忘れ物37 電池を抜いた懐中電灯
# 忘れ物37 電池を抜いた懐中電灯
午後の光は、窓からまっすぐ入らない。
忘れ物センターの室内では、白い床に影が短く落ちて、すぐに消える。エアコンの風が弱く回り、紙の端が一枚だけ、かすかに鳴った。ガラスの向こうの空は青いはずなのに、ここまで届くころには、色が薄くなる。
作業台の上に、細長い布袋が置かれている。紐は結ばれていない。ほどけてもいない。ただ、口が閉じている。布袋の端は少しだけ摩耗していて、何度も手で掴まれた形が残っていた。
モノカゲは手袋をしたまま、布袋を持ち上げた。中身の形が、すぐに分かる。円筒。少し重さがあり、重心は中央に寄っている。持ち上げた瞬間に、布の中で硬いものが、わずかに転がった。
カゲマルは天井近くの梁にいた。体を細く伸ばし、影と同じ色になっている。こちらを見ているのかどうか、分からない。ときどき、目だけが光を反射して、そこにいることを知らせる。
モノカゲは布袋の口を開いた。布が擦れる音が、昼の静けさに混じる。
中から出てきたのは、黒い懐中電灯だった。表面に目立った傷はない。レンズも透明で、曇りはない。スイッチ部分も、指に馴染む形を保っている。持ち手の溝に、薄い埃が一本だけ残っていて、拭かれたあとを思わせた。
モノカゲは、底の蓋を外した。回すと、軽い抵抗のあとで外れる。指先に、金属の冷たさが返ってくる。
中は、空だった。
電池の跡だけが残っている。金属のばねが、まっすぐに戻りきっていない。よく見ると、ばねの先が少しだけ歪んでいる。入っていたものが、何度も出し入れされたのだと分かる歪み。
モノカゲは蓋を戻し、懐中電灯を机に置いた。スイッチには触れない。触れれば点くかどうかは、今ここでは関係ない。
——明るい。
そう感じるほど、室内には光がある。窓越しの昼の光が、十分に届いている。紙の白さが白いままで、角の影もくっきりしている。
モノカゲは分類札の束を引き寄せ、『電化製品』の位置を確認した。指先が札に触れる前に、動きを止める。
電池がないだけで、分類は変わらない。
それでも、何かが一つ足りない。
足りないものは、部品ではなく、動作だ。
モノカゲは札を戻し、布袋を折りたたんだ。布の端を揃える動きは、いつも通りだ。端を揃えることで、何かが落ち着く。それでも、折りたたんだ布袋の中身はもうない。
梁の上で、カゲマルが姿勢を変えた。尾が一度だけ揺れ、梁に沿って影が動く。下りてはこない。下りてこないことが、今日は不自然ではない。
モノカゲは記録用の紙を一枚引き出し、ペンのキャップを外す。筆記具は道具のひとつだが、答えを出すものではない。紙の上に『懐中電灯(黒)』とだけ書き、括弧の中に小さく『電池なし』と添えた。
その文字は、説明ではなく、状況を留めるための線だった。
——昼。
音は、まずそこにあった。昼の室内。カーテン越しに光が揺れ、床が温かい。遠くで水が流れる音がする。台所の蛇口か、洗濯機の排水か。
引き出しが開く。
木が擦れる音。
中から、小さな箱が出てくる。箱の蓋は固く閉まっていない。指が押せば開く。
電池が二本。
一本ずつ取り出される。掌の上に乗せられ、指で転がされる。金属の端が光を拾う。
懐中電灯の底が開けられる。電池が抜かれる。抜く動作は急いでいない。乱暴でもない。必要な手順のように、静かに進む。
抜いた電池は、また小さな箱へ戻される。
箱の蓋が閉められる。
引き出しの奥へ戻される。
引き出しが閉まる。
そのあいだ、室内は暗くならない。
モノカゲは、紙に書いた文字を指で押さえた。ペン先が紙の上で、ほんの少しだけ迷ったが、何も書き足さない。日付も、ここではまだ書かない。書けば一つ決まってしまうから。
午後の受付が始まってしばらくしてから、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
モノカゲが顔を上げると、窓口の前に人が立っていた。薄手の上着を着ている。袖をまくり、手首が見える。手首には、細い時計の跡が白く残っている。今は何もつけていない。
「こちらに、懐中電灯って届いていますか」
声は落ち着いている。探している、というより、確認している調子。
「受付番号は……」
「番号は、分からなくて。ただ、黒い、普通のやつです」
普通、という言葉が、空気に残る。
モノカゲは布袋を指差し、窓口の内側へ引き寄せた。
「こちらです」
