表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/68

忘れ物57 並ばなかった順番

# 忘れ物57 並ばなかった順番


 朝の忘れ物センターは、列から始まる日があった。


 正確には、列そのものではない。


 列ができる「はずの場所」から始まる日だ。


 扉を開け、照明を点けると、受付前の床がゆっくりと明るくなる。掲示板の影が引き、カウンターの輪郭が浮かび、その手前に広がる床の色がはっきりする。


 そこは、かつて人が並んでいた場所だった。


 立つ位置が、自然と決まっていた。


 先頭はここ。

 二人目はその後ろ。

 それ以上増えれば、廊下の方へ。


 誰かが決めたわけではない。


 床に線が引かれていたわけでも、案内板が置かれていたわけでもない。


 それでも、人はそこに並んだ。


 今朝、その床に、人はいない。


 足跡もない。


 擦れた跡も、立ち止まった名残も、ほとんど見えない。


 モノカゲは開館前の静かな時間、その床の前で立ち止まった。


 立ち止まる位置も、以前とは少し違う。


 先頭だった場所には立たない。


 二人目だった場所にも立たない。


 ただ、受付に向かう動線の端で、床全体を視界に入れる。


 床は何も言わない。


 何も示さない。


 示さないことで、立ち位置の自由だけが残る。


 見るだけで、立たない。


 並ばない。


 並ぶ必要がないから。


 必要がない、という言い方は少し強い。


 正確には、並ばなくても成立する。


 それだけだ。


 カゲマルは受付の横、少し離れた位置で床に伏せている。


 以前は、列の後方、少し高い位置から全体を見ていた。


 今は、高い場所に行かない。


 人と人の間にも入らない。


 ただ、距離を取る。


 距離を取ることで、何かが詰まりすぎるのを防いでいるようにも見える。


 見える、というだけで、理由は分からない。


 モノカゲは受付に戻り、名簿を開いた。


 今日のページ。


 順番を書く欄はない。


 以前からなかった。


 それでも、頭の中には自然と順序が浮かんでいた。


 誰が先で、誰が後か。


 今は、その感覚が浮かばない。


 浮かばないことに、焦りはない。


 ただ、静かだ。


 開館してしばらくすると、最初の来客があった。


 一人。


 受付にまっすぐ向かってくる。


 床の中央を通るでも、端を通るでもない。


 自然な歩幅で、自然な位置に立つ。


 モノカゲは挨拶をして、用件を聞く。


 短い問い合わせ。


 すぐに終わる。


 来客が帰ると、床は再び空になる。


 列は、最初から存在しなかったかのようだ。


 午前中の少し遅い時間、二人の来客がほぼ同時に入ってきた。


 同時、と言っても完全に同じではない。


 扉が開く音が二度、ほとんど重なって響く。


 一人が足を止めるより先に、もう一人が一歩踏み出す。


 その差は、順番を決めるには小さすぎる。


 小さすぎるから、順番にならない。


 一人は年配の女性。


 もう一人は、若い男性。


 扉をくぐるタイミングが、ほんの少しずれる。


 どちらが先かは、決められない程度の差。


 二人は受付前で、同時に立ち止まった。


 視線が交わる。


 どちらも、一歩引く。


 譲り合いの形になるが、明確な「どうぞ」はない。


 沈黙が一瞬、流れる。


 モノカゲは、その沈黙を切らなかった。


 「お先にどうぞ」とも言わない。


 順番を指定しない。


 ただ、話しかけられた方の声を、そのまま受け取る。


 先に口を開いたのは、年配の女性だった。


 「すみません……」


 その声が出た瞬間、順番が発生する。


 しかし、それは管理された順序ではない。


 ただ、その場で生まれた流れ。


 若い男性は一歩下がり、壁際に寄る。


 列にはならない。


 点が、二つ離れて存在するだけだ。


 女性の用件は短く、すぐに終わった。


 終わると、女性はそのまま横にずれる。


 「どうぞ」と言わない。


 でも、空間が空く。


 若い男性は、その空間に自然に入る。


 それで順序は解消される。


 並んだ、という感覚は残らない。


 午前中、そのような場面が何度かあった。


 誰かが先に話し、誰かが後になる。


 けれど、その前後は固定されない。


 一度後になった人が、次も後になるわけではない。


 順序は蓄積されない。


 積み重ならない順序は、列にならない。


 二人。


 三人。


 時には、受付前に人が重なる。


 それでも列はできない。


 誰も、先頭を意識しない。


 誰も、最後尾を探さない。


 モノカゲは呼び順を決めない。


 呼ばない。


 名前も、番号も使わない。


 ただ、視線と声の向きに応じて応対する。


 その方法で、混乱は起きなかった。


 割り込まれた、と感じる人もいない。


 待たされた、と感じる人もいない。


 待ち時間が消えたわけではない。


 ただ、待っているという意識が薄れる。


 昼前、モノカゲは受付前の床を拭いた。


 拭く動作は、いつもよりゆっくりだった。


 急ぐ理由がない。


 拭きながら、床の感触を確かめる。


 人が立っていた頃よりも、わずかに滑らかだ。


 滑らかさは、使われていない証拠でもある。


 証拠として残すつもりはないが、消す必要もない。


 拭きながら、以前ここにあった小さなマットの跡に気づく。


 並ぶ位置を示すための、薄いゴム製のマット。


 いつの間にか、なくなっている。


 外した記憶はない。


 でも、戻そうとも思わない。


 床は、ただの床としてそこにある。


 並ぶための形をしていない。


 並ばなくても、人は立てる。


 立てるから、並ぶ必要がない。


 昼過ぎ、静かな時間帯。


 受付前に人がいない状態が長く続く。


 床は光を受け、色を変える。


 午前中よりも少しだけ暖かい色。


 その色の上に、人は立たない。


 立たないから、色は均一のままだ。


 カゲマルが、受付前を横切った。


 まっすぐではなく、緩やかな弧を描くように。


 以前、人が並んでいた位置を踏むでも、避けるでもない。


 踏んでいるのか、踏んでいないのか分からない距離。


 その曖昧さが、今の基準。


 夕方、少し人の出入りが増える。


 仕事帰りの人。


 用事を思い出した人。


 時間に余裕のない足取り。


 それでも、列はできない。


 急ぎ足の人も、立ち止まる。


 立ち止まるが、並ばない。


 待つことと、並ぶことが、ここでは同じにならない。


 二人同時に来ることもある。


 それでも、列はできない。


 自然に、間が保たれる。


 誰も、その間を詰めようとしない。


 詰めなければならない理由が、どこにもないから。


 閉館が近づく。


 モノカゲは一日の終わりを感じながら、受付前の床をもう一度見る。


 列ができなかった一日。


 順番が管理されなかった一日。


 それでも、何も滞らなかった。


 成立しなかったのは、順序だけ。


 順序がなくても、対応は成立する。


 成立していることを、わざわざ確認しない。


 確認しないまま、終業作業に入る。


 照明を落とすと、受付前の床は他の床と区別がつかなくなる。


 先頭も、最後尾もない。


 ただの床。


 名前を持たない位置。


 カゲマルは、最後にその前を通った。


 距離を取りながら。


 でも、離れすぎない。


 その距離が、今日の答えのようにも見える。


 答えと呼ぶほどのものではないが。


 扉に鍵をかけ、モノカゲは廊下に出た。


 足音は数えない。


 順番を数えない一日が、静かに終わった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