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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物8 触れられない棚

### 忘れ物8 触れられない棚


 倉庫の点検は、静かな仕事だ。


 扉を開けると、いつもの匂いがする。

 乾いた紙の匂い。布の匂い。金具の匂い。

 それらが混ざって、どこか「雨の降らない部屋」みたいな空気になる。


 モノカゲは手袋をはめ、帳簿を抱え直した。

 点検の日は、配達の日と違って、走らない。

 急ぐ必要がないからではない。

 ここでは、急げば急ぐほど、見落とすからだ。


 棚の列は、規則正しく続いている。

 番号は真っ直ぐに並び、箱はきちんと揃えられている。


 救い。

 保留。

 隔離。


 棚の端に、目印の札がある。

 それぞれに、言葉は書いていない。

 色の違いだけで分かる。


 救いの棚は、少しだけ明るい。

 光のせいではなく、置かれているものの気配が軽い。

 戻る場所が、まだある。


 隔離の棚は、逆に静かだ。

 そこにある箱は、音を吸い込むみたいに見える。

 触れば、ひとつひとつは普通の物なのに。


 保留の棚は、その中間。

 ただ、待っている。


 モノカゲは通路の端から端まで歩き、棚の番号と帳簿を照らし合わせていった。


「六一一―二。……六一一―三」


 声に出すのは、自分のためだった。

 数字は目に入ると流れてしまう。

 口に出せば、ひとつだけ、そこに留まる。


 箱をひとつ持ち上げ、重さを確かめる。

 蓋の角が浮いていないか、糸がほつれていないか、札が読めるか。


 特殊な道具がある。

 劣化を遅らせる、というより、

 「忘れ物が忘れ物のままでいられる」ようにしておく道具。


 それは万能ではない。

 道具が働くためには、物の中に残っている何かが必要だ。

 残っていないものには、何もできない。


 モノカゲは点検を続けた。


 倉庫は広い。

 天井は高く、灯りは均等に並んでいる。

 影は少なく、見通しもいい。


 安心できる場所だと、多くの人は思う。

 ここに来るのは、返せなかった忘れ物だけだから。


 モノカゲも、そう思っていた。

 少なくとも、奥へ行くまでは。


 棚の列が終わりかけたところで、通路が一本、奥へ続いている。


 柵はない。

 札も、注意書きもない。

 鍵も、境界線も、引かれていない。


 ただ、少しだけ、空気が違う。


 冷たいわけではない。

 暗いわけでもない。

 音が消えるわけでもない。


 それなのに、足音が遠く感じる。


 モノカゲは立ち止まった。


 今まで何度も倉庫に来ている。

 隔離の棚も、保留の棚も、数え切れないくらい見てきた。

 それでも、この通路を歩いた記憶はなかった。


 忘れていた、というより。

 最初から、選ばなかった。


 選ばなかった理由も、思い当たる。

 通路の前に立つと、いつも「別の用事」を思い出す。

 帳簿のページをめくりたくなる。

 棚の番号をもう一度確認したくなる。


 自分で自分を、引き返させている。


 足元の影が、動かない。


「……カゲマル?」


 返事はない。

 けれど、影は確かにそこにあった。


 肩に乗るときの重さも、呼吸のような気配もない。

 それでも影が濃い。

 そこにいる。


 進まない、という意思だけが伝わってくる。


 モノカゲは、影を見下ろした。


 いつもなら、カゲマルは嫌な忘れ物を嫌がる。

 色を変えたり、遠ざかったり、しっぽを強く鳴らしたりする。


 けれど今は、嫌がっていない。

 逃げてもいない。


 ただ、ここから先に、いかない。


 それが余計に怖かった。


 モノカゲは帳簿を抱えたまま、ゆっくりと通路へ入った。


 一歩。

 二歩。


 灯りは同じはずなのに、距離感が狂う。

 棚の間隔が、少しだけ広い。


 広い、というより。

 空いている。


 何かがない。


 倉庫の通路には、いつも生活の名残がある。

