忘れ物33 まだ、言わなかった理由
忘れ物33 まだ、言わなかった理由
夕方の忘れ物センターは、昼間よりも静かになる。
人の出入りが途切れ、外の光が窓の端から少しずつ薄れていく。床に伸びていた影が短くなり、いつの間にか、受付台の角だけをなぞるようになる。
モノカゲは、掲示板の紙がずれていないか確かめ、飲みかけの水を一口だけ飲んだ。水は冷たくない。冷たくないのに、喉の奥を通るときだけ、少しだけ冷える。
カゲマルは受付台の下、椅子の脚と脚の間に収まっている。黒と紫の体色が、影にまぎれて輪郭を薄くしていた。時々、瞬きをするたびに、そこにいることだけが分かる。
扉が開く音がした。
昼間の軽さではなく、金具がきちんとかみ合う音。
来訪者は一人だった。
四十代前半くらいに見える。背筋が伸びていて、肩の位置も左右で揃っている。服は落ち着いた色で、靴には外の埃がほとんどついていない。ここへ来る前に、どこかで一度立ち止まって、靴底を拭いたのかもしれない。
「……すみません、まだ大丈夫でしょうか」
声は低く、丁寧だった。急いでいるようでも、迷っているようでもない。ただ、ここへ来たこと自体が少しだけ遅かった、という感じがする。
「はい」
モノカゲは椅子を指し示した。
「ご相談は、どのようなものですか」
来訪者は一度だけ息を吸い、言葉を選ぶ。
「紙切れ、みたいなものなんです」
言い方が曖昧だった。
けれど、曖昧なまま差し出される手は、妙に確かだった。
「メモ……だと思います。小さい紙で」
来訪者は言いながら、自分の掌を見つめた。掌に紙が残っているわけではないのに、そこに触感だけが残っているみたいに。
「色は白か、薄いクリーム色か……書きかけで、途中で止まっている。そういうのです」
モノカゲは記録用紙を取り、必要最低限の項目に目を落とした。
「いつ頃、無くされた可能性が高いですか」
来訪者は少し考え、首を傾げる。
「……無くした、というのも変で。捨てた覚えはないんですけど」
言葉が一度止まる。
「家にも、職場にも、見当たらなくて」
来訪者の視線は、受付台の端、モノカゲの手元の紙の角を追っていた。
「どこで使われていた物ですか」
「職場です。……メモ帳の一枚で」
来訪者はそれだけ答えた。
職場、という単語の後ろに、具体的な景色が続かない。
「なぜ、探そうと思われたのですか」
モノカゲの問いに、来訪者はすぐ答えなかった。
言えることを探すのではなく、言ってもいい範囲を探している顔だった。
「大したことじゃないんですけど」
口癖のように、そう言う。
「……書こうと思って、やめたんだと思います」
その言葉だけが、受付の空気に落ちた。
カゲマルが、椅子の影から少しだけ顔を出した。目だけが、来訪者の手元へ向く。近づく気配はないが、離れる気配もない。
「少し確認して参ります」
モノカゲは立ち上がる。
来訪者は「お願いします」と短く言い、椅子の背もたれに触れずに座り直した。
倉庫へ向かう廊下は、夕方の匂いが混じっていた。外で乾いた空気が、建物の中にも忍び込んでいる。
壁際の棚には、今日一日で持ち込まれた袋がいくつか並ぶ。透明な袋の中で、帽子のつばが折れ、ハンカチがきれいに畳まれている。
モノカゲは倉庫の扉を開けた。
倉庫の空気は、紙と布と金属の匂いが混ざっている。夕方になると、その匂いが少し重くなる気がした。湿気ではなく、積み重なった時間の重さ。
紙類の棚は、静かに整っている。封筒、手紙、メモ、チラシ、名刺。ここには「言葉が残ったもの」が多い。
けれど、今日探しているのは、言葉が残りきれなかったものだ。
モノカゲは「紙片・メモ類」の引き出しを開ける。
そこには、誰かが書いた電話番号だけの紙、買い物リストの切れ端、折り目のついた付箋、宛名のない封筒の中身のメモ……。
どれも、捨てるには惜しく、残すには意味が薄い。
来訪者が言った特徴。
小さな紙。
書きかけ。
途中で止まっている。
モノカゲは指先で紙の束をそっとずらし、角度を変えながら一枚ずつ確認した。
その中に、折り目のある紙があった。
白より少しだけ温かい色。薄いクリーム色。
端が一箇所、指で何度も押さえたように丸くなっている。
モノカゲがその紙に触れた瞬間、音ではないものが胸の奥に滑り込んでくる。
夜。
明かりの落ちた部屋。
テーブル。
ペン先が紙に触れる音。
書いて、止める。
書いて、止める。
紙を裏返す。
また表に戻す。
息を吐く。
吐いた息が、少しだけ白い。
そこには、怒りも悲しみもなかった。
あるのは、決めきれないままの温度。
それから、ほんの少しだけ、手のひらの汗の感触。
ペンを持つ手が、何度も握り直される。
最後に、紙を折る動き。
折るというより、畳む。
畳んで、どこかへ入れる。
そして、静かに終わる。
モノカゲは紙を持ち上げ、書かれている文字を読む。
文字は途中で切れている。
「——へ」
宛名のような形。
誰かへ向けた文字のはずなのに、名前がない。
それ以上の文はない。
