忘れ物55 通路にならなかった通路
# 忘れ物55 通路にならなかった通路
朝の忘れ物センターは、床から始まる。
扉を開けるとき、最初に目に入るのは掲示板でも受付でもなく、靴の先に広がる床の色だ。昨日の光を吸ったままの床。夜の間に落ちた埃が、まだ人の形を知らない状態で薄く積もっている。
モノカゲは開館前の時間、掃除用具を持って室内をゆっくり回った。
箒の先が床をなぞる音は、思っているよりも柔らかい。音が立つというより、空気が動く。
受付前。
倉庫の扉の前。
掲示板の下。
いつもの場所を終え、次に向かったのは、受付から倉庫へ向かう途中のまっすぐな床だった。
そこは、もともと「通路」として設計されている。
床材の向きが他と違う。
壁との距離が一定。
角がなく、迷いが生まれにくい形。
以前は、何度も踏まれた場所だった。
書類を運ぶとき。
箱を抱えたとき。
急ぎ足で行き来するとき。
その床は、仕事の痕跡を一番集めていた。
今朝、そこには足跡がなかった。
掃除の跡はある。
箒で均した線が、まっすぐ残っている。
でも、人が通った痕跡がない。
靴底の形も、歩幅も、方向も。
何も残っていない。
――通っていない。
モノカゲは箒を止め、少しだけその床を見た。
使われなかった床。
それは、壊れているわけでも、塞がれているわけでもない。
ただ、選ばれていない。
選ばれていないことに、理由を探す必要はない。
探せば、理由はいくつも出てくる。
机の位置が変わったから。
倉庫の使用頻度が下がったから。
動線が変わったから。
どれも正しい。
でも、どれも決定的ではない。
モノカゲは箒を立てかけ、その床を「通らずに」歩いた。
無意識に。
わざと避けたわけではない。
ただ、身体が自然に、横の遠回りを選んだ。
その遠回りは、以前は「非効率」とされていた。
棚の間を縫うように進む細い道。
少しだけ曲がっていて、角も多い。
でも今は、そちらの方が通りやすい。
通りやすい、という言葉が合っているかどうかは分からない。
ただ、選びやすい。
カゲマルは、モノカゲの後ろを歩いた。
いつもより少し遅れて。
例の通路の手前で、ぴたりと止まる。
中に入らない。
でも、後ずさりもしない。
嫌悪の仕草は見せない。
ただ、止まる。
モノカゲは振り返らずに、遠回りの動線を進んだ。
振り返ってしまうと、「通路」という言葉が頭に浮かぶ。
言葉が浮かぶと、役割が戻ってきてしまう。
役割を戻すつもりはない。
戻さないと決めたわけでもない。
ただ、今は触れない。
受付に着き、開館準備を整える。
名簿を出す。
電話を確認する。
窓を少しだけ開ける。
空気が流れ、床の温度が変わる。
その流れは、まっすぐな通路にも届く。
でも、人は通らない。
開館後、最初の来客は郵便配達の人だった。
センターの前で一度立ち止まり、靴の底についた小石を落とす。
入ってきたとき、自然に遠回りの動線を使った。
誰も案内していない。
床に表示もない。
それでも、人はそちらを選ぶ。
選んだ、というより、選ばされた感じがしない。
郵便配達の人は受付に荷物を置き、「お願いします」とだけ言った。
用件は短い。
モノカゲが処理をしている間、配達の人は周囲を見回した。
「ここ、前より静かですね」
感想とも独り言ともつかない声。
モノカゲは「そうかもしれません」と返した。
静かになった理由を説明する必要はない。
配達の人はまっすぐな通路の方をちらりと見た。
「あれ、通らなくなったんですか」
質問ではあるけれど、答えを求めている感じは薄い。
モノカゲは少し考えてから言った。
「通っても、通らなくても」
配達の人は笑って頷いた。
「なるほど」
納得したのか、していないのかは分からない。
でも、それ以上は触れなかった。
午前中、その床を通った人は一人もいなかった。
