表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/66

忘れ物46 過ぎてしまった期限

忘れ物46 過ぎてしまった期限


 開館前の忘れ物センターでは、紙がめくられる音がいちばん小さい。

 それは実際に音が小さいというより、ほかの音が少ないからだ。人の声も、足音も、まだここには入ってきていない。


 モノカゲは鍵を回し、扉を押した。金属が擦れる短い音が、室内に落ちる。いつもと同じ動作だったが、その日、足を踏み入れた瞬間に視線が向かった場所が一つあった。


 机の端。


 紙が一枚、置かれている。


 真正面ではない。机の中央でもない。端の、角を少しだけ外した位置。誰かが無意識に置いたような、しかし落ち着いてしまった配置だった。


 モノカゲは照明をつける前に、その紙を見た。


 白い。


 完全な白ではなく、少し黄みがかっている。端に細かな折り目があり、紙の厚みはしっかりしている。チラシではない。コピー用紙でもない。申請書か、引換券か、あるいは受付で渡される種類の書類に見えた。


 上部に、日付が印刷されている。


 赤い数字。


 期限、と読める文字がその横にあった。


 日付は、昨日だった。


 モノカゲは声に出さなかった。


 照明をつける。室内が一気に明るくなり、棚の影が床に落ちる。机の木目が浮かび、紙の上の文字がはっきり見える。


 期限の日付は、変わらない。


 今日の日付は、モノカゲの頭の中で静かに確認される。確認はするが、比べるというほどの動作にはならない。ただ、二つの日付が別々に存在している。


 カゲマルは床にいた。


 紙から少し離れた位置。赤い数字のある側ではなく、反対側。紙の角を跨がない位置で、体を低くしている。


 モノカゲは紙に触れなかった。


 いつもの手順を始める。カウンターを拭き、端末の電源を入れ、棚を一巡する。管理番号の札は揃っている。落ちているものもない。


 机の端の紙だけが、作業の流れに入らない。


 開館時間。


 最初の来館者が入ってきた。扉が開き、外の空気が一瞬混じる。足音が床を鳴らし、カウンターの前で止まる。


 来館者は机の端に視線を落とした。


 紙を見る。


 赤い数字も見る。


 だが、何も言わない。


 声を出す代わりに、直接用件を伝える。


 モノカゲは頷き、応対を始める。失くした物の形、色、場所。いつも通りの確認が続く。


 紙は机の端に残ったままだ。


 午前中、何人かの来館者があった。


 全員が紙を見るわけではない。


 だが、何人かは視線を落とす。


 視線が落ち、少しだけ止まり、戻る。


 誰も「期限切れですね」とは言わない。


 誰も「もう使えませんね」とも言わない。


 紙は、ただそこにある。


 昼前、モノカゲは管理票の束を取り出した。


 一枚、新しい紙を引き抜く。


 品目欄に、書く。


 書類。


 そこまでは書ける。


 次の欄で、ペンが止まる。


 期限。


 期限切れ、と書けば、この紙は終わる。


 だが、終わったとは誰も言っていない。


 モノカゲは期限欄を空けたままにした。ペンを置き、管理票を机の端に置く。


 机の端に、二枚の紙が並ぶ。


 一枚は期限のある書類。


 一枚は期限を書かれていない管理票。


 午後。


 電話が鳴る。


 モノカゲは受話器を取り、相手の言葉を聞く。途中で言葉が途切れ、短い間が生まれる。


 その間に、机の端の紙が視界に入る。


 日付。


 赤い数字。


 昨日。


 電話の向こうでは、別の時間が進んでいる。


 モノカゲは相手の言葉を待ち、必要な情報だけを確認する。受話器を戻す。


 紙はそのまま。


 二日目。


 翌朝、紙は同じ場所にあった。


 日付は、さらに過去になる。


 今日という数字が一つ進み、紙との距離が広がる。


 モノカゲはそれを数えない。


 数えなくても、離れていく感覚はある。


 二日目も、来館者が来る。


 紙を見る。


 赤い数字を見る。


 何も言わない。


 誰も「急がなきゃ」と言わない。


 紙は棚に入らない。


 棚に入れれば、過去になる。


 過去にすれば、扱いが決まる。


 モノカゲは棚を見て、視線を戻す。


 三日目。


 日付はさらに離れる。


 管理票が一枚、増える。


 どれも期限欄は空白だ。


 机の端に、紙が増えていく。


 重ねれば片付く。


 だが、重ねない。


 並べることで、時間の差だけが横に広がる。


 四日目。


 モノカゲはカレンダーを見る。


 一瞬だけ、止まる。


 紙の日付と、今日の日付が、頭の中で並ぶ。


 もし、という言葉は浮かばない。


 ただ、違うという感覚だけが残る。


 断片が届く。


 窓口。


 シャッターが下りる。


 「本日は終了しました」。


