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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物48 行かなかった道

# 忘れ物48 行かなかった道


 開館前の空気は、いつも少しだけ軽い。


 モノカゲはシャッターの鍵を回し、内側の取っ手に指を掛けて、音が出ないようにゆっくりと持ち上げた。金属の擦れる気配がわずかに残り、床の冷たさが靴の裏に伝わる。照明を一つずつ点ける。白い光が机の角を撫で、返却トレーの縁を浮かび上がらせた。


 机を拭く布は、前日の夜に乾かしておいたものだ。指先に繊維の抵抗があり、同じところを二度拭くと、余計なことをした感じがする。モノカゲは一度で済むように、端から端へと布を滑らせた。


 その途中で、布が紙に触れて止まる。


 机の手前、返却トレーの少し外側。そこに小さな紙が置かれていた。


 観光案内図。駅前や案内所で配られている、片手に収まるサイズ。


 角が丸くなっている。紙が柔らかい。けれど、折り目がない。


 モノカゲは布を畳み直し、紙をそっと持ち上げた。持ち上げた瞬間、紙の端が少し反り返り、戻ろうとする。紙はまだ、紙のままに見える。濡れも破れもない。白い面が均一で、情報の色だけが薄く重なっている。


 折り目がないことが、目に残った。


 角にだけ、指が触れた跡のような薄い変色がある。どこかで掴まれていたのだと分かる程度の、かすかな色。


 モノカゲは案内図を開こうとして、少しだけ止まった。


 完全に開くほどの動作ではない。ただ、表紙の端を指で引く。


 その指先に、静かな断片が触れてきた。


 白線。交差点の白線。


 点滅する信号。青が残り、次に変わるまでの時間が短い。


 足元。靴先。


 進む向きが一度、変わる。


 案内板。遠いところに立つ、色の褪せた板。


 風。紙がめくれそうになる。


 指が押さえる。


 そして、案内図が——開かれない。


 開く直前のところで止まり、閉じたまま戻される。


 モノカゲは案内図を完全には開かず、元の形のまま手の中で整えた。紙の端を揃え、角の丸みを確認するように、指を一度だけ滑らせる。


 カゲマルは、いつもなら棚の方へ一度登ってから周囲を見る。


 今日はそうしない。


 入口に近い床に腹をつけ、机の脚の影に身体を収めたまま、目だけを動かしている。案内図を見る。机の縁を見る。廊下を見る。高いところではなく、低いところ。


 モノカゲは案内図を机の中央に置いた。


 机の中央は、いつもの「途中」だ。分類が決まる前に、手が自然にそこへ運ぶ場所。


 記録用紙を一枚取り出す。ペンを持つ。


 品目は書ける。


 「観光案内図」。


 発見場所の欄で、ペン先が止まった。


 返却トレーではない。けれど、返却トレーのすぐ外。


 受付の机の上。


 それだけなら書けるはずだった。


 けれど、紙の上の枠が、枠として決まらない。線がそこにあるのに、そこに書き込むと何かを決めてしまう感じがする。決めるというより、置き場所を固定してしまう。


 モノカゲはペンを一度置き、紙の端を揃え直した。


 揃え直すと、揃え直した分だけ、何も書いていないことがはっきりする。


 棚の方へ視線を向ける。


 案内図は、分類としては簡単だ。紙、地図、案内。


 モノカゲは立ち上がり、棚の前まで歩いた。棚のラベルを確認する。紙類の棚。地図、パンフレット。


 そこに置けば、形は整う。


 手は、案内図を持っている。


 棚の前で、手が止まった。


 置く手順が出てこない。


 「ここ」ではない、という感覚でもない。「ここ」であることを否定する材料がない。けれど、置く瞬間の指の動きが、どうしても思い出せない。


 モノカゲは案内図を持ったまま、棚の前に立っていた。


 カゲマルが小さく首を動かした。音は立てない。背中の色がわずかに暗くなる。嫌がっているというより、合わせている。


