忘れ物88 選ばれなかった選択肢
忘れ物88 選ばれなかった選択肢
その道は、一本に見えた。
実際には、最初から一本だったわけではない。
少し手前まで来ると、左右にわずかな幅の違いがあり、進み方によっては、いくつかの経路を取ることができた。
右は、普段から人が歩く道。
左は、同じように舗装された道。
角度もなだらかで、段差もない。
白線も引かれている。
視界を遮るものもない。
それでも、足は片方へ寄っていく。
だが、人はそこで立ち止まらない。
立ち止まって確認するほどの差はなく、迷う理由もなかった。
気づいたときには、足は自然と同じ方向を向いている。
選んだ、という感覚は生まれない。
選ばなかった、という実感も残らない。
ただ、流れがあり、人はその流れに沿って進んでいく。
朝は通勤の時間帯で、歩幅が揃っていた。
靴底が地面を擦る音が、一定の間隔で続く。
誰かが急ぐと、少し後ろの人も自然と速度を上げる。
追い越すでもなく、追い越されるでもなく、流れだけが速くなる。
昼は人の数が減り、間隔が空く。
それでも、進む方向は変わらない。
夕方になると、買い物袋を下げた人が増え、流れは少しだけ緩やかになる。
袋の中で缶が触れ合う音がして、すぐに遠ざかる。
夜は街灯が点き、道の白線が薄く浮く。
光の下に来た足だけがはっきりし、顔は影に沈む。
それでも、足の向きは変わらない。
どの時間帯でも、使われない側があった。
舗装は同じ。
明るさも同じ。
距離も、かかる時間も、大きな違いはない。
それでも、そちらを使う人はいなかった。
案内板は途中で途切れていた。
矢印は描かれているが、行き先の文字がない。
消された形跡もなく、書かれなかったまま、そこにある。
「書くつもりだったのに書かなかった」でもなく、
「消された」でもない。
初めから何も書かれなかった、という形。
地面には、足跡が少ない。
まったくないわけではないが、重なっていない。
踏まれた跡は、すぐに元の形に戻る。
誰かが通ったことはある。
だが、使われ続けることはなかった。
風の日は、落ち葉が左右どちらにも等しく集まる。
雨の日は、同じように濡れる。
晴れの日は、同じように乾く。
差は、目で見える形ではない。
人は迷わない。
比較もしない。
検討もしない。
少し手前で、もう進む方向が決まっている。
それは、誰かが決めたわけでも、制度が誘導したわけでもない。
ただ、そうなっている。
誰も「こちらへ」と言わない。
誰も「そちらはやめよう」と言わない。
言葉が出る前に、足が先へ進んでいく。
その場所を、モノカゲは歩いていた。
仕事中ではなかった。
休みでもなかった。
移動の途中であり、通過するだけの時間だった。
彼女の制服の布は薄く、歩くたびに縁が揺れる。
その揺れは誰かの視線を引くほどではなく、引いたとしてもすぐに解ける。
彼女は流れの中にいた。
中央ではなく、端でもなく、ただ、流れの一部として歩いている。
視線が、ふと、使われていない側へ向いた。
理由はなかった。
向けた、というより、外れたに近い。
そこには、何も起きていない。
誰も立っていない。
声もない。
ただ、進まなかった可能性が、そのまま残っている。
モノカゲは、足を止めなかった。
進路を変えなかった。
それについて考えることも、しなかった。
選ばれなかった側は、彼女の背後に残った。
それは、失敗ではなかった。
間違いでもなかった。
選ばれなかった、という状態のまま、そこにある。
朝のうちに、別の人がその場所を通る。
背中に小さな鞄を背負った人が、左右を見比べるように首を動かし、次の瞬間には右に入っていく。
見比べたというほどではなく、視界に入っただけだった。
小さな子どもが、どちらに行くのか尋ねようとして、尋ねない。
口が動く前に、手が引かれ、足が動く。
大人は答える準備をするが、質問は来ない。
