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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物34 まだ、行かなかった理由

忘れ物34 まだ、行かなかった理由


 雨の気配は、降る前から建物の中に入り込む。

 ガラス越しの光が少しだけ鈍り、空気の温度が決まりきらないまま揺れる。遠くで車が水たまりを踏む音がして、それがしばらく遅れて窓の端に届く。


 忘れ物センターの夕方は、いつもより椅子の数が多く見える。

 座っている人が少ないほど、空いた場所の形がはっきりするからだ。


 モノカゲは受付台の角に手を置き、指先で木目の凹凸をなぞった。

 ここにいる間、手のひらはいつも何かに触れている。触れていることで、触れないものから距離を取れる。


 カゲマルは、受付の奥の棚の陰にいた。

 今日は黒が強い。紫が薄い。光の中に出てこようとしない。


 扉が開く音がした。

 外の空気が、ひと息ぶんだけ入り込む。


 来訪者は一人だった。


 五十代前半くらいに見える。背筋はまっすぐだが、肩の位置が少しだけ重い。整えられた髪、しわの少ない服。靴はきれいで、濡れた跡はない。

 雨は、まだ降っていないのだろう。


「……すみません」


 声は落ち着いていた。

 慌ててもいないし、迷ってもいない。

 ただ、ここへ来たことが自分の中で少し遅れている、という感じがあった。


「はい」


 モノカゲは椅子を指し示した。


「ご相談でしょうか」


 来訪者は椅子に腰を下ろす。背もたれに寄りかからず、膝の上に両手を揃える。揃え方がきれいで、長い間そうしてきた人の動きだった。


「交通系のカードです」


 来訪者はそう言った。


「ICカード。……ほとんど使っていない」


 財布から取り出したカードケースは、透明で、角が少し擦れていた。中に入っているカードの色は見えないが、存在だけが分かる。


「無くされた場所の心当たりはありますか」


 モノカゲが尋ねると、来訪者は首を横に振った。


「家の中だと思います」


 言い切ったあとで、少しだけ言葉を補う。


「まとめたはずなんですが。……見当たらなくて」


 その言い方は、探した時間の長さを語らない。

 探したのか、探していなかったのかも分からない。


「なぜ、探そうと思われたのですか」


 モノカゲの問いに、来訪者はすぐ答えなかった。

 答えの形を探すというより、答えを言っていいのかどうかを確かめている顔だった。


「別に、用事があったわけじゃないんです」


 来訪者はそう言って、わずかに笑った。


「困るわけでもない。ただ……残高が残っていた気がして」


 理由としては、それで十分なはずだ。


 カゲマルは棚の陰から動かない。

 目だけが、来訪者の膝の上のカードケースを見る。


「確認して参ります」


 モノカゲは立ち上がった。


 倉庫へ向かう廊下は、雨の匂いが混じっていた。

 紙の匂いと布の匂いの間に、濡れた土の匂いが薄く入り込む。


 倉庫の扉を開けると、空気が少し重くなる。

 金属、紙、ビニール。いろいろな素材の匂いが積み重なっている。


 交通系ICカードは、財布や小物入れと同じ棚にまとめられていることが多い。

 落とし物としては珍しくない。珍しくないのに、今日はなぜか、棚の前で足が止まった。


 モノカゲは「カード・定期券類」の引き出しを開ける。

 カードは薄く、同じ形がいくつも重なっている。名前が書かれているもの、書かれていないもの。定期が切れているもの、残高が残っているもの。


 その中に、透明なカードケースに入ったままの一枚があった。

 角が少し擦れている。けれど、表面に触れた跡が少ない。


 モノカゲが指先でケースに触れた瞬間、断片が流れ込んでくる。


 朝。

 駅。

 改札。

 行き先表示。

 人の流れ。


 足が一度だけ止まる。


 胸のあたりが、ほんの少しだけ重くなる。


 カードはポケットの中で温まっている。

 けれど、取り出されない。


 改札の前で、行き先を見上げる。

 見上げたまま、視線が少しだけずれる。


 そして、体が向きを変える。


 戻る。


 戻るときの足取りは、急いでいない。

 逃げてもいない。

 ただ、戻った。


 強い感情はなかった。

 泣いてもいない。

 怒ってもいない。


 あるのは「進まなかった」気配だけ。


 モノカゲはケースごとカードを持ち上げ、柔らかい封筒に入れた。

 封筒の紙が、カードの硬さを少しだけ隠す。