 時計が一分進む。


 その断片に、感情はない。


 五日目。


 モノカゲは透明なファイルを取り出した。


 紙を挟む。


 日付の部分が、裏側になる向き。


 見えなくする。


 消すのではない。


 破るのでもない。


 ただ、参照されなくする。


 ファイルは引き出しに入れられる。


 完全には閉めない。


 半分だけ開いた位置。


 必要なら、取り出せる。


 だが、誰も探さない。


 カゲマルは引き出しの影に入る。


 そこが、落ち着く場所のようだった。


 翌朝。


 今日の日付は、さらに進んでいる。


 引き出しは、同じ位置で止まっている。


 ファイルの中の紙は、静かだ。


 期限は過ぎたまま。


 だが、数えられてはいない。


 棚は整っている。


 記録も揃っている。


 それでも、引き出しの奥には、過ぎてしまった期限が残っている。


 その期限は、過去になりきれないまま、そこにあった。


 六日目。


 鍵を開けると、扉の取っ手に夜の冷たさが残っていた。モノカゲは手を離し、室内に入る。床の空気は動かない。誰もいない室内は、音が少ない。


 照明をつける前に、引き出しを見る。


 半分だけ開いた位置。


 昨日と同じ。


 指先で、引き出しの縁をなぞる。


 閉めない。


 開けない。


 ただ、位置を確かめる。


 照明をつける。


 光が広がると、机の上の紙の輪郭がはっきりする。管理票の束。問い合わせメモ。番号札の札。引き出しの陰に、透明なファイル。


 ファイルの中の紙は、日付をこちらに向けていない。


 日付は隠れている。


 隠れているだけで、なくなってはいない。


 モノカゲは布巾を取り、机を拭いた。端から端へ。角で折り返す。引き出しの手前は、拭き方が少しだけ遅くなる。


 遅くなるが、止まらない。


 カゲマルは床にいた。


 引き出しの影の近く。机の脚と脚の間。見上げない。棚にも登らない。影に入っているというより、影の境目を選んでいる。


 開館準備。


 端末を起動する。画面が切り替わるまで、短い待ち時間がある。モノカゲはその間、引き出しを見ない。見ると、時間がそこに集まってしまう気がした。


 開館時間。


 扉が開く。


 最初の来館者は、買い物袋を下げた女性だった。カウンターへ向かう途中、机の横を通る。視線は引き出しに落ちない。落ちないが、歩幅がわずかに変わる。


 机の角を避ける。


 引き出しの半開きが作る空間を、避ける。


 避けて通り、声をかける。


 モノカゲは頷き、応対する。


 女性は帰り際に、一度だけ振り返った。引き出しではなく、モノカゲの机全体を見る。見るだけで、何も言わない。


 午前中、来館者が何人か続く。


 子どもを連れた人。


 封筒を抱えた人。


 何も持たない人。


 全員が、引き出しを見ない。


 見ないのに、通るときの動線が少しずれる。


 半開きの引き出しは、目に入っている。


 目に入っているだけで、言葉にならない。


 昼前、電話が鳴った。


 モノカゲは受話器を取る。相手は手続きの確認をしてくる。日付を言う。来週。来月。締め切り。


 言葉は受話器の向こうにあり、ここには残らない。


 モノカゲは必要な情報だけを聞き、案内をし、受話器を戻す。


 受話器を戻したあと、引き出しを見る。


 見るだけ。


 指先は動かない。


 昼過ぎ。


 外の光が変わる。窓から差し込む明るさが少しだけ斜めになり、机の影が長くなる。引き出しの影も少し伸びる。


 影が伸びると、半開きの隙間が濃く見える。


 隙間の奥で、透明なファイルが光を拾う。


 モノカゲは、引き出しの取っ手に指をかけた。


 閉めれば、机は整う。


 整えば、業務はスムーズになる。


 スムーズになるが、引き出しを閉める行為が、位置を決める。


 決める。


 その言葉が浮かぶ前に、指を離した。


 閉めない。


 引き出しは半分だけ開いたままだ。


 夕方。


 来館者が途切れる時間がある。モノカゲは管理票の束を整理し、未記入の欄が残っていないか確かめる。


 期限欄。


 空白。


 空白を見つけるたびに、紙を重ねない。


 重ねないから、空白が並ぶ。


 空白が並ぶと、机の端に線ができる。


 線は、引き出しの半開きと平行になる。


 閉館。


 灯りを落とす前に、モノカゲは机を整える。ペンを戻し、書類を揃え、床を軽く掃く。


 引き出しは閉めない。


 閉めないまま、鍵を閉める。


 夜。


 七日目。


 朝。


 引き出しは同じ位置。


 半分。


 その言葉が、朝の確認事項になっている。


 モノカゲは引き出しを少しだけ開いた。


 半分から、ほんの数センチ。


 奥が少しだけ見える。


 透明なファイル。


 紙。


 紙の端。


