忘れ物3 音の出ないイヤホン
# 忘れ物3 音の出ないイヤホン
夜は、ときどき音を置き忘れる。
車の走る音も、人の話し声も、遠くへ行ってしまったあとに残るのは、耳の奥に張りつくような静けさだけだ。その静けさは、眠りを助けることもあれば、不安を膨らませることもある。
忘れ物センターの明かりは、夜になると少し弱くなる。
それでも消えることはない。窓口は閉まっていても、奥の倉庫には淡い灯りがともり、棚に並ぶ箱や袋の影を静かに伸ばしていた。
モノカゲは、その影の中を歩いていた。
今日は帰るのが遅い。
帳簿の整理が終わらず、気づけば外はすっかり夜だった。窓の向こうは真っ暗で、線路の向こう側にある街の灯りだけが、星のように瞬いている。
カゲマルは落ち着かない様子で、モノカゲの肩から降り、棚の上へ移動した。
黒と紫の影が、細く揺れる。
「……どうしたの?」
問いかけても、返事はない。
代わりに、カゲマルの体色がほんの少しだけ濃くなった。
モノカゲは、倉庫の中で立ち止まる。
音がした気がした。
誰かが、息をひそめたような。
でも、耳を澄ませても何も聞こえない。
気のせいだと思おうとして、思えなかった。
倉庫の奥から、小さな箱が一つ、運ばれてきていた。
夜間配達。
たまにある。
緊急性の高い忘れ物や、感情の反応が強すぎるものは、時間を選ばず届く。
箱は軽い。
管理番号は新しい。
モノカゲは机に運び、封を切った。
中に入っていたのは、イヤホンだった。
白く、まだ新しい。
左右そろっているのに、どこか不完全な印象がある。
モノカゲはイヤホンを手に取った。
その瞬間。
音が、消えた。
いや――もともと、何も聞こえていなかったのかもしれない。
耳鳴りのような圧迫感が、頭の内側に広がる。
音楽も、声も、雑音もない。
あるのは、無音。
無音なのに、うるさい。
モノカゲは思わず、イヤホンを握りしめた。
胸の奥で、何かがざわつく。
これは感情だ。
でも、言葉にならない。
情景にもならない。
ただ、焦りだけがある。
――聞こえない。
――聞こえないのに。
――聞かなきゃ。
モノカゲは息を詰めた。
視界の端で、カゲマルが大きく身をすくめる。
紫色の灯りが、はっきりと濃くなった。
嫌がっている。
それも、はっきりと。
「……これ、変だね」
モノカゲの声は、自分でも驚くほど小さかった。
イヤホンは、本来、音を届けるものだ。
誰かの世界と、外の世界をつなぐための。
それなのに、このイヤホンから伝わってくるのは、断絶だけだった。
モノカゲは目を閉じ、もう一度、そっと触れる。
すると、かすかな情景が滲む。
夜道。
街灯の下。
スマートフォンの画面が、白く光る。
通知。
既読にならないメッセージ。
耳に差し込まれたイヤホン。
音楽は流れていない。
それでも外さない。
外せない。
何かが鳴るのを、待っている。
誰かの声が、届くのを。
モノカゲの喉が、ひくりと鳴った。
「……一人、なんだ」
それは同情ではない。
事実だった。
カゲマルが低く鳴く。
影が歪み、床に伸びる。
彼は、この感情が嫌いだ。
縛るから。
離さないから。
モノカゲは帳簿を開いた。
管理番号。
回収場所:深夜バス停。
回収日時:三日前。
三日。
まだ新しい。
けれど、感情は異様に重い。
これは、返して終わる類の忘れ物だろうか。
モノカゲは迷った。
返せば、持ち主は安心するかもしれない。
イヤホンが戻れば、また耳に差し込むだろう。
そして――同じ夜を繰り返す。
無音の中で、誰かを待ち続ける。
それは、救いだろうか。
それとも。
倉庫の奥で、何かが軋む音がした気がした。
モノカゲは、決めた。
「……これは、返さない」
言葉にすると、胸が少しだけ痛んだ。
でも、必要な痛みだと分かっていた。
モノカゲはイヤホンを、特殊な保管箱に入れる。
内側に、柔らかな膜が張られた箱。
感情を、ゆっくり沈めるためのものだ。
箱の中で、イヤホンは静かに横たわる。
あの耳鳴りのような圧迫感が、少しずつ薄れていく。
カゲマルが、恐る恐る近づいた。
しっぽの先で、箱に触れる。
紫色の灯りが、ほんのわずかに淡くなる。
「……大丈夫」
モノカゲは、誰にともなく呟いた。
それは、持ち主に向けた言葉かもしれないし、自分自身に向けたものかもしれない。
箱を棚に収め、管理番号を付け直す。
帳簿に、印を記す。
返却ではない。
保管。
その文字は、少しだけ重たかった。
倉庫を出ると、外は完全な夜だった。
音は、相変わらず少ない。
でも、耳の奥の静けさは、さっきよりも穏やかだ。
モノカゲは、灯りを落とす前に、棚を一度だけ振り返った。
音の出ないイヤホンは、そこに眠っている。
返されなかった忘れ物。
けれど、置き去りにはしていない。
モノカゲは思う。
返さないことが、やさしいときもある。
誰かを縛る想いは、ほどかなければならない。
たとえ、その方法が“しまっておく”ことだったとしても。
モノカゲは扉を閉めた。
カゲマルが、彼女の肩に戻る。
影は静かで、穏やかだった。
夜は、何も言わない。
でも、忘れ物センターには、今日も聞こえない音が確かに残っている。




