表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/93

忘れ物79 拾わなかった理由

# 忘れ物79 拾わなかった理由


雨は、降り方を決めない。


降り続くと思ったら止み、止んだと思ったらまた落ちてくる。


そのどちらでもない時間が、いちばん長い。


駅前の歩道は、濡れているところと乾いているところがまだらになっていた。屋根の下は乾き、屋根の外は細い筋がいくつも走っている。


人は濡れない場所を選んで歩く。


選べないときは、濡れたまま通り過ぎる。


誰も、その違いを説明しない。


その日、Xは駅から少し離れたバス停の方へ向かっていた。


用事は短い。


短い用事は、手提げ袋の重さに出ない。袋の中身は軽く、肩ひもが食い込むほどでもない。傘を畳んで持つかどうかを迷って、結局そのまま開いたまま歩いた。


傘の内側に落ちる雨粒が、一定の間隔で音を立てる。


音は単調で、単調だから逆に、少しの変化が目立つ。


バス停の手前で、Xは足を止めた。


止めたのは、何かが目に入ったからだ。


歩道の端、点字ブロックの外側に、手袋が片方だけ落ちていた。


黒でも白でもない、少しだけくすんだ色。


濡れて、重くなっている。


それがそこにあることは、誰の目にも分かる。


ただ、誰も拾っていない。


Xは、傘を少しだけ持ち上げて、手袋の方を見た。


見た瞬間、身体のほうが先に動こうとする。


拾う、という動作は、ほとんど反射に近い。


それを止めるのは、意識ではなく、もう一つ別の反射だった。


立ち止まる。


手を伸ばす前に、距離が入る。


距離が入ると、手袋はただの落下物ではなく、「そこに置かれたもの」に見えてくる。


置いた人のことは分からない。


落とした人のことも分からない。


けれど、そこにある。


「落とし物だね」


後ろから声がした。


振り返ると、同じバス停に向かってきた人が、傘の縁から覗き込むように手袋を見ていた。


年齢は分からない。こういう雨の日は、顔がよく見えない。


「駅に届けたら?」


言い方は軽い。


軽いから、正しい。


正しいことは、軽く言える。


Xはうなずきかけて、うなずかなかった。


うなずくと、動作が決まってしまう。


「今、バス…」


そう言いかけて、止めた。


バスが来るかどうかは、理由にならない。


理由は、別のところにある。


Xは手袋に近づいた。


近づくが、しゃがまない。


しゃがむと、拾う形になる。


拾う形にしないまま、足先で少しだけ位置を変える。


水たまりの縁から、屋根の影になる側へ。


点字ブロックの上に乗らないように。


車輪が通る邪魔にならないように。


人の足が引っかからないように。


それだけを考える。


それだけを考えれば、拾わずに済む。


「拾わないの?」


さっきの人が、少し驚いたように言った。


驚きは大きくない。


大きくないから、そのまま通り過ぎられる。


Xは首を横に振るでもなく、縦に振るでもなく、曖昧な動きをした。


曖昧な動きは、会話の続きを拒まない。


ただ、先へ進ませる。


「……誰かが拾うでしょ」


その人はそう言って、バス停の屋根の下に入った。


入ると、肩の濡れが減る。


濡れが減ると、会話も減る。


Xは手袋の前に立ったまま、傘を畳んだ。


畳んだ傘から、雨水がぽたぽた落ちる。


落ちた水滴が、手袋の近くに丸を作る。


丸はすぐに伸びて、周囲の濡れに溶ける。


Xは手袋を見た。


手袋の指先は、少しだけ開いている。


人の指が入っていた形。


それが今は空。


空の形は、持ち主を想像させる。


想像すると、返したくなる。


返したくなると、駅へ持っていくべきになる。


べき、という言葉が近づく。


Xは、その「べき」を遠ざけた。


遠ざけるために、手袋を拾わない。


拾わない、という選択があることを、誰かに教わったわけではない。


ただ、Xは知っていた。


拾うと、終わることがある。


終わると、困らない。


困らないから、よかったと言える。


よかったと言える形にするのは、簡単だ。


簡単な形にしたくないものが、この世にはある。


それが何かを、Xは言葉にしない。


言葉にしないまま、手袋の位置をもう少しだけ直す。


風が吹いたときに飛ばないように。


飛ばないようにするのは、拾うことではない。


拾うことではないから、責任でもない。


責任でもないのに、手袋はそこに残る。


残るものは、残る。


バスが来た。


バスのブレーキ音がして、ドアが開く。


屋根の下にいた人たちが乗り込む。


Xも列の後ろに並んだ。


並びながら、手袋から目を離さない。


目を離さないのは、気になるからではなく、位置を確認しているからだ。


位置が確認できれば、安心する。


安心すると、立ち去れる。


バスの中は、窓が曇っていた。


雨の日の匂いがする。


