忘れ物22 渡されなかった領収書
忘れ物22 渡されなかった領収書
外は、はっきりと夏の手前だった。
日差しは強く、アスファルトの上に揺れる熱気が見える。信号待ちの間に立っているだけで、背中にじんわりと汗が滲むような暑さだった。歩道脇の植え込みの葉は、もうすっかり濃い色になり、朝に撒かれた水がまだ乾ききらず、土の匂いを立ち上らせている。
忘れ物センターのドアを開けた瞬間、空気が変わる。
冷房の効いた室内はひんやりとしているが、冷えすぎてはいない。外との温度差が、体に一拍遅れて伝わる。その遅れが、ここが「外とは別の場所」だということを、さりげなく教えてくれる。汗ばんだ肌に、涼しさがじわりと広がる。
男性は小さく息を吐き、額の汗をハンカチで拭いた。白いシャツの襟元が、少しだけ濃くなっている。ネクタイはしていないが、スラックスと革靴はきちんとしていた。仕事帰りでも、完全に気を抜いてはいない格好だ。
四十代後半から五十代のはじめくらい。背筋は崩れていないが、肩に余計な力が残っている。長い一日の途中で、もう一度予定をこなそうとしている人の立ち方だった。
カウンターの向こうで、モノカゲが顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
男性は軽く会釈し、カウンターの前に立った。視線が一度、室内を巡る。椅子の位置、掲示板、倉庫へ続く扉。どれも急いで確認するものではないが、自然と目に入る。
「これ……」
上着の内ポケットから、折りたたまれた紙を取り出す。名刺より一回り大きく、何度も折られた跡がある。開くと、きちんとした書式の領収書だった。印字はくっきりしているが、紙の端は柔らかくなっている。金額はそれなりに大きいが、宛名欄は空白のまま。
「いりますかね」
男性は、独り言のようにそう言った。誰かに答えを求めているというより、自分の中でまだ定まっていない考えを、声に出して確かめているようだった。
モノカゲは領収書を受け取り、指先で紙の厚みを確かめる。折り目の癖、インクの乾き具合、紙の温度。そのどれもが、ごく普通だ。
感情は来ない。
代わりに、一つの行為だけが残っていた。
――渡すつもりだった。
誰に、という情報はない。なぜ、という理由も来ない。ただ、予定されていた行為が、途中で止まっている。その「途中」が、どこだったのかも分からない。
「お預かりします」
モノカゲはそう言い、記録用紙に日付を書いた。ペン先が紙をなぞる音は小さく、室内の静けさに溶ける。
男性は、その様子を見ながら、少しだけ居心地悪そうに立っている。椅子を勧められると、一瞬迷ってから腰を下ろした。深く腰掛けず、すぐに立てる位置に体を置く。
「仕事のついででして」
男性はそう前置きし、視線を壁に向けた。掲示板の紙の一枚が、冷房の風でわずかに揺れている。
「別に、大した話じゃないんです」
大した話ではない、という言葉は、本当に大した話ではないときにも使われるし、逆のときにも使われる。どちらかを判断するのは、話している本人ですら難しい。
モノカゲは否定も肯定もしない。ただ、相槌も打たず、続きを待つ。
「立て替えてもらった……いや、立て替えた、だったかな」
男性は苦笑する。笑いは短く、すぐに消えた。
「どっちでもいいんですけど」
どちらでもいい、と言いながら、どちらかが決まらないままになっていることが、少しだけ引っかかっている。決まらないままのものは、思い出したように重さを増す。
「渡そうとは思ってたんです。タイミングを見て」
タイミング、という言葉に、男性は小さく肩をすくめた。相手の都合、自分の都合、場の空気。どれも少しずつ噛み合わない。
「でも、気づいたら……」
言葉が途切れる。続きを探すように、男性は自分の膝を見る。
モノカゲは領収書に触れたまま、その先を待った。急がせる理由はない。
「今さら渡すと、かえってややこしくなる気もして」
男性は、そう言ってから自分で頷いた。理屈としては、整っている。今の関係を乱さないための選択。
「金額の問題じゃないんです」
そう付け足す声は、少しだけ低かった。金額よりも、渡す行為そのものが持つ意味が問題だった。
倉庫へ案内すると、男性は立ち上がり、ネクタイをしていない首元を指で押さえた。冷房の風が、ちょうどそこに当たっている。外の暑さを思い出したように、少し身じろぎする。
領収書は紙類の棚に置かれた。特別な位置ではない。返却可能棚だ。周囲には、封筒やメモ用紙、古い書類が並んでいる。
男性は椅子に座り、しばらく黙って棚を見ていた。紙一枚分の距離が、意外と遠い。手を伸ばせば届くのに、今は伸ばさない。
モノカゲは、すぐには判断しなかった。
返すことはできる。
返せば、この領収書は「渡さなかった」という事実ごと、持ち主の手に戻る。
返さなければ、モノカゲが代わりに判断したことになる。
どちらも、軽くはない。
男性の指が、膝の上で折り重なる。ほどいて、また重ねる。その動作を何度か繰り返したあと、手が止まった。
「どう思います?」
不意に、男性が訊いた。答えを期待しているというより、確認しているような声だった。
モノカゲは首を振る。
「判断は、こちらではしません」
男性は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ゆっくり息を吐いた。
「ですよね」
どこか、ほっとしたような声だった。決めなくていい、と言われたわけではない。ただ、決めるのは自分だと戻ってきただけだ。
モノカゲは領収書を取り、男性の前に差し出した。
「こちらです」
男性は受け取り、しばらく見つめた。紙の端を指でなぞり、折り目を確認する。そこに残っている時間を、確かめるように。
それから、もう一度折り直した。元より少し、きれいな折り方だった。角が揃い、無駄な力が抜けている。
「今日は、渡さなくていいですね」
誰に向けたとも分からない言い方で、男性はそう言った。それは決意というより、今日という一日に線を引く言葉だった。
領収書は財布には入れられず、ポケットにも戻らない。上着の内側で、別の場所にしまわれる。すぐに取り出せるが、目には触れにくい場所。
保留、という扱いが一番近い。
帰り際、男性は入口で立ち止まり、外の明るさを確かめた。外は相変わらず暑そうだった。夏は、待たずにやってくる。
「ありがとうございました」
その言葉には、軽さも重さもなかった。ただ、一区切りを告げる音だった。
ドアが閉まると、冷房の音が少しだけ際立つ。外の熱気が遮断され、室内の静けさが戻る。
モノカゲは倉庫へ戻った。
紙類の棚を見る。領収書が置かれていた場所には、何も残っていない。他の紙と同じ、空白の一角。
ただ、そのあたりだけ、冷房の風が届いていなかった。空気が静止しているように見える。
理由は分からない。
かげまるが、通路を横切る。棚の前で一瞬足を止め、しかし何もせずに通り過ぎた。
外では、夏が静かに近づいていた。




