忘れ物36 引き出しの中の輪ゴム
# 忘れ物36 引き出しの中の輪ゴム
朝の光は、窓ガラスの端だけを白くして、そこから先の空気はまだ薄い。
忘れ物センターの作業台に、薄い段ボール箱が載せられた。手のひらに乗るほどの小ささで、持ち上げると軽い。紙の角が少しだけ擦れている。モノカゲは箱を受け取り、台の中央に置いた。
カゲマルが椅子の背から覗き込む。鼻先を近づけかけて、途中で止まった。まぶたを半分だけ下ろし、窓のほうへ視線を逃がす。尾が、机の脚に一度だけ触れて離れた。
モノカゲは、いつもの白い手袋を確かめるように指を曲げ伸ばししてから、箱のふたを押した。紙が鳴るほどの力はいらない。ただ、外側の空気が少しだけ替わる。
中には、同じ色の輪がいくつも入っていた。輪ゴムの束。
いくつかは、指先で触れる前から硬さがわかる。丸ではなく、角がつきかけた輪。いくつかは、まだ伸びそうな柔らかさを残している。色は、薄い茶。光に透ける部分と、陰に沈む部分がある。
箱の側面に、鉛筆の線があった。文字ではない。短い線が二本、少し離れて並んでいるだけで、記号のようにも見えるし、ただの走り書きにも見える。
モノカゲは、箱を閉め直さなかった。ふたの端に指を置いたまま、輪ゴムの束へ目を落とす。
——引き出し。
音が先に来た。木が擦れる音。金属が小さく鳴る音。引き出しの底に触れる、紙の端の感触。
視界は暗い。明かりのある場所ではない。開けた手が、奥へ伸びる。指先が、輪ゴムの束の表面を掠める。伸びるでも、縮むでもない。触れた瞬間の温度だけが残る。
そのまま、戻される。
引き出しの中へ。輪ゴムが箱に入れられるわけではない。束のまま、置かれる。引き出しの奥の、いつも同じ位置。
閉める音。
それだけ。
モノカゲは、息をする速度を変えずにふたを閉めた。輪ゴムの束は、箱の中にそのまま残る。
「文房具……」
分類札の束から、手で探す。『文具/小物』の札が指先に当たる。しかし、札を持ち上げるところで止まった。
軽いものは、分類しやすい。軽いものは、理由が見えにくい。
モノカゲは札を戻し、かわりに『保留』の札の位置を一度だけ確認した。そこにあることを確かめるだけの動作。
カゲマルは、机の上に乗らない。床に降りて、棚の影のほうへ歩いた。足音はない。影が、少し伸びる。
午前の受付が始まる前に、モノカゲは書類の束を整えた。紙の端を揃え、クリップを一つ外して、別の位置へ留め直す。中心がずれないように。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「おはようございます」
モノカゲが顔を上げると、窓口の前に人が立っていた。背丈は平均的で、肩にかけた鞄が少し重そうに見える。コートの袖口を押さえながら、視線だけで室内を見回した。
「すみません……こちらに、こういう小さな箱って届いてたりしますか」
声は、急いでいるわけでも、遅れているわけでもない。言葉を選ぶ時間だけが、少し長い。
モノカゲは、机の端に置いた箱へ視線をやった。来訪者の視線は箱には向いていない。手元の紙片に向いている。メモのような紙を、指で挟んでいる。
「受付番号は……」
「これ、番号がなくて。えっと、たぶん、うちの……」
メモの紙片に書かれた文字は、住所のように見えた。途中で消され、書き直されている。筆圧が一定でない。
モノカゲは、来訪者に紙片を受け取りながら、別の問いを挟まない。紙片を見て、書類箱を引き寄せた。
「お預かりの記録はあります」
来訪者の肩が、ほんの少しだけ下がる。下がったあと、すぐ元に戻る。
「それ、うちのかもしれなくて……」
「箱の中身は……輪ゴムです」
モノカゲが言うと、来訪者は笑うような息を一度吐いた。口元が上がるわけではない。息だけ。
「……ですよね」
来訪者は、窓口の台に指先を置いた。置いてすぐに、離した。
「輪ゴム。たぶん、引き出しの奥に……」
言いかけて、止まる。
モノカゲは箱を持ち上げ、窓口の内側の台に置いた。受け渡しの距離。手が届くけれど、まだ届かない位置。
来訪者の目が箱に落ちる。鉛筆の二本線を見て、視線が一度だけ揺れた。
「これ、うちの……」
言い直すように、来訪者は息を吸った。
「うちの父の部屋で。片づけの途中で……出てきたんです。こういう小さい箱が、いくつか」
父、という言葉が落ちたあと、室内の音が一瞬だけ薄くなる。エアコンの風の音だけが残る。
「誰のものか、はっきりしなくて」
「……はい」
モノカゲは相づちだけを置いた。来訪者は続ける。
「捨てる前に、一応。こういうのって、どこかの紙袋に入ってて……そのまま回収に出しちゃったらしくて。そしたら、ここに届いてたみたいで」
説明は、言い訳のようにも、報告のようにも聞こえる。どちらとも決められない速さ。