布袋の口を開けると、来訪者は一度だけうなずいた。
「……それです」
手は伸びない。
モノカゲは懐中電灯を取り出し、台の中央に置いた。受け渡しの距離。互いに一歩ずつ近づけば触れられるが、今は誰も一歩を出さない。
「中は確認されていますか」
来訪者は、少しだけ首を傾けた。
「ええ。電池は、抜いてありました」
言い切る声。
「使ってなかったので」
モノカゲは、書類を取り出す。返却の手続きは、問題なく進められる。用紙は白く、項目は並び、空欄は空欄のままだ。
「いつ頃から、使われていませんでしたか」
質問は、事務的な範囲。
来訪者は考えるそぶりを見せたが、具体的な日付は言わない。
「しばらく、ですね。部屋は明るかったですし」
明るかった、という言葉が、窓の光と重なる。
「電池、入れれば使えます」
来訪者はそう言って、懐中電灯を見た。スイッチには触れない。
「でも……」
言葉が止まる。
モノカゲは続きを促さない。
来訪者は、布袋の縫い目を見た。指先が、空中で一度だけ動く。触れる代わりに、袖の端をつまむ。
「夜でも、困らなかったので」
来訪者は、そう付け足した。
理由のようで、理由になりきらない。
梁の上で、カゲマルが体を丸めた。位置が少し高くなる。距離は縮まらない。片目だけがこちらを捉え、すぐに離れる。
モノカゲは、返却書類の欄に視線を落とした。『返却完了』。
懐中電灯は、返せる。
返したあと、どう使われるかは、決められない。
モノカゲは、底蓋をもう一度だけ外した。空の内部を確かめる。
「電池は……」
来訪者は、少しだけ視線を逸らした。
「別にしてあります。小さい箱に」
箱、という言葉が落ちる。
「捨ててはいません」
捨てていない、という否定だけが、はっきりしている。
モノカゲはうなずき、懐中電灯の蓋を閉めた。
「では、こちらはお返しします」
返却の言葉は、静かに置かれる。
来訪者は、ようやく懐中電灯に触れた。持ち上げる。重さを確かめるような動き。レンズを光にかざし、すぐに下ろす。
「ありがとうございます」
受け取っても、すぐには袋に入れない。少しだけ、そのまま持っている。手のひらの温度が移るまで。
「……点けないほうが、落ち着くって言ってたんです」
来訪者は、声を落とした。言った直後に、言わなければよかったという顔も、言って良かったという顔も、しない。
「眩しいって。昼でも」
言葉はそこまで。
モノカゲは、用紙の空欄を見た。そこに書く欄はない。書かない。
「電池のほうは……」
来訪者は、言いかけて止まった。
モノカゲは首を振った。
「こちらでは、お預かりしていません」
事実だけ。
来訪者は、小さくうなずき、懐中電灯を布袋に戻した。
「そうですか」
それ以上、何も言わない。
返却書類は、最後まで埋められないまま机に残った。モノカゲはそれを片づけるのではなく、端を揃えた。揃えるだけで、出来事が整列する。
ベルが鳴り、来訪者は去った。足音は軽い。扉が閉まる音は、他の音に溶ける。
室内に残ったのは、昼の光と、机の上の静けさ。
モノカゲは、しばらくその場に立っていた。懐中電灯のあった位置を見る。
そこには、もう何もない。
何もない場所は、何も起きなかった場所と似ている。
モノカゲは、作業台の端の引き出しを開けた。中には、小さな紙箱が一つある。蓋は閉じている。外側に、何も書かれていない。箱の角だけが少し丸くなっている。
箱を開けると、電池が二本入っていた。触れれば、まだ使える重さ。指先で転がすと、わずかに乾いた音がする。金属の端が、手袋の白さを映す。
モノカゲは、電池を一本ずつ箱の中で並べ直した。並べ直す必要はない。並べ直すことで、箱の中の時間が整う。
蓋を閉め、引き出しを戻した。音は小さい。
——暗くはない。
そう思えるほど、光は十分だ。
モノカゲは窓へ視線を向けた。外はまだ明るい。夕方には遠い。窓の外の木の葉が、風で少しだけ揺れた。
梁の上で、カゲマルがこちらを見下ろしている。目が合う前に、また視線を逸らす。見下ろす角度が変わるだけで、距離は変わらない。
モノカゲは引き出しの前で立ち止まり、手を置いた。開けない。押さえるだけ。押さえた手袋の下で、木の冷たさが静かに伝わる。
光らない懐中電灯は、もうここにはない。
光るかもしれない電池は、引き出しの中にある。
どちらも、今は使われない。
窓から差す光が、床をゆっくりと移動していく。
時間だけが、進んでいた。




