忘れ物79 拾わなかった理由
# 忘れ物79 拾わなかった理由
雨は、降り方を決めない。
降り続くと思ったら止み、止んだと思ったらまた落ちてくる。
そのどちらでもない時間が、いちばん長い。
駅前の歩道は、濡れているところと乾いているところがまだらになっていた。屋根の下は乾き、屋根の外は細い筋がいくつも走っている。
人は濡れない場所を選んで歩く。
選べないときは、濡れたまま通り過ぎる。
誰も、その違いを説明しない。
その日、Xは駅から少し離れたバス停の方へ向かっていた。
用事は短い。
短い用事は、手提げ袋の重さに出ない。袋の中身は軽く、肩ひもが食い込むほどでもない。傘を畳んで持つかどうかを迷って、結局そのまま開いたまま歩いた。
傘の内側に落ちる雨粒が、一定の間隔で音を立てる。
音は単調で、単調だから逆に、少しの変化が目立つ。
バス停の手前で、Xは足を止めた。
止めたのは、何かが目に入ったからだ。
歩道の端、点字ブロックの外側に、手袋が片方だけ落ちていた。
黒でも白でもない、少しだけくすんだ色。
濡れて、重くなっている。
それがそこにあることは、誰の目にも分かる。
ただ、誰も拾っていない。
Xは、傘を少しだけ持ち上げて、手袋の方を見た。
見た瞬間、身体のほうが先に動こうとする。
拾う、という動作は、ほとんど反射に近い。
それを止めるのは、意識ではなく、もう一つ別の反射だった。
立ち止まる。
手を伸ばす前に、距離が入る。
距離が入ると、手袋はただの落下物ではなく、「そこに置かれたもの」に見えてくる。
置いた人のことは分からない。
落とした人のことも分からない。
けれど、そこにある。
「落とし物だね」
後ろから声がした。
振り返ると、同じバス停に向かってきた人が、傘の縁から覗き込むように手袋を見ていた。
年齢は分からない。こういう雨の日は、顔がよく見えない。
「駅に届けたら?」
言い方は軽い。
軽いから、正しい。
正しいことは、軽く言える。
Xはうなずきかけて、うなずかなかった。
うなずくと、動作が決まってしまう。
「今、バス…」
そう言いかけて、止めた。
バスが来るかどうかは、理由にならない。
理由は、別のところにある。
Xは手袋に近づいた。
近づくが、しゃがまない。
しゃがむと、拾う形になる。
拾う形にしないまま、足先で少しだけ位置を変える。
水たまりの縁から、屋根の影になる側へ。
点字ブロックの上に乗らないように。
車輪が通る邪魔にならないように。
人の足が引っかからないように。
それだけを考える。
それだけを考えれば、拾わずに済む。
「拾わないの?」
さっきの人が、少し驚いたように言った。
驚きは大きくない。
大きくないから、そのまま通り過ぎられる。
Xは首を横に振るでもなく、縦に振るでもなく、曖昧な動きをした。
曖昧な動きは、会話の続きを拒まない。
ただ、先へ進ませる。
「……誰かが拾うでしょ」
その人はそう言って、バス停の屋根の下に入った。
入ると、肩の濡れが減る。
濡れが減ると、会話も減る。
Xは手袋の前に立ったまま、傘を畳んだ。
畳んだ傘から、雨水がぽたぽた落ちる。
落ちた水滴が、手袋の近くに丸を作る。
丸はすぐに伸びて、周囲の濡れに溶ける。
Xは手袋を見た。
手袋の指先は、少しだけ開いている。
人の指が入っていた形。
それが今は空。
空の形は、持ち主を想像させる。
想像すると、返したくなる。
返したくなると、駅へ持っていくべきになる。
べき、という言葉が近づく。
Xは、その「べき」を遠ざけた。
遠ざけるために、手袋を拾わない。
拾わない、という選択があることを、誰かに教わったわけではない。
ただ、Xは知っていた。
拾うと、終わることがある。
終わると、困らない。
困らないから、よかったと言える。
よかったと言える形にするのは、簡単だ。
簡単な形にしたくないものが、この世にはある。
それが何かを、Xは言葉にしない。
言葉にしないまま、手袋の位置をもう少しだけ直す。
風が吹いたときに飛ばないように。
飛ばないようにするのは、拾うことではない。
拾うことではないから、責任でもない。
責任でもないのに、手袋はそこに残る。
残るものは、残る。
バスが来た。
バスのブレーキ音がして、ドアが開く。
屋根の下にいた人たちが乗り込む。
Xも列の後ろに並んだ。
並びながら、手袋から目を離さない。
目を離さないのは、気になるからではなく、位置を確認しているからだ。
位置が確認できれば、安心する。
安心すると、立ち去れる。
バスの中は、窓が曇っていた。
雨の日の匂いがする。