 モノカゲは案内図を机へ戻した。


 中央に、置き直す。


 机の中央に戻すと、戻したという事実が、ひとつ増える。


 開館の時間になり、来客が一人来た。


 傘を探している。黒い、細い柄の。


 モノカゲは返却棚を案内し、確認し、該当の傘を取り出した。持ち主は傘の柄を握り、軽く礼を言って帰っていく。


 その間、案内図は机の中央にあった。


 持ち主の視線が一度、そこをかすめた気がする。けれど何も言わない。何も触れない。


 扉が閉まると、室内にまた静けさが戻る。


 案内図の端が、紙の癖で少しだけ浮き、そして戻った。


 紙が戻る音は、紙そのものの音だった。


 夕方。


 モノカゲは案内図を棚に置こうと、もう一度持ち上げた。


 棚の前まで行く。


 ラベルを見る。


 手が止まる。


 戻る。


 戻るときの歩幅は、来たときと同じだった。急がない。迷わない。迷わないことが、決まらないことに似ている。


 机に戻し、今度は中央ではなく、端に置いた。


 端。


 落ちないぎりぎりのところではない。落ちる心配がない位置。けれど、「机の中央」ではないことが明確になる場所。


 カゲマルが机の脚の近くへ移動した。床に腹をつけたまま、机の影の線に沿って動く。高い位置を選ばない。


 モノカゲはシャッターを下ろし、灯りを落とした。


 案内図は、机の端に残った。


 *


 二日目の朝も、空気は軽い。


 軽いはずの空気の中に、昨日の端が残っている。


 机を拭く順番を、モノカゲは少し変えた。端からではなく、中央から。中央を拭いてから、端へ。


 端にある案内図を避けるように布を動かす。避ける動きが、いつもより多い。


 案内図を持ち上げて、机の中央に一度移し、端を拭き、また端に戻す。


 戻すとき、紙の端がわずかに反る。


 戻ろうとする。


 記録用紙を取り出す。


 昨日書いた「観光案内図」の文字が、薄く見える。


 消えてはいない。読める。けれど、ペンの黒さが、昨日の黒さではない。光のせいかもしれない。朝の角度のせいかもしれない。


 モノカゲは紙を持ち上げ、窓の方へ少し傾けた。黒さが戻る。


 戻る。


 戻るということは、決まらない。


 モノカゲは書き直さない。


 紙を揃え直す。


 揃え直すと、枠がまた目に入る。


 発見場所。


 ペン先が止まる。


 案内図に触れる。


 断片が届く。


 昨日と同じ交差点。昨日と同じ白線。


 けれど、案内板の向きが少し違う。昨日は右側にあったはずの板が、今日は左側にある。


 足先が一度、止まる。


 靴の向きが変わる。


 信号が点滅する。


 紙がめくれそうになる。


 押さえる指。


 そして、案内図はやはり開かれない。


 開きかけて、止まる。


 モノカゲは案内図を手の中で整え、折り目のない面を指でなぞるように押さえた。


 棚の前まで行く。


 今日も、同じ棚だ。


 置ける。


 置けるはず。


 置けない理由がない。


 理由がないということが、理由になっている。


 モノカゲは棚の前に立ったまま、案内図を持つ手を少し下げた。紙が軽い。


 紙として軽いのではない。


 持っていることが軽い。


 軽いと、置く前の手応えがなくなる。棚に置くという行為の重さが、浮いてしまう。


 モノカゲは戻った。


 机に戻し、端ではなく、返却トレーの近くにある小さな台へ置いた。


 台は、返却トレーの横に置かれている。案内用の札を立てるために使っている台。


 返却トレーの中ではない。


 外側。


 返却に一番近い場所。


 それでも、返却ではない。


 案内図は台の上に収まり、紙の端が台の縁に沿った。


 カゲマルがその台の影に入った。


 影の中で目だけが動き、案内図と入口の床を交互に見ている。


 昼過ぎ。


