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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物29 使われなかった予備の鍵

忘れ物29 使われなかった予備の鍵


 午前と午後の境目の時間は、忘れ物センターがいちばん曖昧になる。

 朝の作業が一段落し、次の来客まで少し間が空く。人の気配は残っているのに、声は途切れている。棚のあいだを流れる空気だけが、目的を持たずに動いている。

 遠い受付のほうで、紙が擦れる音がして、それきり静かになる。外の車の音は、壁を一枚隔てたところで薄くほどけていく。


 モノカゲは鍵類の棚の前にいた。


 鍵の棚は、他の棚よりも整然としている。

 形、長さ、溝の数、金属の色。分類の基準がはっきりしていて、置く場所も決まっている。小さくても重要な物が多いため、配置に曖昧さはない。

 袋に入ったままのもの、裸のままのもの、キーホルダーが付いたままのもの。指先に当たる冷たさも、重さも、それぞれ違う。


 同じ「鍵」という名でまとめられていても、用途の違いは触れなくても分かる。

 硬い金属の輪がついた車の鍵。

 くすんだ真鍮の古い引き戸の鍵。

 番号札だけが大きくぶら下がったロッカーの鍵。


 それらは、ここに来た理由がそれぞれある。

 切迫したものもあれば、そうでないものもある。


 棚の前に立つだけで、モノカゲはいつも、ほんの少し姿勢を正す。

 鍵は小さい。小さいけれど、持ち主の生活の境目に触れている。


 その中で、一本だけ、不自然なほど新しい鍵があった。


 銀色。

 表面にほとんど傷がない。

 削れた跡も少なく、使われた回数が極端に少ないことが分かる。

 鍵山の角がまだ立っていて、光を受けると薄く白く反射する。


 キーホルダーは付いていない。

 タグも簡素だ。

 透明な小袋に入っていたが、今は袋から出されている。袋は別の場所に回されたらしい。


 モノカゲは一度通り過ぎてから、戻った。


 戻る理由は言葉にしない。

 ただ、そこにある時間が少し長すぎるように感じた。

 新しい鍵は、返却されるときも早いことが多い。必要に迫られて作られるものだから。

 それが、ここにいる。


 近くで、カゲマルが棚の後ろを横切る。

 鍵の列に顔を近づけることはなく、通路の端をなぞるように歩く。嫌がってはいない。ただ、積極的に関わろうともしない。

 影の濃いところに体色を合わせて、薄いところで少しだけ紫が浮く。


 モノカゲは、鍵を指先で持ち上げた。


 触れた瞬間、淡い断片が流れ込む。


 鍵屋のカウンター。

 小さなベルの音。

 金属が触れ合う、乾いた音。

 古い鍵を渡す手。

 機械が回る音。


 「念のため」という声。

 自分に向けた言葉か、店員に向けた言葉かは分からない。

 けれど、その言葉は強くない。

 決意というほど固くもない。


 財布から現金を出す手。

 一瞬だけ迷う間。

 迷いは長くない。けれど確かに、そこで止まっている。


 それから、使われない時間。


 扉は開き、閉まる。

 鍵は使われない。


 出かけるたび、帰るたび、鍵は本来の鍵に任される。

 予備は、引き出しの中で眠る。

 棚の上の小皿の下で眠る。

 封筒に入ったまま、何かの書類に挟まれて眠る。


 不安は小さい。

 安心でもない。


 ただ、「今は必要ない」という判断が、静かに続いている。

 その判断は、いつの間にか、存在を薄くしていく。


 モノカゲは手を離した。


 鍵は、音も立てずに棚に戻る。


 端末を操作すると、分かることは最低限だった。

 賃貸物件の鍵ではない。

 職場用でもない。

 自宅用の予備と考えられる。


 拾得場所は住宅街。

 拾得時、他の鍵束は見当たらなかった。

 単体で落ちていた。


 削られた時期は、それほど古くない。

 失くした時期も、最近だ。


 この鍵は、「失くして困る鍵」ではない。


 使われなかったという事実だけが、残っている。


 モノカゲは鍵を見下ろした。


 予備の鍵は、役に立たないこともある。

 役に立たないまま、意味を終えることもある。


 けれど、備えた時間が、無意味だったとは言い切れない。

 使わずに済んだことが、良いことのようにも聞こえる。

 使えなくなったことが、終わりのようにも聞こえる。


 どちらの意味も、鍵そのものは選ばない。

 金属はただそこにある。


 モノカゲは、棚の別の段を一度だけ眺めた。

 角が丸くなった古い鍵。

 番号が削れて読めない鍵。

 鍵穴に差し込まれた跡がくっきり残る鍵。


 それぞれが、違う時間をくぐっている。


 返却棚を見る。


 鍵は返せる。

 返したところで、大きな変化は起きないかもしれない。

 引き出しの奥にしまわれ、しばらく見られないままになる可能性も高い。

 予備というものは、見られないことによって役目を果たすこともある。


 それでも、戻らなければ、完全に意味を失う。


 行き先は、見えない。


 引き出し。

 棚の奥。

 封筒。


 どれもはっきりしない。

 輪郭が立ち上がりそうで、立ち上がらない。

 視線を置いても、つるりと滑る。


 モノカゲは鍵を持ち直す。

 指先が触れる部分だけが、少しだけ温まる。

 金属はすぐに冷たさに戻る。


 カゲマルが、通路の端で立ち止まる。

 床に映った自分の影を一度だけ踏み、すぐに離れる。

 影を踏む足先が、ほんの一瞬、黒く濃くなる。


 モノカゲは、鍵を磨かない。

 袋にも入れ直さない。


 削られたときのままの姿で、返却棚に置いた。


 置くときに、隣の鍵と触れないように、少しだけ間隔を取る。

 それは丁寧さというより、音を立てないための動きに近い。

 鍵同士が当たる音は、ここでは小さくても目立つ。


 理由は言葉にしない。


 その判断が正しいかどうかも、考えない。


 作業を終え、棚の前を離れるとき、金属が触れ合う小さな音がした。


 それは、開く音にも、閉じる音にも聞こえない。


 ただ、鍵がそこにあることを示す音だった。


 夕方の光が、棚の金属に反射する。

 新しい鍵は、その中で、目立つほどでもなく、埋もれるほどでもなく、同じ高さに並んでいる。

 角の立った反射が、周囲のくすんだ鍵に混じっていく。


 モノカゲは返却棚を見ない。

 見れば、見た分だけ、意味を決めてしまいそうだった。


 倉庫の奥で、開けられなかったものが、ひとつ増えている。


 何が増えたのかは、書かれない。

 紙も貼られない。


 誰も、確かめない。


 忘れ物センターは、また次の時間へ進む。


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