人の服の湿り気と、床のゴムの匂い。


Xは窓際の席に座った。


席に座ると、外の景色がゆっくり動き始める。


動き始めると、さっきの手袋は遠ざかる。


遠ざかるのに、置いてきた感じはしない。


置いてきたのは、物ではなく、行為だ。


拾わなかった、という行為。


行為はポケットに入らない。


だから、軽い。


軽いのに、残る。


バスは曲がり角をいくつか曲がり、Xは用事を済ませた。


用事は短かった。


短い用事のあいだに、雨は一度止んで、また少し降った。


空が明るくなる。


明るいと、濡れた路面が光る。


光ると、乾いたように錯覚する。


錯覚は、都合がいい。


Xは帰り道に、同じバス停の前を通った。


時間はそれほど経っていない。


それでも、場所は少しだけ違って見える。


人の数が違う。


傘の色が違う。


足音が違う。


手袋は、まだそこにあった。


さっきと同じ影の中。


ただ、位置が少しずれている。


誰かが蹴ったのか、風が動かしたのか。


分からない。


分からないまま、Xは立ち止まった。


立ち止まったまま、しゃがまない。


しゃがまないことが、再び同じ選択になる。


今回は、端に寄せるだけでは足りない気がした。


バス停の柱の根元に、雨水を避けられる小さな角がある。


そこなら、濡れにくい。


濡れにくいと、形が保たれる。


形が保たれると、見つけやすい。


見つけやすいと、拾う人が拾える。


拾う人が拾えるように、Xは手袋をその角まで押した。


押しただけ。


手で触れない。


触れないのは潔癖だからではない。


触れないと、「拾った」ことになりにくい。


拾ったことになりにくいと、返したことにもなりにくい。


なりにくい、という曖昧さが、今日には必要だった。


バス停のベンチに座っていた子どもが、手袋を見て言った。


「それ、落ちてたの?」


質問は、純粋だ。


純粋だから、答えに困る。


Xは子どもを見ないで、手袋の方を見た。


「うん」


それだけ言った。


「持っていかないの?」


子どもは続ける。


続ける言葉は、先に進ませない。


先に進まないと、結論が必要になる。


結論は、今日いらない。


「ここにあると、見つけやすいから」


Xはそう言った。


嘘ではない。


でも、全部でもない。


全部を言わないのは、隠すためではなく、形を壊さないためだ。


子どもは首をかしげた。


首をかしげても、納得はできる。


子どもはすぐに別のことを見始める。


遠くの車。


水たまり。


バスの音。


注意は移る。


移ることで、手袋はまた背景になる。


背景になると、そこにあることが自然になる。


自然になると、誰かが拾うまで、そこにいられる。


雨は弱くなった。


傘を閉じる人が増える。


閉じた傘の先から水が垂れて、地面に細い線を描く。


線はどれも同じ方向には伸びない。


伸びない線が、いくつも重なって、歩道の模様になる。


模様になった線は、誰かの足で消える。


消えるが、消えたことを気にする人はいない。


Xはバス停を離れた。


離れる前に、一度だけ振り返る。


振り返ったのは、確認のためだ。


確認が終わると、歩き出せる。


手袋は、柱の根元の角に収まっていた。


影の中。


ちょうど、誰の邪魔にもならない位置。


拾う人が拾うなら、拾える距離。


拾わないなら、拾わないでもよい距離。


その中間。


中間は、どちらにも寄らない。


どちらにも寄らないことが、今日の選択だった。


Xは駅の方へ歩いた。


駅に届けるわけではない。


届けないことで、駅は駅のままになる。


届けてしまうと、手袋は「処理されたもの」になる。


処理されたものは、記録になる。


記録になると、終わりになる。


終わりは、分かりやすい。


分かりやすい終わりが、いつも良いとは限らない。


限らないことを、Xは知っていた。


どうして知っているのかは、思い出さない。


思い出さないことで、理由は形にならない。


理由が形にならないままでも、手袋はそこにある。


そこにあるだけで、誰かの一日は変わる。


変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。


どちらでも、生活は続く。


夕方になり、風が少し強くなった。


柱の根元の角にある手袋が、わずかに揺れる。


揺れたが、飛ばない。


飛ばないように置かれた位置だったからだ。


誰かが近づく足音がした。


足音は止まり、また動いた。


拾ったのか、拾わなかったのかは、分からない。


分からないまま、影だけが伸びていく。


拾われなかったとしても、失われたわけではない。


拾われたとしても、終わったとは限らない。


そのどちらも決めないまま、


雨は、次の降り方へ移っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