 台車の跡。

 足の運びの癖。

 誰かが角を曲がるときに擦れた壁。


 それがここにはない。


 壁は擦れていない。

 床は汚れていない。


 なのに、埃も積もっていない。


 奥の棚が見えてきた。


 普通の棚だった。

 同じ素材、同じ高さ。

 同じ形。


 なのに、見ているだけで分かる。


 ここは、同じではない。


 埃がほとんどない。

 使われていないはずなのに、古くもない。

 新しいわけでもない。


 時間の気配が、薄い。


 置かれている忘れ物の数は、極端に少なかった。


 箱の中身は、はっきりしない。

 何かだった形だけが残っている。

 用途を思い出そうとすると、視線が滑る。


 例えば、鍵。

 鍵に見えるのに、鍵穴が思い浮かばない。


 例えば、リボン。

 結ぶ場所が、どこにも思い出せない。


 例えば、小さな金具。

 何かに付いていたはずなのに、何も浮かばない。


 それらは、「忘れられた」よりも、

 最初から、思い出されなかった気配がした。


 モノカゲは一つの棚の前に立った。


 そこに、札のない忘れ物があった。


 箱でもない。

 袋でもない。

 透明な薄い膜に包まれた、何か。


 番号が、付いていない。

 外れた形跡もない。


 最初から、無かった。


 モノカゲは指先を近づけた。


 触れる前から、手袋の上にざらりとした感覚が走る。

 物に触れたときの手触りではない。

 気配の手触り。


 ――ここは、順番が違う。


 そんな考えが、どこからともなく浮かんだ。


 以前、管理番号の桁が少なすぎる忘れ物があった。

 触れたとき、何も聞こえなかった。

 ただ「待っている」感覚だけが残っていた。


 似ている。


 けれど、これは違う。


 モノカゲは、そっと手を伸ばした。


 その瞬間、能力が反応した。


 ――先に、情景が来る。


 知らない部屋。

 知らない窓。

 誰も立っていない場所。


 床に落ちた影だけが、ひとつ。


 音が、しない。

 静かだからではない。


 最初から、音が存在しないみたいな静けさ。


 遅れて、感情が触れる。


 名づけられない感覚。

 悲しみでも、後悔でもない。

 怖さでも、怒りでもない。


 ただ、

 そこにいるはずだったものが、

 いなかった、という感触。


 思い出されなかった。

 呼ばれなかった。


 カゲマルの影が、強く床に張りついた。


 進むな、とも、触るな、とも言わない。


 ただ、そこまでだ、と告げている。


 影が濃くなる。

 モノカゲの足首に絡むように伸びる。


 ――引き返して。


 言葉ではない。

 でも、はっきり伝わる。


 モノカゲは、息を吸った。


 触れたら、分かるかもしれない。

 分かったら、帳簿に書けるかもしれない。

 分類できるかもしれない。


 けれど、分類するために触れるのは、順番が違う。


 モノカゲは、手を引いた。


 触らない。

 今は、それを選ぶ。


 通路を戻ると、倉庫の空気が少しだけ変わった。


 足音が、元に戻る。

 自分の歩幅が、ちゃんと床に落ちる。


 棚の番号も、帳簿の文字も、ちゃんと意味を持っている。


 モノカゲは点検を終え、最後のページに印をつけた。

 異常なし。


 書けるのは、それだけだった。


 奥の棚については、何も記さなかった。


 記さない、というより。

 記せない。


 言葉にすると、輪郭ができる。

 輪郭ができると、触れたことになる。


 そんな気がした。


 倉庫を出ると、廊下の空気が少し温かかった。

 灯りも、さっきより明るく見える。


 モノカゲは扉の前で立ち止まり、ほんの一度だけ、振り返った。


 通路は見えない。

 棚も見えない。


 それでも、奥に「場所」があることだけは分かった。


 倉庫には、しまう場所だけじゃなく、

 近づかないための場所もある。


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