モノカゲ自身も。
カゲマルも。
誰も。
それでも、仕事は滞らなかった。
倉庫へ行く用事は、遠回りで済んだ。
急ぐ必要もなかった。
まっすぐな通路が使われないことで、困る場面はなかった。
困らない、という事実が、床を静かにしている。
昼前、モノカゲはその床の端に置かれていた小さな表示に気づいた。
壁際に、目立たないように貼られている札。
「通行可」
以前、関係者用に貼ったものだ。
今となっては、誰のための表示なのか分からない。
モノカゲはそれを剥がした。
剥がすとき、紙が破れないように慎重に。
粘着剤の跡が少し残る。
指でこすると、床より少しだけざらつく。
札を剥がしたからといって、床が変わるわけではない。
でも、「通路です」という言葉だけが消える。
役割が、言葉から解放される。
床は開いたまま。
塞がれていない。
でも、通るべき場所でもなくなる。
ただの床。
昼過ぎ、来客が一人あった。
年配の男性。
入り口で少し立ち止まり、室内を見渡す。
その視線は自然に、遠回りの動線を辿った。
まっすぐな通路には向かない。
まるで、そこに何もないかのように。
男性は受付に来て、探しているものの話をした。
具体的な物の話ではない。
昔、ここに預けたかもしれない、という曖昧な記憶。
モノカゲは話を聞き、いくつか確認をして、倉庫を覗いた。
戻るときも、遠回りを使う。
男性はその様子を見ていた。
「その道、前はよく通ってたよね」
「そうですね」
「今は?」
モノカゲは少しだけ考えた。
「今は、通らない日もあります」
男性は「そうか」とだけ言った。
それで十分だった。
午後も、その床は踏まれなかった。
昼下がり、センターの中にわずかな生活音が混じる時間帯が来る。
外を通る人の話し声。
遠くで鳴る自転車のベル。
どこかの家で窓が閉まる音。
それらは壁を越えて、床の上を薄く滑る。
まっすぐな通路だった床にも、その音は等しく落ちる。
音だけは通る。
人は通らない。
モノカゲは倉庫で作業をしながら、そのことを意識するでもなく感じていた。
箱を動かすとき、以前なら無意識に使っていたはずの通路を、今日も選ばない。
代わりに、少し狭い棚の間を通る。
肩が擦れないように身体を傾ける。
その動作に、焦りはない。
むしろ、通る速度が一定になる。
急ぐ必要がないから。
急ぐ理由が、そこにはないから。
通路だった床は、午後の光を受けて少しだけ色を変える。
朝よりも温度が上がり、埃が目立たなくなる。
それでも、足跡は増えない。
床は、何も起きなかった午後をそのまま引き受ける。
誰かが意識的に避けているわけではない。
ただ、誰も選ばなかった。
選ばれなかった場所が、静かに一日を終える。
夕方、光の角度が変わる。
窓から入る光が、床に長い影を作る。
まっすぐな通路だった床も、影の中に溶ける。
他の床と区別がつかなくなる。
境界線が消える。
通路だった記憶だけが、床の下に薄く残る。
モノカゲは閉館作業を始めた。
掲示板を整え、受付を拭き、照明を一つずつ落とす。
最後に、例の床の前に立つ。
通らない。
跨がない。
ただ、そこにある床を見る。
今日は誰も通らなかった。
それは失敗ではない。
成功でもない。
評価の外にある。
カゲマルが、床の縁を避けるように歩いた。
昨日より、少しだけ近い距離で。
影を踏まないように。
でも、完全に避けてはいない。
その距離感が、今の基準。
基準と呼べるほど確かなものではない。
でも、確定させる必要もない。
照明を落とすと、床はただの床になる。
通路でも、非通路でもない。
名前を持たない状態。
モノカゲは扉に鍵をかけ、振り返らずに歩き出した。
足音は、数えなかった。
数えないことで、今日という一日が、床の上で静かに終わった。




