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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物44 書けなかった欄

忘れ物44 書けなかった欄


 開館前の忘れ物センターには、紙の音がない。

 誰もページをめくらないし、ペン先も動かない。棚の札が揺れることもない。建物の外で、朝の車が遠くを流れていく音だけが、薄く壁を通ってくる。


 モノカゲは鍵を開け、いつも通りに中へ入った。靴底が床に触れる。乾いた摩擦の音が、短くして消える。


 照明をつける前、暗い室内を一度だけ見回す。棚の形は見慣れている。カウンターの輪郭も変わらない。


 それでも、机の上にあるものだけが先に目に入った。


 紙が一枚。


 机の中央に、白い紙が置かれていた。白といっても完全な白ではない。光を受ける前の紙は、少し灰色に寄る。薄い影が、紙の周囲にできている。


 A4ほどの大きさ。角は少しだけ丸くなっている。端に、折り目がある。指で押さえた跡のような薄い凹みが、ところどころに残っている。


 新品ではない。


 しかし、汚れているわけでもない。


 モノカゲは紙の前に立ち、手を伸ばしかけた。


 伸ばしかけて、止まった。


 触れない。


 触れないまま、照明をつける。


 灯りが点くと、紙の上の印刷が見えた。薄い罫線と、いくつかの欄。申請書のように見える。


 上のほうには文字が書かれている。


 整った筆跡ではないが、読める。住所らしい行、数字らしい行、日付らしい行。いくつかの欄は埋まっている。


 最後の欄だけが空いていた。


 空欄の上にあるはずの見出しは、擦れて薄い。読むために目を凝らすと、かえって形がほどける。


 名前なのか、理由なのか、署名なのか。


 断定できない。


 モノカゲはそれ以上見ようとしなかった。


 紙の位置は変えない。


 いつもの開館準備を始める。


 カウンターを拭き、端末の電源を入れる。備品のペンを揃え、管理票の束を整える。棚を一巡して、札がずれていないか確かめる。


 机の上の紙だけが、手順の外に残る。


 カゲマルは、床にいた。


 棚の上ではない。机の脚の陰でもない。紙から少し離れたところで、低く体を落としている。視線は紙そのものではなく、紙の端の空間を外していた。


 紙の角を跨がない。


 通路のどこかを避けるような動きではないのに、紙の前で、足が止まる。


 それが、いまの距離だった。


 開館時間になり、最初の来館者が入ってきた。


 扉の開閉音。外の空気が少しだけ混じる。


 来館者はカウンターへ向かう途中、机の横を通った。


 視線が一度、紙に落ちた。


 落ちたが、戻る。


 何も言わずにカウンターに立つ。


 モノカゲは頷き、用件を聞く。


 失くしたものの特徴。最後に見た場所。時間帯。淡々とした確認が続く。


 会話の間、紙は机の中央にある。


 机の上の整理された空間の、ちょうど真ん中。


 来館者が帰ったあと、机の周りが少しだけ広く感じられた。紙はあるのに、空いているように見える。


 午前中、来館者が何人か続く。


 誰も紙に触れない。


 モノカゲも紙に触れない。


 紙は、書類の山に混ぜられない。


 混ぜれば、机はすっきりする。重ねれば、目立たなくなる。


 そう思えるのに、手が動かない。


 昼前、モノカゲは机の端に書類を揃える作業をした。


 管理票、問い合わせメモ、預かり品の一覧。端を合わせ、重ね、角を揃える。


 紙だけを残して。


 紙は最後に残った。


 最後に残ったまま、残った。


 モノカゲは紙の前に立ち、今度は指先を少しだけ近づけた。


 触れる前の距離。


 そこまで近づくと、紙の上の凹みがよりはっきり見える。指跡の形。筆圧の強かったところ。ペン先が止まったときの、短い線。


 最後の欄の手前で、線が途切れている。


 途切れたところに、空白がある。


 モノカゲの指先が、紙に触れた。


 紙は冷たくも熱くもない。


 指の腹が罫線をなぞる。


 その瞬間、断片が届いた。


 窓口。


 透明な仕切り。


 番号札。


 椅子が並んでいる。


 人が座り、立ち、順番が進む。


