忘れ物23 置き忘れた名刺入れ
忘れ物23 置き忘れた名刺入れ
昼下がりの空気は、張りつめていた。
日差しは真上から落ちてきて、影を短く切り取る。アスファルトの上に、薄い陽炎が立つ。セミの声はまだ聞こえないが、鳴き始める直前の静けさが、街全体に薄く広がっている。騒がしいはずの交差点も、今日は遠くに押しやられたみたいだった。
忘れ物センターのドアを開けると、その張りつめた空気が、すっと緩んだ。
冷房の効いた室内は静かで、外の熱を一段遠ざけている。冷えすぎてはいないのに、肌に触れる空気がまっすぐで、汗のべたつきを少しだけほどく。床に落ちる光は柔らかく、カウンターの縁にできた影も、角が丸い。
入口のマットには、乾いた砂が少しだけ残っていた。誰かが急いで入ってきて、すぐに出ていったのだろう。モノカゲはそれを、あとで掃くつもりで目に留め、今はそのままにした。
かげまるは入口から少し離れた日陰で横になっていた。眠っているようにも見えるが、耳だけがわずかに動く。外と中の境目を、音で確かめているようだった。毛並みの一部だけが光を受け、残りは影に溶けている。
女性はドアを閉めると、深く息を吐いた。暑さから解放された安堵と、これから話すことへの緊張が、同時に混じった息だった。胸元の呼吸が、少し早い。
年は二十代後半から三十代のはじめくらい。スーツは体に合っているが、まだ着慣れていない。肩の位置や袖の長さが、ほんの少しだけ意識されている。新しい布は、本人の動きにまだついていけず、ぎこちなく皺を作る。
カウンターの前に立ち、バッグを胸元に引き寄せる。その仕草が、無意識に自分の居場所を確かめているように見えた。バッグの持ち手に、指が一度、強く食い込む。
「名刺入れを……探していまして」
声は落ち着いているが、言葉の選び方が慎重だ。落ち着いている、というより、落ち着かせようとしている。
「昨日、確かに持っていたんです。でも……」
そこで言葉が止まる。バッグの中に手を入れ、空間をなぞるように指を動かす。どこに入れたかを思い出すのではなく、入れたはずの感覚を探している。
「入れた記憶が、はっきりしなくて」
忘れた、とは言わない。置いたかもしれない、という言い方でもない。ただ、確信がない。確信がないことを、きちんと認める言い方。
モノカゲは頷き、倉庫の方へ視線を向けた。
「こちらへ」
女性は小さく会釈し、ついてくる。歩き出すと背筋が伸び、歩幅は一定で、足音も揃っている。誰かと会う前の癖が、そのまま残っているのだろう。靴音が揃うのは、場の空気を乱したくない人の歩き方だ。
通路の途中で、女性は一度だけ自分の胸元に手を当てた。胸ポケットの位置を確かめるような動き。そこに名刺入れがないことを、再確認する。
倉庫の扉が開くと、空気がもう一段、落ち着く。棚の匂い。紙と布と金属の匂いが、混ざっている。今日の倉庫は、冷房の風が届きすぎず、静かな温度だった。
名刺入れは、革製のものだった。黒に近い濃い茶色。角が少し擦れているが、手入れはされている。革の表面には、指が触れた跡が薄く残り、光の角度でわずかに艶が変わる。
蓋を開くと、数枚の名刺がきちんと揃えられている。端が揃いすぎていて、最近入れ替えたのだと分かる。新しい名刺は、紙の腰がまだ強い。
モノカゲがそれに触れたとき、感情は来なかった。
代わりに、行為の途中だけが残っていた。
――まだ、渡していない。
名刺の紙の感触が、指先にわずかに残る。差し出されるはずだった瞬間で、時間が止まっている。差し出す手が止まり、言葉が宙に残っているような感覚。
倉庫の棚に置かれた名刺入れを見て、女性は小さく息を呑んだ。
「あ……」
声にならない音が、短く漏れる。驚きというより、胸の奥の緊張がほどける音だった。
モノカゲは名刺入れを手に取り、女性の前に差し出した。
「こちらです」
女性は両手で受け取った。受け取り方が丁寧で、落とさないように慎重だ。すぐに開かず、まず革の表面を指でなぞる。擦れた角に触れた指が、そこで一瞬止まる。
「間違いありません」
そう言ってから、蓋を開く。中の名刺を一枚ずつ確認し、元の位置に戻す。確認の仕方が、名刺交換の順序に似ていた。相手の顔を思い浮かべ、紙の向きを揃える。
深く息を吐いた。
吐いた息が消えるまで、女性は何も言わなかった。
「昨日、初めて伺う会社だったんです」
女性は、視線を名刺入れに落としたまま話す。
「転職して……まだ一か月も経ってなくて」
それは言い訳ではなく、状況の説明だった。新しい名刺入れが、少しだけ新しい布の匂いを持っている理由でもある。
「名刺交換の前に、少し話が長くなって……」
相手の顔や声を思い出しているのか、言葉がゆっくりになる。話の長さは、仕事の話だったのか、雑談だったのか、断定しない。
「結局、『また次の機会に』と言われて、そのまま」
失敗だったとも、成功だったとも言わない。ただ、区切りがつかなかった場面。区切りがつかなかったからこそ、名刺入れの重さだけが残った。
モノカゲは何も言わない。励ますことも、結論を与えることもしない。
女性は名刺入れを閉じ、指先で蓋を押さえた。押さえる力が強すぎず、弱すぎない。ちょうど、落とさない程度。
倉庫の棚に、別の名刺入れが一つだけ並んでいるのが見えた。中身は空で、感知は届かない。革の色は似ているが、艶が違う。長い時間をかけて乾いた艶。
触れる理由も、触れない理由もない。
女性はそれに気づかない。
モノカゲは迷わず、名刺入れを返した。
「まだ、使えます」
それだけを伝える。
女性は名刺入れを胸に抱えるように持ち、少し考えてから頷いた。
「……まだ、間に合いますね」
自分に言い聞かせるような声だった。間に合う、という言葉は、未来を確定させない。今日の自分が、今日の一歩を踏み出せるかどうかだけを言う。
帰り際、女性は名刺入れをバッグに入れなかった。スーツの内側、胸ポケットに収める。そこは、取り出すときに一拍早く指が届く場所だ。
歩き出す足取りが、わずかに軽くなる。さっきまで揃いすぎていた靴音が、ほんの少しだけ自然になった。
ドアを開けた瞬間、外の光が強く差し込んだ。さきほどより、少しだけ眩しく感じる。
女性は立ち止まらず、そのまま外へ出ていった。肩の位置が、ほんの少しだけ下がっている。
モノカゲは受付へ戻り、記録を整える。返却済みの欄に、静かに印が一つ増える。
倉庫に戻ると、先ほど見た空の名刺入れが、少しだけ奥へ寄っている。
寄った、と断定するほどではない。けれど、棚の端の影の形が、さっきと違う。
モノカゲは記録しない。
かげまるは、その棚を避けるように歩いた。避ける、というより、そこだけ通路の端を選んだ。
外では、セミの声が、一つだけ鳴き始めた。鳴いたあと、また静けさが戻る。
夏は、こうして始まる。




