忘れ物35 まだ、渡さなかった理由
忘れ物35 まだ、渡さなかった理由
昼過ぎの忘れ物センターは、午前とも夕方ともつかない時間を抱えている。
光は明るいのに、影がはっきりしない。外を歩く人の足取りも、どこか急ぎきれず、立ち止まるほどでもない。
モノカゲは受付台の上で、紙を一枚ずつ揃えていた。角を合わせ、重なりを確かめ、そっと指を離す。その動作を繰り返していると、時間の流れが少しだけ遅くなる。
カゲマルは、受付台の脇に置かれた小さな箱の上に丸まっている。黒と紫の色が混ざり、境目が曖昧だ。眠っているわけではないが、目を閉じている時間が長い。
扉が開いた。
ドアベルは鳴らなかった。鳴らないまま、空気だけがわずかに動き、外の気配が中へ入り込む。その変化は、慣れていなければ気づかないほど小さい。
来訪者は、紙袋を一つ持っていた。
三十代後半くらいだろうか。服装は控えめで、色味も落ち着いている。人の前に立つことに慣れているが、自分の話をするのは少し苦手そうな雰囲気だった。
「……あの、忘れ物というか」
声は柔らかい。
「置いてきてしまった物で」
言い直すように、そう付け足した。
紙袋は小さく、取っ手が細い。新品らしく、角も潰れていない。リボンが結ばれたままで、結び目にも乱れがない。
「ご相談ですね」
モノカゲは椅子を指し示した。
来訪者は椅子に腰を下ろし、紙袋を膝の上に置く。両手で持つでもなく、離すでもなく、ただそこに置いている。
「どのような物でしょうか」
「中身は……」
来訪者は一瞬だけ言葉を探し、首を振った。
「大したものじゃないんです」
その言い方は、言い訳ではなく、癖のようだった。
「袋のまま、誰かに渡すつもりだったものです」
誰か、という言葉の後ろに、具体的な像は出てこない。
「無くされた場所に、心当たりはありますか」
「職場だと思います」
来訪者はそう答え、少しだけ視線を落とした。
「机の引き出しか、ロッカーか……たぶん、どちらかです」
たぶん、という言葉が付くのは、探した時間をはっきり言えないからかもしれない。
「なぜ、探そうと思われたのですか」
モノカゲの問いに、来訪者はすぐには答えなかった。
「……そのままにしておくのも、変だと思って」
答えは短い。
カゲマルが、紙袋のほうへ顔を向ける。近づきはしない。ただ、視線だけが向いた。
「少し確認して参ります」
そう言ったとき、来訪者は紙袋を置いたままにした。預ける、というよりも、手放してみる、という置き方だった。
モノカゲは立ち上がり、倉庫へ向かう。
廊下を歩く間、紙袋のことを考えないようにする。考えれば、中身を想像してしまう。想像すれば、渡す理由を作ってしまう。
倉庫の空気は、昼の熱を含んでいた。紙と布と、微かな金属の匂い。
包装されたままの品は、意外と見つけやすい。誰かのために用意された物は、扱いが丁寧だからだ。乱雑な棚の中でも、そうした物だけは、わずかに距離を保って置かれていることが多い。
モノカゲは「袋物・贈答品」の棚を開ける。
そこに、よく似た紙袋がいくつか並んでいる。どれも折れ目がなく、持ち手もきれいだ。
一つ一つを確かめるうち、リボンの結び方が少しだけ違う袋があった。
結び目が、ほんのわずかに右へ寄っている。
モノカゲが紙袋に触れた瞬間、断片が流れ込む。
時間は、はっきりしていない。昼なのか、夕方なのかも分からない。ただ、相手の声が近く、空気が少しだけ張りつめている。
室内。
人の声。
近い距離。
袋を持つ手の緊張。
渡そうとして、引っ込める。
「今じゃない」という判断。
理由はない。
拒まれたわけでも、遮られたわけでもない。
ただ、渡さなかった。
渡せなかった、ではない。腕は伸ばせたし、声も出せた。けれど、伸ばさなかったし、声も出さなかった。
感情は強くない。
けれど、確かに相手がいる。
モノカゲは紙袋を持ち上げ、封筒の代わりに布で包んだ。リボンはほどかない。ほどいてしまうと、渡す準備が崩れてしまう気がした。
受付に戻ると、来訪者は同じ姿勢で待っていた。
「お待たせしました」
モノカゲが紙袋を差し出す。
来訪者の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……それです」
声は静かだった。
来訪者は紙袋を受け取り、しばらく見つめる。リボンに触れ、指を止める。その指先は、ほどこうとしていない。ほどいてしまえば、中身が現れてしまうことを、よく知っている動きだった。
「きれいなままですね」
確認するように言う。
「何度か、持って行ったんです」
ぽつりと、そう言った。
「渡せない状況じゃなかったし、会えなかったわけでもなくて」
来訪者は笑う。
「でも、渡す理由が……思いつかなかったんです」
理由が無いこと自体が、理由にならないと分かっている口調だった。
理由、という言葉が、少し重く落ちた。
モノカゲは何も言わない。
「お礼とか、挨拶とか、そういう形にすればよかったのかもしれない」
来訪者は続ける。
「でも、それだと嘘みたいで」
嘘、という言葉に、強さはない。
「だから、そのままになって」
そのまま、という言葉が、この話の中心だった。
モノカゲには、紙袋の行き先がうっすらと見えかけていた。
机の引き出しの奥。
捨てるほどではない場所。
けれど、渡すには少し遠い。
それを口にすることはしない。
「渡さなかったことも、そのときの選択だったと思います」
モノカゲは静かに言った。
来訪者は、その言葉をすぐに受け取れなかった。
少し遅れて、頷く。
「……そうですね」
納得ではなく、受け取り。
来訪者は紙袋の持ち手を一度だけ強く握り、すぐに力を抜いた。
「もう、渡さないかもしれません」
それは、決意というより確認だった。
モノカゲは答えない。
カゲマルが、紙袋から目を逸らす。中身に興味がないのではない。これ以上触れないほうがいい、と判断したようだった。
来訪者は立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございました」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
受付には、元の静けさが戻った。
モノカゲは、何も置かれていない台を見つめる。
さっきまで紙袋があった場所に、空気だけが残っている。
それは、渡されなかった贈り物の話ではなかった。
渡さなくても続いてしまった関係の話だった。
関係は壊れない。
壊れないからこそ、そのままで続いてしまう。
けれど、形も変わらない。
そのまま、という選択が、今日も静かに続いている。
カゲマルが小さく鳴いた。喉の奥で鳴る、音になりきらない息。
昼と夕方の境目の光が、受付台の上から少しずつずれていく。
ずれていくのに、今日の出来事はずれない。
ずれないまま、薄く残る。
それでいいと、言わないままに。




