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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物25 折り目のついたエプロン

忘れ物25 折り目のついたエプロン


 その日の忘れ物センターは、静かな午前だった。


 人の出入りはあるが、重ならない。誰かが入ってきて、少し話し、帰っていく。その合間に、空気がゆっくり巡る。窓が開いているわけではないが、建物の中を静かに回る流れがあった。紙が一枚、めくれそうでめくれない程度の流れ。


 受付カウンターには、書類の紙が重ねられている。端は揃っていて、角も折れていない。ペン立ての中のペンの向きも、ばらばらにはならない。誰かが慌てて扱った形跡はなく、今日という日が、急ぎの用事を求めていないことが分かる。


 モノカゲは、机の上の紙を一度だけ整え、手を引っ込めた。整えたからといって、何かが決まるわけではない。ただ、整えられているほうが、余計な音がしない。


 かげまるは、カウンターから少し離れた場所に伏せていた。身体を丸めるでもなく、伸ばすでもない、中途半端な姿勢だ。眠っているのか起きているのかは分からないが、耳だけがときどき、微かに動く。外の音が増えたのか、減ったのかを確かめるように。


 午前のうちに来た人は数人いた。


 子どもの水筒の紐を預けた人、傘の持ち主を確認しに来た人。どれも、短い会話で終わった。倉庫の棚も、いつものまま静かだった。


 ドアが開いた音は、その中でも少しだけ軽かった。


 入ってきたのは、四十代後半から五十代くらいの女性だった。派手さはないが、身なりは整っている。肩から提げたバッグは大きすぎず、必要な物だけを入れている重さだった。重い荷物を抱えている人の歩き方ではない。


 女性は受付の前で立ち止まり、バッグの中に手を入れる。すぐには目的の物を出さず、指先で探すようにしてから、ようやく一つの布を取り出した。


 布製のエプロンだった。


 色は落ち着いていて、柄も主張しない。何度も洗われているが、傷みは少ない。きれいに畳まれていて、中央にくっきりと折り目が残っている。折り目の強さが、畳んだときの手の迷いのなさを示している。


「これを……預けたままだったみたいで」


 女性はそう言って、少し困ったように笑った。失くした、というより、気づいたら手元にない期間が長くなっていた、という言い方だった。


 言いながら、女性は自分の指先を見た。爪は短く整っている。指の腹に、わずかな硬さがある。料理をする人の手というより、長く生活を続けてきた人の手だった。


 モノカゲはエプロンを受け取り、広げずに、畳まれた形のまま手に取った。布は軽く、手のひらにすぐ馴染む。洗剤の匂いは強くなく、布の匂いが勝っている。


 触れた瞬間、感情は来なかった。


 代わりに、行為の予定だけが残っていた。


 ――作るつもりだった。


 料理の名前も、相手の顔も来ない。ただ、台所に立つ前の、少しだけ気持ちを整える動作が、そこにある。袖をまくる前、髪をまとめる前、鍋に水を入れる前。始まりの手前で止まっている。


 モノカゲは記録用紙に目を落とし、日付を書く。ペンが紙をなぞる音が、短く響く。


「どのあたりで外されたか、覚えていらっしゃいますか」


 女性は少し考え、首を横に振った。


「はっきりとは。……畳んだところまでは覚えているんですけど」


 畳み方は、今もそのままだった。折り目は迷いなく付いていて、日常の動作が、そのまま形になっている。


「畳む癖って、抜けないんですよね」


 女性は、ぽつりと続けた。


 癖、という言い方が、軽い。


 モノカゲは頷くだけで返さない。


 倉庫へ案内すると、女性は一歩遅れてついてきた。急ぐ様子はない。棚を見回す目も、探すというより、確かめるようだった。倉庫に入った途端に足を止める人もいるが、彼女は止まらない。ゆっくり、通路の幅に合わせて歩く。


 途中で、女性は一度だけ小さく息を吸った。棚の匂いが、布や紙の匂いに混ざっている。


「こういうところって、落ち着きますね」


 独り言のように言って、少しだけ首を傾ける。


「落ち着く、というのも変ですけど。……静かで」


 静か、という言葉は、空間の話にも聞こえるし、自分の中の音の話にも聞こえた。


 エプロンは返却可能棚に置かれていた。周囲には、布製の袋やタオルが並んでいる。どれも似たような色合いで、派手な物はない。布同士の距離が均等で、重なりがない。


 モノカゲは、迷わずエプロンを手に取った。


 返却に、判断は要らなかった。


 返すことで、このエプロンは、再開を強制しない。ただ、使われていた日常の場所へ戻るだけだ。戻ったからといって、すぐに使われるとも限らない。


「こちらです」


 女性は両手で受け取った。受け取ったあと、すぐに畳み直すことはしない。折り目を指でなぞり、そのままの形を確かめる。折り目の線をなぞる指が、途中で止まり、また動く。


「……まだ、使えますね」


 小さく、そう言った。


 それは、これから必ず使う、という意味でも、もう一度始めなければならない、という意味でもなかった。ただ、布として、道具として、役目を終えていない、という確認だった。


 女性はエプロンを肩に掛けるように腕に掛けて持った。バッグにしまうと折り目が崩れるから、という理由にも見えるし、ただ、手に触れていたいだけにも見える。


 帰り際、女性は入口で少し立ち止まった。


 外の明るさを見たわけではなく、足元のマットの端を一瞬見た。出ていく前に、足取りを整える人の癖。


「久しぶりに、何か作ろうかしら」


 独り言のような声だった。決意でも、予定でもない。言ったからといって、実行することを約束しない言い方。


 ドアが閉まり、外の音が遠ざかる。


 モノカゲは倉庫へ戻り、棚を見る。


 エプロンが置かれていた場所には、薄く布の跡が残っている。光の加減で、見えるような、見えないような跡だ。布の重さが、棚板にほんの少しだけ残ったようにも見える。


 かげまるは、その前を普通に通り過ぎた。避けるでも、近づくでもない。通るときに、歩幅も変わらない。


 午前は、そのまま続いていく。


 特別なことは起きない。


 けれど、台所に立つかもしれない一日が、どこかで静かに始まっていた。


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