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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物9 返さなければよかったもの

### 忘れ物9 返さなければよかったもの


 帳簿には、成功と失敗の欄がない。


 あるのは、番号と日付と、短い備考だけだ。

 返却――完了。

 保留――棚へ。

 隔離――搬入。


 それだけ。


 だからモノカゲは、たまに困る。

 文字に残らないことほど、あとから戻ってくる。


 その日の朝も、机の上に帳簿を開いたまま、しばらくページをめくっていた。

 指先は、同じ場所で止まる。


 ひとつ前の月の、ある日の記録。


 管理番号と、品目。


「髪留め(白)」


 備考には、短くこう書いてある。


「返却。本人不在。玄関前。」


 たったそれだけ。


 モノカゲは、その行を何度も見た。

 見ても、何も増えない。

 なのに、目を離せない。


 その髪留めを返した日のことを、はっきり覚えている。


 白いプラスチック。

 小さな花の形。

 留め具のばねが少し弱くて、指で押すと柔らかく鳴った。


 触れたときの感情は、強くなかった。

 けれど、静かに深かった。


 朝の洗面台。

 濡れた髪。

 誰かの背中。


 そして、最後に残ったのは――


 「急がなくていいよ」という、言葉にできないやさしさ。


 だからモノカゲは、返していいと思った。

 そのやさしさは、戻っても痛くならない。

 そういう種類のものだと。


 返却は、いつも通りだった。

 持ち主を呼び出さない。

 気づいたら戻ってきている形。


 集合住宅の玄関前に、封筒に入れて置いた。

 誰にも見つからないように、でも見つけようと思えば見つかる位置に。


 それで終わった。


 終わったはずだった。


 机の上で、紙が擦れる音がした。


 仕分け担当が、箱をひとつ運んできた。

 見慣れた大きさ。

 ただ、今日の箱は少しだけ軽い。


「モノカゲさん。これ、反応あるやつ」


 モノカゲは頷き、箱を受け取った。

 ふたを開けた瞬間、胸の奥のどこかが、かすかに引っ張られた。


 中にあったのは、髪留めだった。


 白。

 小さな花。


 同じではない。

 模様が少し違う。

 角が欠けている。

 けれど、見ただけで分かる。


 似ている。


 モノカゲがそっと触れると、能力が静かに反応した。


 ――情景。


 夕方の部屋。

 薄いカーテン。

 床に散らばる段ボール。


 そして、感情。


 探している。

 探しているのに、見つからない。


 前に触れたときより、感情が薄い。

 悲しみも、焦りも、輪郭が弱い。


 まるで、誰かが遠くから呼んでいるみたいだった。


 足元の影が、少しだけ揺れた。


 カゲマルは、嫌がらない。

 色も変えない。


 ただ、目を細めたような気配を出した。


 モノカゲは、帳簿の記録をもう一度思い出した。


 髪留め(白)。

 返却。

 玄関前。


 同じ場所に返せばいい。


 それが正しいはずだ。


 けれど、胸の奥に残っているものが、指先を止める。


 ――もし。


 もし、あれは返さない方がよかったのだとしたら。


 考えるのをやめようとしても、浮かんでしまう。

 帳簿に書かれなかったことほど、頭の中で形になる。


 モノカゲは髪留めを封筒に入れ、外に出た。


 空は薄く曇っていた。

 雨の匂いはしない。

 ただ、光が少し鈍い。


 道はいつも通りで、人もいつも通りだった。

 コンビニの前で子どもが走っている。

 横断歩道の信号が点滅している。


 ――世界は、何も知らない。


 モノカゲは歩いた。


 集合住宅に近づくにつれ、足が少し重くなった。

 昨日と今日で変わるはずのない距離が、長く感じる。


 玄関前に立つ。


 前に来たときと、同じ場所。

 同じ階段。

 同じ掲示板。


 けれど。


 掲示板の紙が、剥がれていた。

 ポストの名前札が、いくつか外されている。


 モノカゲは、部屋番号を確かめた。


 ――名札がない。


 ドアの前は、妙にきれいだった。

 靴も、傘も、置かれていない。


 人の気配が、薄い。


 モノカゲは、その場で立ち尽くした。


 間違えた。


 そう思った。

 場所が違うのではない。


 時間が違う。


 階段の上から、足音がした。


 買い物袋を提げた男性が降りてくる。

 若いわけではない。

 年配というほどでもない。


 モノカゲと視線が合い、男性は軽く会釈した。


 モノカゲは迷って、封筒を胸の前で持ち直した。


「あの……この部屋の方、今……」


 声は小さかった。

 それでも聞こえたらしく、男性は足を止めた。


「……ああ。もう引っ越したよ」


 迷いのない答え。


「先月。急だったけどね」


 モノカゲは、頷くだけで精一杯だった。


「ここ、ずっと母子で住んでたんだけど」


 男性は言いかけて、少しだけ言葉を探した。


「……お母さんが、亡くなってさ。しばらくしてから、娘さんが片づけて……」


 モノカゲは、封筒を握りしめた。


 能力が、わずかに反応した。


 白い病室。

 窓。

 片方の手。


 そして、今の髪留めの感情が、薄く揺れた。


 探している。

 探しているのに、見つからない。


 男性は、続けた。


「片づけるの、早かったよ。……早いっていうか、そうするしかないって感じだった」


 モノカゲは、言葉を探した。

 見つからない。


 男性は封筒を見た。


「郵便?」


 モノカゲは首を振った。

 そうとも、違うとも言えない。


 男性は困った顔で笑った。


「ここ、今は空き。名義も変わった。……届け先、分かんないなら、交番とか……」


 モノカゲは、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、階段を降りた。


 外に出ると、風が少し強かった。

 髪が頬に触れ、すぐに離れた。


 封筒の中の髪留めは、軽い。


 軽すぎる。


 モノカゲは歩きながら、前に返した髪留めのことを思い出した。


 あれが戻ったとき、誰かは喜んだだろうか。

 それとも、痛かっただろうか。


 あるいは。


 戻ったから、片づけが始まったのだろうか。

 戻ったから、終わったのだろうか。


 戻ったから、捨てられたのだろうか。


 分からない。


 分からないのに、想像だけが増える。


 足元の影が、少しだけ寄り添う。


 カゲマルは、今日も何も言わない。

 けれど、影は離れない。


 センターに戻ると、倉庫の扉がいつもより重く見えた。


 保留の棚。


 そこは、待つための場所。

 まだ返せるかもしれないものを、置いておく場所。


 モノカゲは棚の前で立ち止まり、封筒を胸に抱えた。


 返せば、救いになるかもしれない。

 返せば、痛みになるかもしれない。


 どちらも、断定できない。


 けれど一つだけ、確かなことがあった。


 今、返してしまったら。


 自分は、逃げる。


 知らないふりをして、終わらせる。


 モノカゲは封筒を棚に置いた。

 目立たないけれど、見つけようと思えば見つかる場所。


 そして、帳簿を開いた。


 新しい行に、管理番号を書き、品目を書き、備考欄に短く記す。


「保留」


 それ以上は書かない。


 書けば、輪郭ができる。

 輪郭ができれば、正解の顔をしてしまう。


 モノカゲはペンを置き、手袋の上から指を握った。


 間違えたのかどうかは、まだ分からない。


 ただ、戻らないものがあることだけは、知ってしまった。


 倉庫の灯りは、静かに並んでいる。

 影は少なく、見通しもいい。


 それでも、棚の間には、言葉にならない隙間があった。


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