 日付は見えない。


 モノカゲはそれ以上開けず、元の半分に戻した。


 半分。


 元に戻す動作は、閉める動作とは違う。


 閉めない。


 今日も同じ位置にする。


 開館。


 午前、年配の男性が来館した。手には手帳がある。カウンターの前で立ち止まり、用件を話す。


 話の途中で、男性はカレンダーのページをめくった。


 小さな音。


 紙が擦れる音。


 その音が、室内で少しだけ目立つ。


 男性は日付に指を置き、言葉を続ける。


 モノカゲは頷き、必要な情報を確認する。


 男性が帰ったあと、モノカゲは机の横にある壁掛けカレンダーを見た。


 今日の日付は、当然そこにある。


 昨日は、もう別の場所にある。


 紙の中にある昨日は、引き出しの奥。


 見えない。


 見えないが、なくならない。


 昼。


 来館者が少ない時間に、モノカゲは棚の前に立った。棚板の空きがある。


 ファイルを棚に置けば片付く。


 分類不能の棚。


 保留の棚。


 どこでも物理的には置ける。


 だが、棚に置くと、紙は「過去の書類」になる。


 なる。


 その言葉が浮かぶ前に、足を止めた。


 棚に置かない。


 引き出しの半開きは、棚とは違う。


 しまっているのに、しまっていない。


 隠しているのに、隠していない。


 その中間だけが残る。


 午後。


 断片が届く。


 駅の改札。


 窓口。


 「引換期限」。


 紙に赤い線。


 「本日まで」。


 時計。


 針が一分動く。


 シャッター。


 下りる。


 紙が手の中で折れる。


 鞄に入る。


 鞄の口が閉じる。


 断片はそこまで。


 感情はない。


 動作と、時間だけが残る。


 モノカゲは引き出しを見た。


 見て、視線を戻す。


 夕方。


 外の光が弱くなり、室内の灯りが相対的に強くなる。引き出しの隙間が暗く見える。


 モノカゲは透明なファイルの背表紙に、何かを書こうとした。


 ラベル。


 日付。


 分類。


 書けば、ファイルは記録になる。


 記録になれば、棚に置ける。


 モノカゲはペンを持ったまま、書かない。


 ペンを戻す。


 書かないまま、閉館。


 八日目。


 朝。


 引き出しの縁に、薄い指跡が増えていた。


 昨日よりも、わずかに。


 誰かが触れたのかもしれない。


 触れていないのかもしれない。


 引き出しの位置は変わらない。


 半分。


 モノカゲは布巾で引き出しの縁を軽く拭いた。


 拭けば、指跡は消える。


 消えるが、触れたという事実は残る。


 残るが、数えられない。


 モノカゲは拭き終え、布巾を戻す。


 開館。


 若い女性が来館し、カウンターの前で立った。用件を話しながら、鞄の中から小さなクリアファイルを取り出す。


 女性は自分のファイルの中身を見て、日付を確認した。


 確認し、戻す。


 それだけ。


 モノカゲはその動作を見て、引き出しの奥を思い浮かべる。


 思い浮かべるだけ。


 引き出しは開けない。


 昼。


 モノカゲは机の端に置いていた管理票を、一枚ずつ確認する。


 期限欄が空白のもの。


 空白のまま揃える。


 揃えるが、重ねない。


 重ねないから、空白が見える。


 空白が見えるから、書けない。


 書けないから、空白のまま。


 循環だけが残る。


 午後。


 モノカゲは引き出しをほんの少しだけ押した。


 半分から、ほんの数ミリ。


 閉まらない。


 閉めない。


 閉めないと決めたわけでもない。


 ただ、その位置が先に決まっている。


 カゲマルが引き出しの前に移動する。


 遮るほどではない。


 ただ、そこに収まる。


 夕方。


 モノカゲは引き出しの中のファイルを一度だけ取り出した。


 透明なファイル。


 紙。


 日付の部分は裏側。


 見えない。


 見えないまま、指先でファイルの角を揃える。


 揃えて、また引き出しに戻す。


 戻す。


 戻したことで、引き出しの半開きが保たれる。


 保たれるだけで、解決はしない。


 閉館。


 灯りを落とす前に、モノカゲは壁掛けカレンダーを見た。


 今日。


 明日。


 その先。


 どれも進む。


 引き出しの奥の昨日は、進まない。


 進まないが、止まっているとも言い切れない。


 半分だけ開いた引き出しの中で、紙は静かに留まっている。


 棚は整っている。


 記録も揃っている。


 それでも、引き出しの奥には、過ぎてしまった期限が残っている。


 その期限は、過去になりきれないまま、数えられないまま、そこにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