忘れ物26 電池の切れた目覚まし時計
忘れ物26 電池の切れた目覚まし時計
朝の忘れ物センターは、音が少ない。
昼ほど人の気配はなく、夜ほど静かでもない。ただ、棚と棚のあいだを抜ける空気だけが、ゆっくりと動いている。
外から差し込む光も、まだ弱い。窓の向こうでは、街が目を覚まし始めているはずなのに、ここでは時間が一段遅れているようだった。
モノカゲはいつも通り、棚の前を歩いていた。
ピンク基調の郵便職員風の制服は、朝の光を受けて少しだけ柔らかく見える。手には小さなチェック用の端末。けれど画面を見る時間は短く、ほとんどは目で、指先で、忘れ物の様子を確かめていく。
棚の番号、並び、距離。
それらはきちんと整えられている。
けれど、ときどき、整っているはずの棚の中に、わずかな引っかかりが生まれる。
その棚で、足が止まった。
古い目覚まし時計が、そこにあった。
白い文字盤に黒い数字。角ばった形。針は三本とも止まっている。ガラスに小さな擦り傷があり、裏側には、消えかけた名前が薄く残っていた。
長く使われていたことは、触れなくても分かる。角の丸みや、裏蓋の細かな傷が、それを語っている。
特別な形ではない。
よくある目覚まし時計だ。
それでも、モノカゲは一度通り過ぎてから、少しだけ戻った。
音は鳴らない。
振動もしない。
けれど、棚の前だけ、時間の流れがわずかに遅れているように感じた。空気が重いわけではない。ただ、急ぐ理由がなくなる感覚だった。
モノカゲがそっと時計に触れると、指先に、淡い断片が触れた。
まだ暗い部屋。
カーテンの隙間から差し込む、薄い朝の光。
布団の重さ。
目を閉じたまま、音を待っている感覚。
――起きなければ。
そう思っている。
その気持ちは確かにある。
けれど、同時に、別の朝の気配も混じっている。
起きなくていい朝。
時計を気にせず、もう一度目を閉じていた時間。
外の音が聞こえ始めるまで、ただ横になっていた感覚。
どちらが強いわけでもない。
安心とも焦りとも言えない。
ただ、時間に追われていた感覚だけが、薄く残っている。
モノカゲは静かに手を離した。
足元で、カゲマルが小さく動いた。
黒と紫の体を伸ばし、床を低く這うように進む。時計の前を一度だけ見てから、何も言わずに離れていく。
嫌がっている様子はない。ただ、近づきもしなかった。
モノカゲは、その距離感をそのまま受け取る。
「……」
何も言わず、端末を操作する。
記録に出てくる情報は、少ない。
最近まで使われていた形跡があること。
電池が切れたまま、しばらく放置されていたこと。
今は、使われていないこと。
持ち主の年齢も、暮らしも、詳しくは分からない。
ただ、この時計は確かに、誰かの朝を区切っていた。
毎日ではなかったかもしれない。それでも、必要な朝には、そこにあったはずだ。
モノカゲは時計を持ち上げ、返却棚の方を見る。
そこには、返されるのを待つ忘れ物たちが、静かに並んでいる。
鍵、財布、傘、眼鏡。
どれも、返る先を持っているかもしれない物だ。
次に、保留棚を見る。
返すことも、返さないことも、まだ決められていない物たちの場所。
ここに置かれた物は、しばらく、時間を待つ。
時計は、そのどちらにも、すぐには置かれなかった。
モノカゲの胸に、かすかな感覚が浮かぶ。
引き出し。
机の奥。
紙類の間。
別の、新しい時計。
この目覚まし時計は、そこには置かれない。
はっきりした映像ではない。
理由も分からない。
ただ、行き先だけが、うっすらと見える。
返却すれば、持ち主の手に戻るかもしれない。
けれど、それが使われるかどうかは分からない。
再び朝を区切る音を鳴らすのか、それとも、ただ置かれるだけなのか。
モノカゲは時計を見下ろした。
電池を替えれば、また動くだろう。
針は進み、音も鳴るだろう。
けれど、その音が、誰かの朝を必要以上に追い立てる気もした。
もう、追い立てなくてもいい時間が、どこかにある気がした。
カゲマルが、少し離れた場所で、尻尾を床に軽く打った。
催促でも、拒否でもない。
ただ、そこにいるという合図。
モノカゲは時計の裏側を、そっとこちらに向けた。
消えかけた名前が、棚の灯りに照らされる。
読もうとすれば、読めてしまう。
けれど、口にはしない。
そのまま、保留棚の一番手前に置いた。
奥へは送らない。
返却もしない。
理由は言葉にしない。
その選択が正しいかどうかも、考えない。
ただ、「今ではない」と感じた。
作業を終え、センターの灯りが落ちる時間になる。
棚の列をもう一度確認し、床に落ちた影を踏まないように歩く。
最後に振り返ったとき、ふと、保留棚の方から視線を感じた気がした。
目覚まし時計の秒針が、一瞬だけ、わずかに動いたように見えた。
実際に動いたのかどうかは、分からない。
音は、鳴らなかった。
カゲマルはその棚を避けず、自然に横を通り過ぎる。
いつもと同じ速さで、いつもと同じ距離を保ったまま。
モノカゲは棚を見ず、スイッチに手を伸ばした。
灯りが落ちる。
倉庫の奥で、別の鳴らないものが、ほんの少しだけ位置を変える。
それは音もなく、意味も残さない。
それに気づく者はいない。
センターには、また、朝が来る。