会話にならなかった問いが、そのまま通過する。
学生らしい集団が、歩きながら話している。
誰かが冗談を言いかけて、言わない。
別の話題が先に出て、笑い声がそちらに移る。
言われなかった冗談が、使われなかった側に残る。
昼過ぎ、年配の人が、歩幅を測るように進む。
少しだけ立ち止まり、片方の道を見る。
だが、杖の向きは変わらない。
見たことは、そのまま通過する。
午後、配達の人が自転車を押して通る。
少し近道になりそうな方を見て、見ただけで通り過ぎる。
急ぐ必要はない。
だが、あえて選ぶ理由もない。
使われない側は、今日も使われなかった。
それでも、消えなかった。
夕方、光の角度が変わり、影が長く伸びる。
使われている道と、使われていない道の境目が、はっきり見える。
境目の線は、誰が引いたわけでもない。
自然に、そこにある。
境目がはっきりするほど、どちらでもよかったはずのことが、どちらでもよかったまま残る。
その境目の近くで、誰かが電話を耳に当てる。
「そっちでいい」と言いそうになって、言わない。
相手の声が先に続き、話は別の話へ移る。
言われなかった「そっち」が、左側に置かれたまま、置き場を見つけない。
買い物袋を下げた人が、袋の持ち手を握り替えようとして、握り替えない。
そのまま右へ入っていく。
左へ行けば持ち手を握り替えられたかどうかは、関係がない。
関係がないという形のまま、動作だけが残る。
雨の日、傘を閉じた人が水滴を払おうとして、払わない。
左でも右でも払える。
払わないまま、右へ入っていく。
払わなかった動作は、道の片側に寄らない。
けれど、片側だけが使われることで、払わなかった動作の置き場所が、そこにできる。
夜、通りの向こうから自転車が一台来る。
ライトは左右を同じように照らす。
だが、タイヤは右へ寄っていく。
左は空いている。
空いているだけで、空きという名前にはならない。
空きにならない空きが、そこに留まる。
どちらでもよかったことは、決めなくてもよかった。
決めなくてもよかったことは、決められないまま残る。
残るのは、選択肢そのものではない。
選択肢の周りにあった、手の位置、視線の角度、呼吸の間。
それらが、言葉にならないまま積もる。
積もっても、山にはならない。
ただ、流れの外側に薄い層を作る。
そこを、カゲマルが辿る。
カゲマルは、その境目に近づいた。
流れの中央には行かない。
選ばれなかった側の縁を、静かに辿る。
中には入らない。
触れもしない。
触れるものがないからなのか、触れてはいけないものがあるからなのかは、分からない。
カゲマルの体色は、影に近いところほど濃くなる。
だが、濃くなっても目立たない。
目立つ必要がない。
夜になると、人の数は減る。
それでも、進む方向は変わらない。
街灯の明かりが、使われていない側も照らす。
暗くはならない。
見えなくもならない。
それでも、足は向かない。
誰かが、ここを通らなかったことで、困ることはない。
誰かが、別の道を選んだことで、得をすることもない。
選ばれなかった選択肢は、意味を持たないまま、残っている。
意味がない、ということは、消える理由がない、ということでもあった。
夜の遅い時間、ほとんど人がいなくなっても、道はそこにある。
選ばれなかった側も、選ばれた側も、同じように続いている。
ただ、人が歩くのは、一方だけだ。
その一方だけの流れも、いつからそうなったのか、誰にも分からない。
誰にも分からないまま、今日も続く。
モノカゲは、すでに遠くにいた。
彼女が通ったことを示す痕跡も、すぐに消える。
背中に何かを残す必要もない。
振り返って確認する必要もない。
選ばれなかった側は、今日も誰にも選ばれなかった。
それでも、そこにあった。
選ばれなかったものは、失われたわけではない。
ただ、使われなかったまま、ここにある。
それだけだった。




