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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物31 まだ、捨てていない理由

忘れ物31 まだ、捨てていない理由


 忘れ物センターの朝は、いつも静かだ。  開館前の廊下には、人の気配よりも、物の気配のほうが濃く残っている。整理された棚の奥で、誰にも触れられずに一晩を越えた忘れ物たちが、朝の空気に少しだけ馴染もうとしている。


 床を踏むたび、靴底がわずかに鳴る。音は大きくないのに、建物の中ではそれがやけに目立つ。モノカゲは自分の足音に合わせて呼吸を整え、受付の灯りをひとつ点けた。


 書類箱の角を揃え、名簿の頁を一枚だけめくって戻す。やるべきことは、いつも決まっている。

 台の上を拭く布は、昨日より少し乾いていた。指先に繊維のざらつきが残る。


 モノカゲは受付台の上を拭き終え、布を畳んだ。

 その動きはいつもと変わらない。変わらないはずなのに、今日はなぜか、一つ一つの動作に間が生まれていた。


 カゲマルは、受付の隅に置かれた観葉植物の影に寄り添うようにしている。黒と紫の境目が、朝の光に溶けて輪郭が曖昧だ。目だけが、いつもより少し遠くを見る。


 扉が開く音がする。

 来訪者は一人だった。


 年齢は三十代の後半か、もう少し上かもしれない。派手さのない服装で、特別な事情を抱えているようにも、そうでないようにも見える。視線は落ち着いていて、緊張も焦りもない。