その下に、線が一本引かれている。線も途中で途切れている。
名前の代わりに、「へ」だけが残っている。
カゲマルが背中に移動し、首元に鼻先を寄せた。紙の匂いを嗅ぐというより、モノカゲの呼吸を確かめるみたいに。
モノカゲは、その紙を柔らかい封筒に入れ、封をせずに持ち帰った。
封をしてしまうと、閉じ込めることになる気がした。
受付へ戻る。
来訪者は椅子に座ったまま、背筋を崩さずに待っていた。手は膝の上で重なり、指先がほんの少しだけ動いている。何かを数えるみたいに。
「お待たせしました」
モノカゲが声をかけると、来訪者は顔を上げた。
「見つかりましたか」
声は落ち着いているのに、語尾だけが少しだけ軽い。
軽いというより、軽くしてしまう癖。
モノカゲは封筒を差し出し、中の紙をそっと取り出した。
「こちらです」
来訪者の目が、その紙に触れた瞬間、ほんの少しだけ揺れた。
揺れは大きくない。けれど、揺れたことだけが分かる。
来訪者は紙を受け取り、折り目をそっと伸ばす。
指先は丁寧で、紙を壊さない速度だった。
「……これです」
声は、確かだった。
来訪者は紙の表を見て、裏を見て、また表を見た。
「——へ」の二文字だけが、そこに残っている。
「へ、だけだ」
独り言のように言う。
「……名前は書かなかったんですね」
それは、他人事みたいな言葉だった。
モノカゲは何も言わない。
この紙が誰宛かを、モノカゲが推測してしまえば、紙の行き先が決まってしまう。
来訪者は、紙の端の丸くなった部分を親指でなぞった。
「書こうと思って」
言葉が落ちる。
「書こうと思って、やめた」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
繰り返すことで、他の言葉が出てこないようにしているみたいだった。
沈黙が、受付に落ちる。
夕方の静けさは、沈黙と相性がいい。沈黙が沈黙として座れる。
来訪者が、ゆっくりと息を吐いた。
「こういうのって……捨てられないんですよね」
それは、物の話のように聞こえる。
けれど本当は、物の話ではない。
「捨てなくても困らないのに」
来訪者は笑った。
笑いは短い。
「残しておいても、意味があるわけじゃないのに」
意味、という言葉が少し硬かった。
モノカゲは、来訪者の手元を見ている。
紙は薄く、軽い。
それなのに、来訪者の指先はどこか重い。
モノカゲには、「行き先」がうっすらと見えかけていた。
机の引き出しの奥。
書類の束の下。
何年も見返さない場所。
けれど、時々だけ、引き出しを開けたときに触れてしまう場所。
触れてしまったときに、心臓が一度だけ小さく鳴る。
モノカゲはそれを口にしない。
言えば、そこに固定されてしまう。
来訪者は、紙を折ろうとして、手を止めた。
折れば終わる。
折らなければ終わらない。
終わらないままでも、日常は続く。
モノカゲは、その間を見てから、一言だけ言った。
「書き直さなくても、いいと思います」
来訪者の手が止まった。
止まったまま、紙だけが少し揺れる。
「……書き直さなくても」
来訪者は繰り返した。
「はい」
モノカゲはそれ以上言わない。
今から書け、とも。
書いたほうがいい、とも。
言えなかったことを悔やめ、とも。
来訪者は紙を見つめた。
「これで、よかったんですね」
問いかけは、誰に向けたものか分からなかった。
紙に向けたものでも、自分に向けたものでも、ここにいる誰かに向けたものでもない。
モノカゲは答えない。
カゲマルが、椅子の影からゆっくり出てきて、来訪者の足元の少し手前で止まった。
来訪者は視線を落とし、カゲマルを見る。
その目に驚きはない。ここでは驚くことが、少しだけ遅れる。
来訪者は何も言わず、紙を折った。
折り目は、さっきより少しだけ丁寧だった。
紙は小さくなり、掌の中に収まる。
「……ありがとうございました」
来訪者は立ち上がり、頭を下げた。
頭の下げ方も丁寧で、角度が揃っている。
けれど、立ち上がった瞬間、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
扉が開き、閉まる。
足音が遠ざかる。
外は、夕方の匂いが濃くなっていた。
受付には、また静けさが戻る。
モノカゲは、何も置かれていない台を見つめる。
さっきまで紙が置かれていた場所に、紙の軽さだけが残っている気がした。
「——へ」
宛名になりきれなかった二文字。
言えなかった言葉の話ではない。
言わないままでも、日常が続いてしまった話だ。
続いてしまう日常の中で、人は時々、紙の存在を思い出す。
思い出すたびに、ほんの少しだけ、胸の中の空白が揺れる。
モノカゲは、その揺れを止めない。
止める言葉を、ここは持たない。
カゲマルが小さく鳴いた。喉の奥で鳴る、音になりきらない息。
夕方の光が、受付台の角から消えていく。
消えていくのに、今日の出来事は消えない。
消えないまま、薄くなる。
薄くなりながら、残る。
それでいいと、言わないままに。