 「次の方」。


 声がする。


 ペンが置かれている。


 書く。


 途中まで書く。


 最後の欄の前で、止まる。


 止まったまま、紙を折る。


 鞄の中に入れる。


 鞄の口が閉じる。


 出さない。


 出さないまま、時間が進む。


 断片は、そこで終わった。


 感情は乗っていない。


 ただ、手順だけがある。


 モノカゲは指を離した。紙は机の中央に残った。


 午後、業務が落ち着いたところで、モノカゲは管理票を一枚取り出した。


 新しい紙。


 空欄。


 品目欄に書く。


 書類。


 そこまでは書けた。


 分類欄で止まる。


 申請書、と書けばいいのか。


 届出、と書けばいいのか。


 それとも、ただの紙。


 言葉が定まらない。


 定まらないまま書くと、紙が別のものになる。


 モノカゲは分類欄を空けたままにした。


 用途欄も空ける。


 返却先欄も空ける。


 管理票は、記録として成立しない。


 成立しない管理票が、机の端に置かれる。


 机の中央の紙と、端の管理票。


 二つの紙が、同じ机の上で離れている。


 午後の来館者が来る。


 人は増えるが、机の中央の紙は動かない。


 来館者の視線が落ちることはある。


 しかし、誰も言及しない。


 誰も、そこにあることを確認しない。


 それが、いつもの光景のようになっていく。


 夕方、電話が鳴った。


 モノカゲは受話器を取り、相手の言葉を聞く。


 受話器越しの声が途切れる。


 途切れた間に、机の中央の紙が視界に入る。


 間。


 空白。


 そこに何かを書き込む動作は、誰もしていない。


 モノカゲは相手の言葉を待ち、必要な情報だけを確認する。


 受話器を戻す。


 紙は、そのまま。


 閉館時間が近づき、来館者が途切れた。


 モノカゲは片付けを始める。


 机の端の書類を揃える。ペンを戻す。印鑑を引き出しにしまう。棚の札を確認する。


 机の中央の紙だけが残る。


 残るのに、邪魔だ。


 邪魔なのに、どかせない。


 ファイルに綴じれば片付く。


 だが、穴を開ける行為が、紙を決めてしまう。


 決めるという行為が、今の紙には合わない。


 モノカゲは透明なクリップボードを取り出した。


 いつもは掲示用に使う。案内文や手続きの流れを挟んで、立てて置くためのもの。


 モノカゲは机の中央の紙を持ち上げた。


 紙は軽い。


 軽いのに、持ち上げた瞬間、机の中央が少しだけ空いた。


 空いたことで、そこに紙があったことがはっきりする。


 モノカゲは紙をクリップボードに挟んだ。


 挟むと、紙は一枚の掲示物のようになる。


 だが、掲示するわけではない。


 モノカゲはクリップボードを机の端に立てた。


 置くのではなく、立てる。


 棚に入れるのではない。


 机に寝かせて残すのでもない。


 ただ、立てておく。


 紙が机の上に占める面積が減る。


 それだけで、机は少し整う。


 整うが、紙は消えない。


 カゲマルが、クリップボードの影に入った。


 紙の端を跨がない。


 クリップボードの前で止まり、体を低くする。


 そこが、収まる場所のようだった。


 モノカゲは灯りを落とす。


 忘れ物センターは夜に入る。


 翌朝。


 鍵を開け、灯りをつける。


 机の端に、クリップボードが立っている。


 昨日と同じ位置。


 紙の空欄も同じ。


 白いまま。


 しかし、空欄の上に薄い指跡が増えていた。


 昨日よりも、少しだけ。


 紙の繊維が、わずかに押されている。


 文字は増えていない。


 モノカゲはクリップボードの前に立ち、指先を近づけた。


 触れる前の距離。


 そこで止まる。


 触れて、確かめる必要はない。


 確かめなくても、空欄は白いまま続く。


 カゲマルは、その影にいる。


 棚は整っている。

 記録も揃っている。


 それでも、机の端には、書けなかった欄が残っている。


 その欄は、今日も書かれないまま、白かった。


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