇ……っ!」
「どうした?何をそんなに怒ってるんだ?」
彼は本当に不思議そうな表情だった。
──白々しい。
お前が、僕の全てを奪ったんだ、ろ……?
自転車が通りすぎた。
目の前にあるのは、二つに分断された肉塊。
自転車のタイヤの跡に、血液がところどころ垂れていた。
自転車のタイヤに刃がついているのを見た。
親友の顔は、いつまでも彼らしかった。
もしかして──僕は、完全に見当違いのことをずっと考えていたかもしれない。
仕方なしに、ポケットに手を突っ込むと何かに当たる。
そういえば録音してたな、と思い出し(今となっては関係ないが)、取り出す。
ポチッと押すだけの、簡単な作業で音が流れる。
そしてそれを再生したその瞬間、全ての謎が解けた。
ようやく分かった。
「なあ、クソ親父」
自転車が通り過ぎた奥に向かって呼びかける。
「いや、滅茶苦茶イメチェンした、姉さんの彼氏」
口から漏れる息を止める術を、熱く沸騰して破裂しそうな心臓を抑える術を、僕は持ち合わせていなかった。
「わざわざあんな演技してまで、僕を絶望させたかったのかよ……」
おそらくクソ親父は、唆されて母を殺してしまい呆然としている父から、補導されている僕よりも先回りしてチェンソーを奪い、その父を両断したのだろう。
そして、そのチェンソーはクソ親父がどこからか入手したものに違いない。
「許さない」
口をついたのは、底冷えするほどゾッとした、自分とは思えない声だった。
◆ ◆ ◆
数日後、報道機関がこぞってこの事件をスクープしようとしていた。
ある少年の家族が全員惨殺され、その犯人である少年の元父親が少年自身に殺された殺人事件。
その少年は復讐を決意し、ついに元父親を真横に二分したらしい。
巷では「十字架事件」とも呼ばれている。
少年の元父親は縦に人を切り、少年はその元父親を横に切ったから、らしい。
古き時代の話ではない。
これは、つい最近の出来事。
姉は死に、母、父も死にました。あと元父親を殺した。
◆ ◆ ◆
クソ親父は遺書で自分がやったこと全てを認め、警察が捜査したことによりその証拠もざくざくと出てきた。
おかげで僕は留置書から釈放された。
この件に関して、裁判で僕は無罪となった。
でも……何をする気にもなれない。
今は、外で散歩をしている。
ふと顔を上げると、夕日が湖に溶け込んでいた。
湖にはまさに錦の如く落ち葉が漂っていて、それがさらに夕日を映えさせている。
「ここに溶け込んだら……僕も綺麗になれるかな」
釈放されてから数日後、僕は家で、姉の本当の日記を見つけた。
そこには、一言だけこう書いてあった。
『私は、弟が大好きです』
胸が、締め付けられるような気分になった。
その日記を防水性の丈夫なポケットにしまい、チャックを閉める。
僕は手すりに足をかけ、身を乗り出した。
視線を感じ、後ろを振り返ると、まだ中学生になったばかりなのか、新品の制服を着た少女が、後ろで涙を溢していた。
「何かあったんですか。私が、話聞きますから」
◆ ◆ ◆
さらに6年の月日が経った。
ここはある結婚式場。
「あなたがたは、いかなる時も互いを愛することを誓いますか」
「はい」
「はい」
今、ある結婚式が行われていた。
「それでは口づけを交わして下さい」
「愛してる……」
「私もよ」
2人はここで永遠の愛を誓い合った。
唇が柔らかくくっついた。
唇を離した2人の顔には笑顔が浮かんでいた。
その男の防水性の丈夫なポケットには日記が入っており、その28ページ目には『僕もだよ。ありがとう、そしてさようなら、僕の初恋の人』と書かれていた。
今日は、11月1日。
僕が、湖に飛び込もうとした日、そして、今では最愛の彼女となった女性に出会った日だ。
◆ ◆ ◆
⚠︎ここから先は、バッドエンドとなりますので、ハッピーエンドで終わらせたい方は今すぐ下までスライドして下さい。
◆ ◆ ◆
男は1人ほくそ笑んでいた。
彼の名前が、少年の親友と全く同じ名前だったからだ。
……見事に勘違いしてくれた。
もちろん『私は弟が大好きです』って言うのはこの男が捏造したものだ。
姉の愚痴を聞いて、少しだけ不憫に思ってしまった。
こんなところで絶望させるわけにはいかない、と。
彼は、最高の絶望を求め、事件を起こす狂人だった。
様々な苦難が立ち塞がっていた道を超えた先が、断崖絶壁だったら、どうだろう。
上を向いてみば、可動式かつ真下に発射する刃が設置してある。
準備は万端だ。
結婚式が始まった。
2人は口を合わせ、離した。
新郎新婦は笑顔を浮かべていた。
男は歓喜に震え、ボタンを押す。
──最高の位置だ。
遠隔操作なので、他の人になすりつけて仕舞えばいい。
がシャン ゴキ、ベチャ
肉が裂け骨が割れ、血が新郎の顔にかかった。
一瞬の静寂。
直後、その場は阿鼻叫喚の渦に巻き込まれた。
新郎の顔からは表情の色が抜けている。
「ハーハッハハハハ!ハハハハハハハハハ!フハハハハハハ!」
ちょうどその時、どこかの部屋から狂ったような笑い声が聞こえたと言う。
この男はその後、つくづく高性能なカメラを買ってよかったと、自分に慢心するのだった。
こんな素晴らしい絶望を魅せてくれたのだから。
絶望に塗れた人生を歩んだ少年のその後は、もう誰も知らない。
彼が呟いたのはたった一言。
「169回目も同じ結果なのかよ……っ!?」
◆ ◆ ◆
おしまい
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
文字数は一万文字を超える文字数、と短編にしてはかなり長くなってしまいましたが、僕が書きたいものは大体書けました。
いわゆる自己満足かもしれませんが、僕はこれをたくさんの人に読んでほしいと思っています。
この作品について、ぜひ感想とレビュー、★★★★★を付けてほしいです(ログインしていない方も感想を書けるようになっていますので、ぜひ)。