「受け取り……できますか」
来訪者は言いながら、箱へ手を伸ばさない。伸ばす代わりに、鞄の肩紐を直した。直し終えた手が、空中に戻る。
モノカゲは、返却の書類を引き出した。紙の束の端が揃っている。いつも通りの手順。
名前を確認し、連絡先を確認し、住所を照らし合わせる。手は迷わない。
しかし、箱の中身の輪ゴムが、もう一度だけ、引き出しの音を連れてくる。
木の擦れる音。
引き出しの底。
戻す指。
その場で、閉める音。
来訪者の言葉が、そこに重なる。
「父の部屋……引き出し、まだそのままで」
言葉は、さらりと置かれた。
「……鍵はあるんです。部屋の。あるんですけど」
来訪者は、箱のふたの端を見たまま言った。
「開けてないんです。あの引き出し。誰も」
その言い方は、強くも弱くもない。事実のようにも、決まり事のようにも聞こえる。
モノカゲのペン先が、紙の上で止まった。止まった時間は、長くない。けれど、確かに止まった。
カゲマルが棚の影から、こちらを見た。目が合う前に、また窓へ視線を逃がす。尾が床を一度だけ払った。
モノカゲはペンを置き、紙を一度だけ揃え直した。端をぴたりと合わせる。クリップを外して、別の位置へ留め直す。まるで、中心線を作るように。
「受け取りの手続きは、できます」
モノカゲは、決まりきった文を言った。
来訪者は小さくうなずいた。うなずいたが、手は伸びない。
「でも……」
来訪者の口から出た『でも』は、続きがない。
モノカゲは、『返す』の欄を指でなぞった。その上で、『保留』の札の束を思い出す。
保留は、返さないではない。
返さないは、切る。
保留は、置く。
置いたまま、触れない。
触れないまま、そこにある。
「……しばらく、お預かりしてもいいですか」
モノカゲは、そう言った。願いでも、命令でもない言い方。
来訪者のまぶたが、ほんの少しだけ閉じる。閉じて、開く。
「……それ、できますか」
「できます」
モノカゲは、紙の束を返却書類箱へ戻した。代わりに、保留用の記録用紙を一枚引き出す。白い紙。項目は少ない。
来訪者は、鞄の口を開けかけて、閉じた。取り出すものがないと気づいたのか、手が空中で止まり、袖口へ戻る。
「すみません。……こういうの、何か書いたほうが」
「こちらで記録します」
「……じゃあ」
来訪者は、箱を見たまま言った。
「その、……お願いします」
『お願いします』は、箱に向けられているようにも、空気に向けられているようにも聞こえた。
モノカゲは、保留用紙に日付を書き、メモの住所を写した。筆圧は一定。項目を埋める。中身は『輪ゴム(紙箱)』。
鉛筆の二本線を見て、何も書き足さない。
来訪者は、箱に触れないまま、窓口から一歩下がった。
「また……来ます」
そう言って、来訪者は出口へ向かった。靴音が二歩、床に残る。ベルが鳴り、扉が閉まる。
室内は元の静けさに戻った。紙の端が微かに鳴る。エアコンの風。
モノカゲは箱を持ち上げた。軽い。
軽い箱は、どこへでも運べる。
どこへでも運べるものほど、置く場所が要る。
モノカゲは作業台の端の引き出しを開けた。中には、札と、紐と、小さな封筒が整列している。必要なものが必要な順にある。
保留札を一枚取り、箱の脇へ添えた。札に書かれた『保留』の文字は、いつも同じ太さなのに、今日は少しだけ重く見える。
カゲマルが、棚の影から出てきた。箱に近づかない。棚の下へ潜り込み、丸くなる。目だけが、こちらを見ている。
モノカゲは保留棚へ歩いた。
棚は、入口から遠すぎない位置にある。近すぎない。誰かが来たとき、見える場所。見えすぎない場所。
保留棚の上段には、札の付いた小さな品が並んでいる。誰かがいつか、手を伸ばすかもしれない距離。
モノカゲは輪ゴムの箱を、その端に置いた。隣の品との間に、指一本分の空間を空けた。
箱の側面の鉛筆の二本線が、棚札の文字と並ぶ。
モノカゲは、棚札の紙の角を指で押さえ、角度を整えた。紙が少しだけ鳴る。
——引き出し。
音が、もう一度だけ来る。
木の擦れる音。
閉まる音。
戻される指。
そこまで。
モノカゲは棚の前で立ち止まり、視線を棚札へ落とした。『保留』。
言葉にすると決まる場所には、行かない。
ここは、言葉が先にある。
それでも、決まりきらない。
モノカゲは、棚札の文字を指でなぞった。紙の上を滑る指が、途中で止まり、また動く。
カゲマルが棚の下で息をした。音はしない。けれど、気配が確かにある。
モノカゲは棚から一歩離れ、作業台へ戻った。
書類の束をもう一度だけ揃える。端を揃える。中心を整える。
机の上には、まだ午前の仕事が残っている。
保留棚の端の小さな箱は、動かない。
動かないまま、そこにある。
窓ガラスの端の白さが、少しだけ広がった。




