忘れ物30 書かれなかった宛名
忘れ物30 書かれなかった宛名
夕方の忘れ物センターは、光が二重になる。
外の空はまだ明るく、窓から斜めに差し込む光が棚の側面を照らす。一方で、天井の照明はすでに点き始め、白い光が床に落ちている。その二つが混ざる時間帯は、輪郭が少しだけ曖昧になる。
紙の白さも、そこで変わる。自然光の下では青く、照明の下では少し黄みを帯びる。棚の端で、その違いがゆっくり入れ替わる。
モノカゲは書類棚の前に立っていた。
紙類の棚は、他の棚よりも静かだ。
鍵や金属のような重さも、ガラスのような緊張もない。ただ、薄い紙が重なり合っているだけなのに、ここでは足音まで吸い込まれる気がする。
紙が擦れる音は小さいはずなのに、逆に目立つ。だから、触れるときの指先はいつもより遅くなる。
封筒、書類、メモ帳、紙袋。
種類ごとに仕分けられ、立てられ、束ねられている。
角が折れないように挟まれた厚紙。
糊が乾かないように袋に入れられたもの。
しわのまま、誰も直さなかったもの。
紙は軽い。
軽いから、忘れられやすい。
忘れられやすいから、残るものもある。
その中に、一通の封筒があった。
白無地。
宛名も差出人も書かれていない。
中に何かが入っている気配もない。
封はされておらず、角が少しだけ折れている。
新品ではない。
けれど、使われた形跡もない。
封筒の表面には、指の脂が残りやすいはずなのに、それが薄い。触れられた回数が少ない。
ただ、角の折れだけが、触れた瞬間を覚えている。
モノカゲは一度通り過ぎてから、足を止めた。
紙類の忘れ物は、反応が弱いことが多い。
感情が届かないわけではないが、形になる前に消えてしまうことが多い。
文字にする前の感情は、言葉よりも薄く、早い。
それでも、この封筒は、そこに残っていた。
近くで、カゲマルが丸くなっている。
黒と紫の体を小さくまとめ、棚から少し離れた場所で動かない。眠っているのか、起きているのかは分からない。ただ、近づいてこない。
耳だけが、ときどき小さく動く。紙の音に反応しているのかもしれない。
モノカゲは、そっと封筒に触れた。
指先に届くのは、淡い断片だった。
机の前。
椅子に座る気配。
ペンを持った手。
紙の上で、ペン先が空中に止まる。
宛名を書く位置を測るような動き。
罫線もない白い面に、最初の一文字を置く場所を探す。
けれど、ペン先は紙に触れない。
一度、紙を裏返す。
裏側の白さを見て、何かを確かめる。
もう一度、戻す。
小さく息を吸う音。
息を吐く音は届かない。
それから、引き出しに入れる前の、短い間。
封筒を持ったまま止まる手。
置き場所を決めるまでの間。
感情はほとんどない。
迷いとも、決意とも言い切れない。
ただ、「書かなかった」という選択の重さだけが、残っている。
それは、送らないと決めた重さとも違う。
送れないと諦めた重さとも違う。
もっと薄い。
薄いのに、折り目のように残る。
モノカゲは手を離した。
封筒は、軽く棚に戻る。
端末を操作しても、情報はほとんど出てこない。
家庭用の一般的な封筒であること。
新品ではないが、使用履歴はないこと。
拾得場所は、住宅街の近く。
紙ゴミの集積所ではなく、歩道の端。
宛名も、差出人も、候補すら分からない。
モノカゲは封筒を見下ろした。
書こうと思えば、書けたはずだ。
宛名を書く場所も、差出人を書く場所も、空いている。
けれど、何も書かれなかった。
書かなかった理由は、届かない。
理由はいつも、言葉よりも手前にある。
言葉になる前に止まったものは、ここでも言葉にならない。
モノカゲは、封筒を指で少しだけ持ち上げる。
中は空だ。
空であることは、重さで分かる。
それでも、空の封筒は、空白ではない。
空白は、書かれなかった言葉の形だ。
モノカゲは、返却棚を見る。
返却は可能だ。
持ち主が取りに来れば、そのまま渡せる。
けれど、返したところで、この封筒が使われる保証はない。
机の奥に戻されるかもしれない。
そのまま捨てられるかもしれない。
また、どこかの引き出しで時間を止めるかもしれない。
モノカゲの胸に、一瞬だけ、行き先が浮かぶ。
ごみ箱。
机の奥。
どちらも確定しない。
どちらも、現実的だ。
浮かんだ輪郭は、すぐに薄れる。
見えたのか、見えなかったのか。
モノカゲ自身も、確かめない。
封筒は、ひとつの場所にしか行けない。
けれど、行き先がひとつに決まる前の揺れが、ここではよく残る。
モノカゲは、封筒を開かない。
中を確かめない。
中身がないことは、触れなくても分かる。
封筒は、空白のまま置かれている。
モノカゲは封筒を持ったまま、棚の列の間を少し歩いた。
返却棚までの距離は短い。けれど、紙類を持つときだけ、歩幅がさらに小さくなる。
角が折れやすいから。
折れたまま返すか、折れを伸ばすか。
モノカゲは折れを伸ばさない。
折れは、そこにある。
返却棚の前で立ち止まり、他の返却物の並びを確かめる。
封筒は白い。
白いものが多い棚では、白は目立たない。
見つけにくくしない位置を選ぶ。
見つけやすくしすぎない位置も選ぶ。
そのあいだ。
モノカゲは、封筒をそのまま返却棚に置いた。
整えない。
角の折れも、そのまま。
理由は言葉にしない。
その判断が正しいかどうかも、考えない。
置いたあと、封筒の縁が、棚板の木目に沿って少しだけ滑った。
モノカゲはそれを止めない。
止める必要がない程度の滑り。
作業を終え、棚から一歩離れる。
夕方の光が、封筒の角を照らす。
折れた部分だけが、少しだけ白く浮いて見える。
中身はない。
それでも、空白は残っている。
カゲマルは、最後まで近づかない。
丸くなったまま、体の色だけを少しずつ変える。
紫が濃くなり、黒が増え、また戻る。
倉庫の奥で、宛先を持たなかったものが、静かに重なっている。
封筒。
宛名のないカード。
宛先のない紙片。
数は数えられない。
名前も付けられない。
誰も、確かめない。
忘れ物センターは、今日も、何も書かれないままの物を受け入れている。