 カゲマルが背中に乗った。

 珍しく、動きが小さい。肩の上で息を潜める。


 受付へ戻る。


 来訪者は同じ姿勢で待っていた。姿勢は崩れていないのに、指先だけが少し動いている。

 何かを数えるような動き。


「お待たせしました」


 モノカゲが封筒を差し出すと、来訪者は目を細めた。


「……それですか」


 声の中に、安堵がある。けれど、それだけではない。


 来訪者は封筒からカードケースを取り出し、透明なケース越しにカードの表面を見た。


「残ってる」


 残高の表示を確かめる。数字は小さい。大きな額ではない。


「……やっぱり」


 来訪者は小さく頷く。


「ほとんど使っていないんです」


 言い訳のように聞こえるが、言い訳ではない。

 ただ、事実の確認。


「買ったのは、いつ頃ですか」


 モノカゲが訊くと、来訪者は少しだけ目を伏せた。


「……数年前です」


 数年前。

 具体的な数字を避ける言い方。


「仕事で使うわけでもなくて」


 来訪者は続けた。


「普段は車ですし、駅も……近いようで、遠い」


 言葉がそこで一度止まる。


「でも、その時は、駅まで行った」


 さらりとした口調。


「行こうと思えば、行けたんです」


 来訪者はそう言って、カードケースの角を指でなぞる。


「でも、その日は行かなかった」


 理由は続かない。


 モノカゲは聞かない。


 来訪者は自分で言葉を足す。


「……行かなかった、というより」


 少しだけ笑う。


「戻ったんです」


 戻った。

 その単語は、行かなかったよりも具体的だった。

 行き先があったことを匂わせる。


 窓の外で、雨が降り始めた。

 最初は細い音だった。

 やがて、規則的な粒の音に変わる。


 来訪者はその音を聞きながら、カードを見つめた。


「別に、用事があったわけじゃないんです」


 さっきと同じ言葉。

 繰り返すことで、別の言葉が出てこないようにしている。


「行ったところで、どうなるわけでもないし」


 来訪者はそう言って、カードケースを閉じた。


「……でも、残高が残っていたのは、覚えていて」


 残高。

 残っているもの。


 モノカゲには「行き先」がうっすらと見えかけていた。

 財布の奥。

 使う予定のないポケット。

 それでも捨てられない場所。


 そして、もう一つ。

 駅の改札。

 あの日のまま、通らなかった線。


 モノカゲは、言葉にしない。

 言葉にしてしまえば、線が太くなる。


 モノカゲは、静かに言った。


「行かなかったことも、その日の選択だと思います」


 来訪者の目が、少しだけ揺れた。

 揺れは小さく、外から見れば気づかない。

 けれど、確かに揺れた。


「……選択」


 来訪者は繰り返す。


 雨音が、少しだけ強くなった。


「そんな大げさなものじゃないんですよ」


 来訪者は笑う。

 笑いは短い。


「ただ、行かなかった」


 言い切ったあとで、声が少しだけ低くなる。


「……行けたまま、行かなかった」


 それは、初めて出てきた言い方だった。


 モノカゲは答えない。


 カゲマルは動かない。

 肩の上で息を潜めたまま、来訪者を見送る準備だけをしている。


 来訪者はカードを財布に戻した。

 戻し方が丁寧で、まるでしまう場所を決め直すみたいだった。


「……もう、使わないかもしれません」


 来訪者はそう言って、立ち上がる。


「ありがとうございました」


 頭を下げ、扉へ向かう。

 雨の匂いが濃い。


 扉が開き、閉まる。

 足音は雨音に溶けていく。


 受付には、また静けさが戻る。


 モノカゲは、何も置かれていない台を見つめる。

 さっきまでカードケースがあった場所に、透明な硬さだけが残っている気がした。


 それは、行かなかった場所の話ではなかった。

 行けたまま、行かなかった一日の話だった。


 雨は降り続ける。

 雨が止んでも、あの日は戻らない。

 戻らないままでも、日常は続く。


 モノカゲは、その続き方を止めない。

 止める言葉を、ここは持たない。


 カゲマルが小さく鳴いた。喉の奥で鳴る、音になりきらない息。


 雨音が、受付台の角をなぞる影を消していく。

 消えていくのに、今日の出来事は消えない。


 消えないまま、薄くなる。


 薄くなりながら、残る。


 それでいいと、言わないままに。


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