 しかし、入ってくるときに一度だけ足を止め、掲示板の前で立ち尽くすような間があった。


「忘れ物のご相談で……」


 そう言いながら、相手は受付台の前に立った。

 声の調子も、歩き方も、ごく普通だ。無理に明るくもしないし、重くもしない。けれど、言葉の選び方にだけ、ほんの少し慎重さが混じっていた。


「はい」


 モノカゲは短く応じた。

 相手が差し出した申込用紙は空欄のままだった。名前を書く欄の手前で、ペンが止まった痕だけが薄く残っている。


「探している物がありまして」

「どのような物でしょうか」


 相手は少し考える。

 考えるというより、思い出すほどの情報が手元にないことを確かめるように、視線が宙を彷徨った。


「小さな金具、というか……留め具、みたいなものです。どこに使うのかも、よく分からなくて」


 その言い方に、特別な強さはない。

 ただ、思い出したから来た、という響きだけがあった。


「色や形は覚えていますか」

「いえ……銀色だったと思います。ごく普通の。丸いのか、四角いのかも……」


 相手は申し訳なさそうに笑い、すぐに笑みを引っ込めた。


「大丈夫です」


 モノカゲは記録用の紙に、簡単な特徴を書き留める。銀色、小さな留め具、用途不明。

 それだけだ。


「どこで無くされた可能性が高いですか」

「実家です。……片付けをしていて、裁縫箱みたいなものの中に、あったはずなんですけど」


 “あったはず”。

 言葉が不確かなくせに、確信だけが残っている。


「なぜ、探そうと思われたのですか」


 その問いに、相手は少しだけ困ったような顔をした。


「片付けていたら、気になって」


 それだけだった。

 理由としては、それ以上でもそれ以下でもない。


 カゲマルは、モノカゲの肩のあたりでじっとしている。尻尾も、色も、ほとんど動かない。嫌がってもいないし、引き寄せられてもいない。

 けれど、相手が「気になって」と言った瞬間にだけ、瞳孔がほんの少し細くなった。


「こちらでお預かりの可能性があります。少し確認して参ります」


 モノカゲはそう言って立ち上がった。

 相手は「お願いします」と小さく言い、椅子に腰を下ろす。座り方は丁寧なのに、背もたれには寄りかからない。


 倉庫へ向かう廊下は、開館前の冷たさを残している。壁際の小さな棚には、昨日のうちに持ち込まれた袋が数個置かれていた。透明な袋の中で、片方だけの靴下が丸まっている。

 モノカゲはそこを通り過ぎ、倉庫の扉を開けた。


 倉庫の空気は、紙と布と金属の匂いが混ざっている。整理された棚が並び、番号札が揃っている。

 奥のほうへ行けば行くほど、番号の付け方の癖が変わる。今日、そこへ踏み込む必要はない。


 用途不明の留め具。

 裁縫箱。


 モノカゲは「布類・裁縫関連」の棚を開き、箱をいくつか引き出した。

 古い糸巻きは色褪せ、針山はいつの間にか形を崩している。折れたチャコペン。使われなかったボタン。半端なゴム紐。どれも、生活の端に置かれていた時間の名残だ。


 箱の中で金属が触れ合う、かすかな音がする。

 モノカゲは一つ一つを手のひらに移し、光の当たり方を変えた。


 留め具は、あった。

 小さく、薄く、銀色で、どこに使うのか分からない形。

 片側に小さな溝があり、もう片側に爪のような突起がある。開閉するほどの動きはなく、ただ、何かを“止める”ためだけに存在しているような。


 モノカゲがそれに触れた瞬間、音ではないものが胸の奥に落ちてくる。


 夜。

 静かな部屋。

 机の上に広げられた布。

 針が布を抜けるときの、わずかな抵抗。

 指の腹に残る熱。

 薄い灯り。


 そして、すぐそばで「大丈夫」と言った気配。

 声としては聞こえない。誰が言ったのかも分からない。ただ、その言葉が置かれた場所だけが見える。


 それは悲しみでも、強い懐かしさでもなかった。

 ただ、穏やかな時間の断片だった。


 もう一つ。

 ほんの少しだけ、冷たい水の匂いが混じった。

 手を洗った直後のような、石鹸の残り香。


 モノカゲは留め具をそっと布の上に置き、しばらく動かなかった。

 カゲマルが背中に移動し、首元に鼻先を寄せる。嫌がるでもなく、確かめるでもなく、“そこにある”という仕草だった。


 モノカゲは留め具を柔らかい紙で包み、持ち帰る。


 受付に戻ると、相手は立ち上がりかけていた。


「お待たせしました」


 相手は少し驚いたように目を瞬かせた。


「こんなに早く……」


 モノカゲは、包みを開き、留め具を差し出す。


「こちらです」


 相手はそれを受け取り、手のひらで転がすように見つめた。

 まるで重量を確かめるみたいに、左右の手を入れ替える。


「……これ、母の物だったみたいなんです」


 独り言のような声だった。


「実家を整理していて。裁縫箱の中にあって」


 その言い方にも、特別な感情はこもっていない。

 形見という言葉を選ぶ前に、まず“物の所属”を確認するような語り方だった。


「母は、裁縫が得意な人じゃなかったんです。ボタン付けくらいで」


 少し笑う。

 笑った、というより、笑ってしまったことに自分が気づいて、すぐに表情を戻した。


「だから、これが何なのかも分からなくて。形見って言うほどでもないし」


 モノカゲは何も言わない。

 ただ、相手の手元を見る。

 指先が留め具の溝をなぞり、何度か同じところを触る。


「……母、こういうの、持ってたんだなって」


 相手はぽつりと付け足した。

 それは感想のようで、確認のようで、どちらでもない。


「捨ててもよかったと思うんです」


 相手は続けた。


「実際、似たような物はいくらでもあるし」


 そこで言葉が止まる。


「……でも」


 その先は続かなかった。


 沈黙は、気まずさではなかった。

 言葉が足りないのではなく、言葉にすると形が変わってしまう気がして、置いたままにしている沈黙だった。


 モノカゲは、その沈黙を遮らない。

 カゲマルが、ほんの少しだけ体を傾ける。爪が机の縁に触れ、かすかな音がした。


 モノカゲには、その留め具の「行き先」が、うっすらと見えかけていた。

 棚の一角。布に包まれたまま、しばらく動かない未来。

 引き出しの中でも、飾り棚の上でもない。ただ、どこかの“隅”に置かれて、時々だけ思い出される。


 それを口にすることはしない。

 言ってしまえば、行き先はそこに固定されてしまうから。


「返却は、可能です」


 モノカゲはそれだけを告げた。


 相手は、少し安堵したように息を吐く。


「……ありがとうございます」


 礼の言葉の後ろに、別の言葉が続きかける。

 けれど、それもまた、形にならない。


 モノカゲは、最後に一言だけ添えた。


「無理に使わなくても、いいと思います」


 相手は、少しだけ驚いた顔をしてから、視線を落とした。

 驚きは、助言そのものではなく、助言に含まれていた“許可”に向いていた。


「はい」


 留め具は、すぐにはしまわれなかった。

 相手はそれを手のひらに乗せたまま、しばらく黙っている。

 握りしめはしない。落としもしない。掌の温度だけが、ゆっくり金属に移っていく。


「……まだ、捨てなくていいですよね」


 問いかけは、誰に向けられたものか分からなかった。

 母に向けたものでも、自分に向けたものでも、ここにいる誰かに向けたものでもない。

 それでも、口に出してしまったのは、口に出さないと“捨ててしまう”気がしたからかもしれない。


 モノカゲは答えない。

 代わりに、カゲマルがほんの少しだけ近づいた。

 その動きは慰めではなく、確認のようだった。


 やがて、相手は静かに頭を下げ、扉を出ていった。

 扉が閉まる音の後、足音が遠ざかっていく。


 受付には、元の静けさが戻る。


 モノカゲは、空になった台を見つめる。

 先ほどの留め具が置かれていた場所に、まだ金属の冷たさが残っている気がした。


 布を畳むときの手の熱。

 「大丈夫」と言った気配。

 その言葉を、誰が誰に向けたのか。

 モノカゲは考えない。

 考えれば、決まってしまう。


 カゲマルが小さく鳴いた。喉の奥で鳴る、音になりきらない短い息。


 それは、使われなかった物の話ではなかった。

 捨てる準備が、まだできていなかっただけの話だった。


 そして、準備ができた日が来るのかどうかも、誰にも分からない。

 分からないままでも、ここには置ける。

 そのことだけが、今朝の静けさの中に残った。


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