忘れ物4 破れた絵本
# 忘れ物4 破れた絵本
昼の光は、やさしい。
雨の匂いでも、冬の冷たさでもない。窓から差し込む陽射しは、紙の白さを少しだけ明るく見せ、埃の粒を金色に浮かせる。
忘れ物センターの窓口は、静かだった。
受付の札は「準備中」。来客がないわけではない。ただ、今日は“届ける日”ではなく、“整える日”だった。
モノカゲは机に白い布を敷き、その上に小さな道具を並べていた。
糊。
細い刷毛。
透明な補修紙。
角の丸い定規。
そして、薄く破れた紙片。
彼女の手は小さい。けれど指先は器用で、迷いがない。切れたページの端を揃え、糊をほんの少しだけ薄く伸ばし、補修紙をそっと重ねる。
ぺたり、と紙が落ち着く。
それだけで、傷は消えないのに、壊れ方は止まる。
モノカゲは息をついた。
「……これで、もう破れないね」
机の下で、黒と紫の影が丸まっている。
カゲマルだ。
いつもなら棚の上にいるのに、今日は陽だまりに引き寄せられたらしい。まぶたを閉じ、しっぽを小さく揺らしている。
眠っているようで、眠っていない。
モノカゲが道具を動かす音に合わせて、影がわずかに形を変える。
彼の眠りは、番犬のそれに近かった。
そのとき、奥の扉が控えめに叩かれた。
トントン。
モノカゲは顔を上げる。
扉の向こうは倉庫だ。そこから新しい荷物が運ばれてくることがある。
「はい」
扉が開き、台車の小さな車輪の音がした。
段ボールではない。
布で包まれた、薄い形。
モノカゲは包みを受け取り、管理番号を確かめた。
回収日時:二日前。
回収場所:市立図書館。
彼女は布をほどく。
一冊の絵本が、現れた。
表紙は色あせ、角は丸く擦り切れている。背表紙には何度も開かれた癖がついていて、糸が少し覗いていた。
そして。
ページの端が、ところどころ破れている。
乱暴に扱われたのではない。
むしろ逆だ。
大事に読みすぎて、薄くなって、破れてしまった。
そんな傷だ。
モノカゲは絵本を両手で持ち上げた。
指先が紙に触れた瞬間――胸の奥が、ふわりと温かく鳴った。
夜。
布団。
小さな寝息。
ページをめくる音。
誰かの声。
低く、やさしく、少し疲れている。
それは物語を読んでいる声だった。
そして、最後。
『ここまででいいよ』
言葉ではないのに、意味だけがまっすぐ届く。
そこで、読むのをやめた夜。
続きを、残した夜。
モノカゲは、息をのんだ。
胸の奥に混ざる寂しさが、あまりに自然で、少し怖い。
「……最後まで、読めなかったんだ」
誰に言うでもなく、呟く。
理由は分からない。
忙しかったのか。
疲れていたのか。
あるいは――もう、読めなくなったのか。
モノカゲは断定しない。
断定するには、知らないことが多すぎる。
忘れ物センターは、真実を暴く場所じゃない。
ただ、戻せるものを戻す場所。
せめて、心が少しだけ軽くなるように。
カゲマルが、机の下から顔を出した。
紫の灯りが淡く揺れる。
絵本の匂いを嗅ぐように、鼻先を近づける。
そして、ぷい、と目をそらした。
「……こういうの、苦手?」
カゲマルは答えない。
でも、しっぽの先が小さく揺れた。
それは、否定ではなかった。
モノカゲは絵本を開いた。
破れたページは、何枚もある。
直せる。
けれど、直しすぎると――別の本になってしまう。
新品みたいにピカピカになった絵本は、きっとこの絵本じゃない。
折り目も、指の跡も、読み癖も。
時間が残したものまで消してしまう。
モノカゲは、考える。
忘れ物は、思い出の形をしている。
直すべきなのは、壊れた部分だけ。
時間は、消さない。
彼女は糊を指先に少しだけとり、刷毛で薄く伸ばした。