 センターの外の通路に、工事の案内が貼られた。


 「迂回」の文字が見える。


 矢印。


 日付。


 紙が、テープで貼られる。


 風が吹くと、端がめくれそうになる。


 誰かが手で押さえ、また貼り直す。


 モノカゲはその様子を窓越しに見ただけで、視線を戻した。


 カゲマルは掲示を見ない。


 床に貼られた養生テープの線を見る。


 線の上を、指先で触れるように鼻先を近づける。嗅ぐためではなく、確かめるため。


 夕方。


 案内図は台の上にある。


 モノカゲは一度それを持ち上げ、返却トレーへ入れようとして——入れない。


 返却トレーの中へ入れると、「返却待ち」になる。


 返却待ちは、持ち主の問い合わせを待つ。


 待つという形式が、この案内図には合わない。


 合わないと断定はできない。


 ただ、手が止まる。


 モノカゲは案内図を台の上へ戻した。


 戻す位置を、ほんの少しだけ手前にした。


 入口に、近い。


 近いだけ。


 近づけたからといって、何かが起きるわけではない。


 カゲマルは影の中で身体の向きを変えた。尻尾が台の脚に沿う。床に腹がついたまま。


 *


 三日目。


 朝。


 台の上の案内図の端が、少しだけ浮いていた。


 浮いているのは、紙の反りだろう。風が入ったのかもしれない。


 モノカゲは指で押さえた。


 押さえる指の位置が、昨日と同じではない。


 同じ場所を押さえようとすると、そこではない感じがする。


 どこでもいいはずなのに、どこでもよくない。


 案内図に触れる。


 断片が届く。


 今日は、交差点の全体ではなく、足元が細かい。


 点字ブロック。


 黄色い凸凹。


 靴先。


 歩道の模様。


 タイルの目地。


 信号の音。


 遠い車の音。


 そして、紙が開かれない。


 開きかけて、止まる。


 止まる瞬間だけが、何度も繰り返される。


 モノカゲは案内図を完全には開かない。


 開かないことが、優しさというわけではない。


 開くと決める手順が、今日も出てこない。


 カゲマルが入口の方へ目を向けた。


 扉の下の隙間。


 そこから入ってくる空気の線。


 モノカゲの足が、一歩だけ入口の方へ向いた。


 一歩。


 けれど、行かない。


 行かないことを、選択としては扱わない。


 ただ、足がそこで止まる。


 止まって、戻る。


 戻って、台の前に立つ。


 問い合わせは来ない。


 三日目の午前も、午後も、案内図を探す人は現れない。


 来ないことは、来ないままだ。


 モノカゲはいつもの確認をする。


 棚の見回り。


 札の並び。


 返却トレーの中身。


 ペンのインク。


 時計。


 時計は動く。


 動いているのに、この案内図には「時間が来ない」。


 そう感じても、口には出さない。


 夕方。


 モノカゲは案内図を持ち上げた。


 棚へは行かない。


 返却トレーへも入れない。


 台の上へ、戻す。


 ただ戻すのではなく、台の上の、さらに少し手前。


 台の縁に触れないぎりぎり。


 落ちない。


 落ちないように置く。


 落ちないことが、そこに置く理由になる。


 カゲマルは動かない。


 目だけが、案内図の端を追う。


 追うけれど、触れない。


 モノカゲはシャッターを下ろした。


 外の工事案内の紙が、風で少しめくれた。


 テープが浮き、紙が震え、また戻る。


 案内図はめくれない。


 台の上で、折り目のないまま、静かにそこに残った。


 モノカゲは灯りを落とし、最後に台の位置を確認するように一度だけ目を向けた。


 何も決まらない。


 何も終わらない。


 それでも、置かれた距離だけが、少しだけ入口に寄っている。


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