忘れ物24 使われなかった栞
忘れ物24 使われなかった栞
その日は、特別な印象を持たない日だった。
天気がどうだったか、後から思い出そうとしても、はっきりしない。暑くも寒くもなく、雨が降っていたような気も、降っていなかったような気もする。ただ、忘れ物センターの中は、いつもと変わらない明るさと静けさを保っていた。窓の外の色がどうだったかよりも、室内の光の均し方のほうが、記憶に残りやすい。
受付のカウンターには、書類が几帳面に並んでいる。受領票、案内の紙、ペン立て。どれも同じ位置にあり、角が揃っている。掲示板の紙も、誰かが急いで貼り替えた形跡はない。椅子の位置も、昨日と同じだ。床には、目立つ足跡もない。
モノカゲは、いつも通りの手順で朝の準備を済ませ、いつも通りの姿勢でカウンターの内側に立った。特別な気配がない日は、特別なことをしないのが一番いい。
かげまるは、棚の影になる場所で丸くなっていた。眠っているのか、起きているのか分からない。耳だけが、ときどき小さく動く。誰かの足音を拾うというより、空気の流れを確かめているみたいに。
午前中に来た人は二人だけだった。
一人は小さな袋に入った鍵束を預け、もう一人は、落としたという手袋の片方を受け取って帰った。どちらも淡々と終わる手続きで、倉庫の棚も静かだった。
だから、来訪者があった午後の中途半端な時間も、モノカゲは「いつも通り」のまま迎えた。
混んでいるわけでもなく、空いているわけでもない。誰かが来て、誰かが帰る。その合間に、少しだけ余白ができる時間帯。時計を見なくても、そういう時間は、廊下の静けさで分かる。
ドアが開き、女性が入ってきた。
年は三十代のはじめくらい。服装はラフで、仕事帰りとも休日とも言い切れない。腕に抱えた数冊の本が、彼女の目的を先に伝えていた。紙袋ではなく、直接抱えている。紙の端が少しだけ擦れているのは、何度も持ち直した証拠だ。
女性はカウンターの前に立ち、本を抱え直す。腕の位置を少し上げ、重さを均す。そこに、急ぎの気配はない。ただ、落とさないようにという意識だけがある。
「失くした、というより……」
そう前置きしてから、言葉を探す。
「使わなかった、というか」
言いながら、自分の言い方に少しだけ困った顔をする。失くしたわけではない、と言いたいのに、持っているわけでもない。
モノカゲは、女性の手元を見る。
本の間から、一枚の薄い紙が覗いていた。
紙の栞だった。
厚紙と呼ぶほどでもない、頼りない紙。色も模様もなく、角が少しだけ折れている。紐も、飾りもついていない。表も裏も同じ白さで、どちらが上か分からない。
女性はそれを取り出し、カウンターの上に置いた。置くとき、わずかに指が震えたようにも見えたが、栞が軽すぎて確かではない。
「どの本に挟んでいたのか、分からなくなってしまって」
本は手元にある。栞だけが、宙に浮いてしまった。
女性は、抱えていた本を一冊、カウンターの端に置いた。次にもう一冊。三冊目は迷ってから、抱えたままにする。どれを置くか、決められない。
「挟んだ記憶はあるんです」
彼女は小さく続けた。
「挟んで……閉じて……置いた。そこまでは」
そこから先が、曖昧になる。読むはずだった夜や、開くはずだった休日が、うまく繋がらない。
モノカゲが栞に触れると、感情は来なかった。
残っていたのは、行為の途中だった。
――続きを読まなかった。
読むつもりだった、という前提だけがあり、やめた理由は残っていない。途中で閉じられた本の感触だけが、指先に薄く伝わる。ページの端を指でなぞる音が、記憶のどこかで一度だけ鳴って、止まる。
女性は、抱えていた本の背表紙を一冊ずつ撫でた。背表紙の文字を読むでもなく、触って確かめる。
「勧められて読んだ本なんです」
誰に勧められたのかは言わない。言えば、その人の輪郭が出てしまう。
「大事なことが書いてあるって」
声に、否定はない。嫌いではないし、つまらなくもなかった。ただ、最後まで辿り着かなかった。辿り着かなかったことを、失敗だと言いたいわけでもない。
「付箋も貼ったんです。ここ、って思ったところに」
女性は、本の端を少しだけめくった。色の違う小さな紙が、何枚か覗く。読む準備はしていた。
「でも、今は……」
言葉が止まる。
今は、読めない。それ以上の説明は、必要ないようだった。読めない理由を言葉にすると、別のものに形が付いてしまう。
モノカゲは、すぐに判断しなかった。
栞は返せる。返せば、どこかのページに挟まれ、続きを読む合図になる。
だが、それは同時に、続きを読まなかった自分を、静かに責める印にもなり得る。
栞は軽い。軽いものほど、置いた場所が目立つ。目立つものほど、圧になる。
モノカゲは、栞を倉庫へ持っていくことにした。
「一緒に、来られますか」
そう言うと、女性は小さく頷いた。
女性は黙ってついてくる。歩きながら、本の位置を何度か直す。落とさないようにではなく、重さを均すための動作だった。左腕の角度が少しずつ変わる。
倉庫の空気は、いつもより静かに感じられた。棚に置かれた物たちが、動かずにそこにある。ただ、それだけで成立している空間。返すべき物も、返さない物も、どれも同じように置かれている。
モノカゲは、栞を保留棚の一角に置いた。
返却棚でも、隔離棚でもない。判断を急がない物が並ぶ場所。棚のラベルは簡潔で、それ以上の説明はない。
栞は、他の紙よりも薄く見えた。実際に薄いのか、光の加減なのかは分からない。薄いものは、影にもならない。
女性は、それを見て、何も言わなかった。
納得した様子でも、戸惑った様子でもない。ただ、そうなった、という顔だった。言葉を探しにいかない顔。
「そうですね」
短く、そう言う。
その言葉には、肯定も否定も含まれていない。決めた、でもない。諦めた、でもない。置いておく、という選択だけが、そこにある。
栞がなくなったことで、本を閉じる理由が一つ減った。読むか、読まないかを、今決めなくてもいい。挟むべき場所がないなら、開くべきページも決まらない。
女性は、本の束を抱え直した。さっきよりも、持ち方が少し楽になっている。重さは変わらないのに、腕の力が抜ける。
倉庫を出ると、かげまるが通路の端にいた。栞の置かれた棚には近づかない。近づかないことを、見せびらかすようにはしない。ただ、いつもの距離を守る。
女性は受付に戻り、本を抱え直す。先ほどより、腕の力が少し抜けている。バッグの肩紐を掛け直し、背中の位置を整える。
「ありがとうございました」
女性はそう言い、センターを出ていった。
その背中は、急いでもいなければ、立ち止まってもいない。歩幅は一定で、外の世界へ戻る速度も自然だった。
モノカゲは、倉庫に戻り、保留棚を見る。
栞は、そこにあった。
薄く、軽く、何も主張しないまま。
かげまるは、その棚を避けて座る。座る場所を選ぶだけで、意味を付けない。
その日が、特別な日になることはなかった。
ただ、選ばれなかった時間が、静かに置かれただけだった。




