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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物21 洗われたハンカチ

忘れ物21 洗われたハンカチ


 梅雨が明けたばかりの朝は、少しだけ気持ちがいい。


 日差しはもう夏のものだが、空気はまだ軽く、影の輪郭がはっきりしている。忘れ物センターの入口に差し込む光も、久しぶりに乾いた匂いを連れてきていた。


 舗道には水たまりがない。昨日までの湿り気は、どこかへ引き上げられたようだ。代わりに、風が通るたび、遠くで風鈴の音が鳴る。近所の家のものだろう。規則性はなく、思い出したように一つ鳴って、すぐに止む。


 モノカゲはいつも通りに出勤し、制服に袖を通した。生地は軽く、肌に張りつかない。ボタンを留める順番も、襟元を整える指の動きも変わらない。鏡を見ることもなく、名札の位置だけを指で確かめ、受付のシャッターを上げる。


 室内に光が入ると、棚の影が床にくっきりと落ちた。倉庫の奥まで、今日はよく見える。掲示板の紙の端が、わずかに反っている。湿り気が抜け始めた証拠だ。


 カウンターの横のタオルは、完全に乾いていた。触れると、ふわりと軽い。


 かげまるは、入口から少し離れた日陰で丸くなっていた。毛並みの一部だけが光を受け、残りは影に溶けている。暑さを避けているのか、ただそこが落ち着くのか、判断はつかない。耳の先が、ときどき外の音に合わせて小さく動く。


 午前中の来客は、開館してすぐに一組あった。


 小学生高学年か、中学生になったばかりくらいの男の子と、その保護者と思われる大人。二人は並んで立っているが、前に出てくるのは男の子のほうだった。保護者は少し後ろに立ち、腕時計を見もしない。急いでいないが、ここに長居するつもりもないような距離感。


 男の子は、少し緊張した顔でカウンターに近づく。両手は空いている。何かを持ってきた、というより、探しに来たという様子だった。肩から下げた小さなバッグの紐を、何度も指で引っ張っている。


「えっと……」


 言葉を探すように、男の子は一度、後ろを振り返った。大人は軽く頷くだけで、口は出さない。背中を押しも、引きもせず、ただ見守る。


「ハンカチ、なくして……」


 そこで一度、言葉が途切れる。


「洗ったんですけど」


 洗った、という部分を強く言ったわけではない。ただ、事実として付け足した。自分でも、その順序が大事だと思っているのが分かる。


 モノカゲは、男の子の目線に合わせるように、少しだけ身をかがめた。


「白い布のハンカチですね」


 男の子は驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。


「はい」


 その返事には、助かった、という気配が混じっていた。言葉にできない説明を、先にまとめてもらったときの息の抜け方。


 モノカゲはカウンターの下の引き出しを開け、布の束の中から一枚を取り出した。引き出しを閉める音が、乾いた空気の中では少しだけ明るく響く。


 白い木綿のハンカチだった。角はきちんと折られ、何度も洗われているが、くたびれた印象はない。布目は細かく、光に透かすと均一な織りが見える。目立たない位置に、小さな刺繍がある。イニシャルにも、模様にも見える。色は淡く、遠目には白に溶ける。


 男の子の視線が、その刺繍に一瞬だけ止まった。


「それ……それです」


 言い切る声は小さいが、確かだった。


 モノカゲがそれに触れると、感知が来た。


 感情ではない。


 言葉でもない。


 ただ、順序だけが残っている。


 ――拭いてから、しまった。


 それだけだ。急ぎも、ためらいもない。手順がきちんと終わっている。終わっている、ということは、途中で投げ出されていないということだ。


 モノカゲはハンカチを軽く持ち上げ、布の端を指先で整えた。湿り気はない。洗剤の香りも、強すぎない程度に残っている。


「部活のあとで」


 男の子が、自分から話し始めた。


「汗かいたから、拭いて……そのまま洗濯に出して。干して、乾いて……」


 指で数えるように、言葉を並べる。順番が崩れないように、息を吸ってから次の言葉を置く。


「畳んだんです」


 畳んだ、というところで、少しだけ胸を張る。


「家で、ちゃんと」


 付け足す声が小さくなる。誰かに言われてやったのではない、と伝えたいのかもしれない。


「また使うつもりだったんですけど」


 そこで視線が落ちる。使うつもり、というのは未来の話だ。未来の話が、いま目の前で途切れている。


 モノカゲは頷いた。


 ハンカチは、返却可能棚だ。迷う必要はない。返す相手も、返す意味も、はっきりしている。


 ただ、男の子の手が空で来たことだけが、少し気になった。取りに来たのに、持ってきたものがない。つまり、それは“失くしたこと”を確かめに来たのではなく、“見つかること”を信じに来たのだ。


「こちらに来るまで、暑かったでしょう」


 モノカゲがそう言うと、男の子は一瞬きょとんとした。


「……はい」


「汗を拭くものがないと、落ち着きませんね」


 男の子は少し考え、それから、ほんのわずかに頷いた。大人は、そのやりとりを聞いているが、表情は変えない。


 倉庫へ案内すると、男の子はきょろきょろと辺りを見回した。棚の並びに、少しだけ目を見張る。整列した番号の札やラベルが、学校の理科室の棚を連想させるのかもしれない。


 廊下を歩く足音が、乾いた床に軽く響く。男の子はその音に合わせるように歩幅を揃えた。


 かげまるは通路の端にいて、男の子の前を横切らない。視線だけが一度、男の子の靴に落ち、それからすぐ戻る。男の子は気づかない。


 ハンカチは、他の布製品と同じ棚に置かれていた。特別な位置ではない。目立つこともない。だからこそ、見つけにくかったのかもしれない。


 モノカゲは、それを男の子に差し出した。


「こちらです」


 男の子は両手で受け取った。すぐに広げ、鼻に近づける。息を吸う動きが、思ったより大きい。


「……ちゃんと洗った匂いがする」


 そう言って、小さく笑った。笑ったあと、口元を手で隠す。嬉しさを出していいのか、迷う癖。


 大きな喜び方ではない。だが、肩の力が抜けるのが分かる。背中の緊張が、ふっと下りる。


「これ、俺のなんです。自分で畳んだ」


 男の子は、誰に言うでもなく言った。保護者に向けたようでもあり、モノカゲに向けたようでもあり、自分自身に向けたようでもある。


 保護者はその言葉に、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。言葉にはしないが、認める気配がある。


「ありがとうございました」


 今度は、はっきりとした声だった。


 保護者も軽く頭を下げる。それ以上、言葉は交わされない。


 二人が帰ったあと、センターはまた静かになる。


 モノカゲは受付へ戻り、記録を整えた。ハンカチは返却済み。欄に、簡単な番号が一つ増えるだけ。


 倉庫に戻り、ハンカチが置かれていた棚を見る。そこには何も残っていない。棚板も、影も、他と同じだ。布の匂いも、すぐに薄れる。


 かげまるが通り過ぎるが、足を止めることはない。どこにも引っかからない。いつも通りの距離で歩く。


 昼になり、風鈴の音が少し増えた。外は暑くなり始めている。空気が膨らみ、蝉の準備をしているような静けさ。


 モノカゲは窓を少しだけ開け、風を通した。


 風は、紙の端を揺らし、カウンターの上の受領票を一枚だけめくった。モノカゲは手で押さえ、元に戻す。


 洗われたハンカチのように、今日という一日も、きちんと続いていく。


 それでいい、とモノカゲは思った。


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