破れた端を揃え、透明な補修紙を重ねる。
気泡が入らないように、角の丸い定規でそっと撫でる。
ぺたり。
紙が落ち着く。
破れは残っている。
でも、これ以上は広がらない。
モノカゲは何ページも同じ作業を繰り返した。
破れた角。
裂けた端。
小さな指の跡。
直すたびに、胸の奥が静かに鳴る。
読み聞かせの声が、遠くで続いている気がする。
そして、最後。
絵本の表紙を閉じる。
モノカゲは、そっと両手で抱えた。
「……帰ろうね」
カゲマルが小さく鳴いた。
その鳴き声は、昼の光に溶けるみたいに柔らかかった。
夕方。
空の色が少しだけ橙に傾き、影が長く伸びる。
モノカゲは絵本を包み、鞄に入れて外へ出た。
今日は寒くもなく、暑くもない。
歩くにはちょうどいい。
住宅街を抜け、古い坂道を上る。
感情の断片が示す先は、古い一軒家だった。
門柱の脇に、子ども用の靴が並んでいる。
でも、少し小さい。
もう履いていないサイズ。
モノカゲは玄関の前で立ち止まった。
窓の向こうから、テレビの音がする。
生活は続いている。
けれど、絵本が読まれていた夜は――もう昔のことなのかもしれない。
モノカゲは呼び鈴を押さない。
いつも通り、そっと返す。
玄関先の影になった場所。
雨が当たらず、風で飛ばない位置。
ドアを開けたとき、最初に目に入る場所。
そこに絵本を置く。
封蝋の道具は使わない。
この絵本は、強く縛りつけるものじゃない。
ただ、思い出をそっと呼び戻すものだ。
モノカゲは一歩下がり、踵を返した。
背中に、カゲマルのしっぽが軽く触れる。
その小さな重みが、背中を支えてくれた。
階段を下りて、門を出る。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
ガチャ。
ドアが開く。
モノカゲは振り返らない。
振り返ってしまえば、見てしまう。
見てしまえば、勝手に物語を作ってしまう。
モノカゲの仕事は、物語を作ることじゃない。
ただ、戻すこと。
ただ、つなぐこと。
背後から、声が聞こえた。
大人の声。
「……あれ?」
続いて、少し驚いた息。
そして。
胸の奥で、絵本がほどけた。
温かいものが、ふわりと広がる。
懐かしさ。
ちょっとした後悔。
あたたかい笑い。
『……覚えてた』
それは、泣く前の声だった。
泣くかどうかは分からない。
でも、その人の胸のどこかが、やわらかくなった。
モノカゲは歩く。
足音を消して。
夕方の空気を吸い込んだ。
紙の匂いが、まだ指先に残っている。
センターに戻ると、昼の光はもう残っていなかった。
でも、室内は暗くない。
モノカゲは机に道具を戻し、白い布を畳む。
糊の蓋を閉め、刷毛を洗い、補修紙を箱にしまう。
カゲマルは机の上に跳び乗り、使い終えた定規の端を鼻先でつついた。
それから、ふい、と窓の方を見る。
外は夜。
街の灯りが遠い。
「……忘れ物は、戻らなくても、つながれる」
モノカゲは小さく呟いた。
返した絵本は、きっと新品には戻らない。
破れた跡も、折り目も、残る。
それでも、その跡があるからこそ“あの夜”に触れられる。
モノカゲは倉庫の扉を開けた。
棚に並ぶ箱や袋が、整然と静かに眠っている。
直されなかった絵本。
直せなかった思い出。
返せなかった優しさ。
それでも、今日返せた一冊がある。
モノカゲは扉を閉め、窓口へ戻った。
「明日も……整えようね」
カゲマルのしっぽが、ふわりと揺れた。
その動きは肯定みたいで。
どこか、祈りみたいだった。
忘れ物センターには、今日も静かな夜が降りる。
そして、紙の中に残った声は、誰にも見えないところでやさしく息をする。