人の服の湿り気と、床のゴムの匂い。
Xは窓際の席に座った。
席に座ると、外の景色がゆっくり動き始める。
動き始めると、さっきの手袋は遠ざかる。
遠ざかるのに、置いてきた感じはしない。
置いてきたのは、物ではなく、行為だ。
拾わなかった、という行為。
行為はポケットに入らない。
だから、軽い。
軽いのに、残る。
バスは曲がり角をいくつか曲がり、Xは用事を済ませた。
用事は短かった。
短い用事のあいだに、雨は一度止んで、また少し降った。
空が明るくなる。
明るいと、濡れた路面が光る。
光ると、乾いたように錯覚する。
錯覚は、都合がいい。
Xは帰り道に、同じバス停の前を通った。
時間はそれほど経っていない。
それでも、場所は少しだけ違って見える。
人の数が違う。
傘の色が違う。
足音が違う。
手袋は、まだそこにあった。
さっきと同じ影の中。
ただ、位置が少しずれている。
誰かが蹴ったのか、風が動かしたのか。
分からない。
分からないまま、Xは立ち止まった。
立ち止まったまま、しゃがまない。
しゃがまないことが、再び同じ選択になる。
今回は、端に寄せるだけでは足りない気がした。
バス停の柱の根元に、雨水を避けられる小さな角がある。
そこなら、濡れにくい。
濡れにくいと、形が保たれる。
形が保たれると、見つけやすい。
見つけやすいと、拾う人が拾える。
拾う人が拾えるように、Xは手袋をその角まで押した。
押しただけ。
手で触れない。
触れないのは潔癖だからではない。
触れないと、「拾った」ことになりにくい。
拾ったことになりにくいと、返したことにもなりにくい。
なりにくい、という曖昧さが、今日には必要だった。
バス停のベンチに座っていた子どもが、手袋を見て言った。
「それ、落ちてたの?」
質問は、純粋だ。
純粋だから、答えに困る。
Xは子どもを見ないで、手袋の方を見た。
「うん」
それだけ言った。
「持っていかないの?」
子どもは続ける。
続ける言葉は、先に進ませない。
先に進まないと、結論が必要になる。
結論は、今日いらない。
「ここにあると、見つけやすいから」
Xはそう言った。
嘘ではない。
でも、全部でもない。
全部を言わないのは、隠すためではなく、形を壊さないためだ。
子どもは首をかしげた。
首をかしげても、納得はできる。
子どもはすぐに別のことを見始める。
遠くの車。
水たまり。
バスの音。
注意は移る。
移ることで、手袋はまた背景になる。
背景になると、そこにあることが自然になる。
自然になると、誰かが拾うまで、そこにいられる。
雨は弱くなった。
傘を閉じる人が増える。
閉じた傘の先から水が垂れて、地面に細い線を描く。
線はどれも同じ方向には伸びない。
伸びない線が、いくつも重なって、歩道の模様になる。
模様になった線は、誰かの足で消える。
消えるが、消えたことを気にする人はいない。
Xはバス停を離れた。
離れる前に、一度だけ振り返る。
振り返ったのは、確認のためだ。
確認が終わると、歩き出せる。
手袋は、柱の根元の角に収まっていた。
影の中。
ちょうど、誰の邪魔にもならない位置。
拾う人が拾うなら、拾える距離。
拾わないなら、拾わないでもよい距離。
その中間。
中間は、どちらにも寄らない。
どちらにも寄らないことが、今日の選択だった。
Xは駅の方へ歩いた。
駅に届けるわけではない。
届けないことで、駅は駅のままになる。
届けてしまうと、手袋は「処理されたもの」になる。
処理されたものは、記録になる。
記録になると、終わりになる。
終わりは、分かりやすい。
分かりやすい終わりが、いつも良いとは限らない。
限らないことを、Xは知っていた。
どうして知っているのかは、思い出さない。
思い出さないことで、理由は形にならない。
理由が形にならないままでも、手袋はそこにある。
そこにあるだけで、誰かの一日は変わる。
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
どちらでも、生活は続く。
夕方になり、風が少し強くなった。
柱の根元の角にある手袋が、わずかに揺れる。
揺れたが、飛ばない。
飛ばないように置かれた位置だったからだ。
誰かが近づく足音がした。
足音は止まり、また動いた。
拾ったのか、拾わなかったのかは、分からない。
分からないまま、影だけが伸びていく。
拾われなかったとしても、失われたわけではない。
拾われたとしても、終わったとは限らない。
そのどちらも決めないまま、
雨は、次の降り方へ移っていった。




