忘れ物2 片方だけの手袋
忘れ物2 片方だけの手袋
冬の朝は、音が少ない。
空気が冷えると、街は余計なものを落とす。人の声も、車の走る音も、遠くで凍りついたみたいに薄くなる。そのぶん、聞こえてくるものがある。
忘れ物センターの倉庫は、いつもより静かだった。
モノカゲは棚の前にしゃがみ込み、小さな箱を一つずつ取り出しては、管理番号を確かめ、元の位置に戻していく。作業は単調で、急ぐ必要もない。それでも彼女は丁寧だった。忘れ物は、扱いを雑にすると、すぐに拗ねる。
……と、モノカゲは思っている。
棚の上の方で、黒と紫の影がゆらりと動いた。
カゲマルだ。
彼は棚から棚へと移動しながら、ときどき足を止める。何かを嗅ぐように首を傾げ、しっぽの先で空気をなぞる。その動きは、倉庫に溜まった“気配”を確かめているみたいだった。
ある棚の前に来たとき、カゲマルはぴたりと止まった。
そして、一歩――後ずさる。
「……そっちは、嫌?」
モノカゲが問いかけると、カゲマルは答えない。ただ、紫の灯りをわずかに暗くした。
モノカゲは、それ以上聞かなかった。
倉庫には、聞かないほうがいいことがある。
それを知っているのは、たぶん自分だけじゃない。
モノカゲは箱を抱えて立ち上がり、窓口の方へ戻った。
カゲマルも何事もなかったように、彼女の肩に戻ってくる。
その軽さに、モノカゲは少しだけ安心した。
午前中の荷物が届いたのは、それからすぐだった。
段ボール箱が三つ。
冬物、と書かれたスタンプ。
モノカゲは帳簿を開き、順番に封を解いていく。
マフラー。ニット帽。片方だけの手袋。
最後のそれを見た瞬間、彼女の指が止まった。
毛糸の手袋。
色は、くすんだ水色。何度も洗われたせいか、少し毛羽立っている。指先のほうは、擦れて薄くなっていた。
――片方だけ。
それだけで、胸の奥が静かに鳴る。
モノカゲは手袋をそっと持ち上げた。
指先に触れた瞬間、冷たい空気が流れ込んでくる。
駅のホーム。
吐く息が白くなる夕方。
人混みの中ですれ違う肩。
そして、ひとつの感情。
強くはない。
でも、はっきりと。
『……もういい』
投げ出すような。
諦めるような。
それでいて、どこか自分に言い聞かせている声。
モノカゲは目を伏せた。
この手袋は、守るためのものだった。
誰かの手を温めるための。
もう片方があって、初めて意味を持つもの。
それが、ここにはない。
棚の向こうで、カゲマルが低く鳴いた。
いつもの、気配に反応するときの鳴き方とは違う。嫌悪に近い、ざらりとした響き。
「……気持ち、重いよね」
モノカゲは小さく言った。
この感情は、やさしくない。
安心もしない。
けれど、確かに“残っている”。
だから、返せる。
返す意味があるかどうかは――分からないけれど。
モノカゲは帳簿を確認する。
管理番号。
回収場所:駅前ロータリー。
回収日時:一週間前。
一週間。
少し、遅い。
それでも、完全に消えてはいない。
感情の断片は、まだ冷えきっていない。
モノカゲは目を閉じ、もう一度、手袋に触れた。
浮かぶ情景が、少しだけ鮮明になる。
駅前の喫茶店。
曇った窓。
テーブル越しに向かい合う二人。
高校生くらいの、男女。
言い合い。
声を荒げる前の、ぎこちない沈黙。
テーブルの上に置かれた、手袋。
返そうとして。
でも、返せなかった瞬間。
モノカゲは、ゆっくりと息を吐いた。
「……片方、どこ行っちゃったんだろうね」
カゲマルは答えない。
ただ、しっぽの先がぴくりと揺れた。
それは、分かっている、という合図にも見えたし、分かりたくない、という拒否にも見えた。
配達は、夕方にした。
冷え込みが増す時間帯。
この手袋が、いちばん役に立たない時間だ。
駅前の喫茶店は、もう閉まっていた。
モノカゲは裏手に回り、自転車置き場を眺める。
古い自転車。
籠の中には、何もない。
感情は、そこを通り過ぎるだけだった。
次に向かったのは、住宅街。
感情の断片が示す先。
古いアパートの、二階。
郵便受けが並ぶ廊下は、昼間でも薄暗い。
モノカゲは立ち止まり、迷った。
この手袋を返すことで、何かが元に戻るだろうか。
もう片方は、きっとない。
誰かの手は、もう別のもので温められているかもしれない。
それでも。
返さなければ、この感情はずっと“もういい”のまま、冷えていく。
モノカゲは決めた。
直接、渡さない。
気づいたら、そこにある形で。
彼女は郵便受けの一つを開け、手袋をそっと入れた。
黄色い傘のときと同じように、位置を整える。
けれど今回は、封蝋の道具は使わなかった。
“帰るべき”という強い印を、結ばなかった。
この手袋は、帰る場所が曖昧だから。
モノカゲは一歩下がり、廊下の端へ移動した。
扉の向こうで、生活音がする。
テレビの音。
食器の触れ合う音。
やがて、郵便受けが開く音。
カタン。
感情が、ふっと動いた。
冷たい空気が、少しだけ緩む。
でも。
はっきりとした声は聞こえない。
『ありがとう』は、来なかった。
代わりに残ったのは、短い感覚。
指先の、寒さ。
モノカゲの胸に、かすかな痛みが走る。
「……寒い、か」
それは、返した側の罪なのか。
返された側の現実なのか。
分からない。
ただ、完全な救いではなかった。
それでも、手袋の感情は消えた。
“もういい”は、そこになかった。
モノカゲは背を向け、階段を下りる。
カゲマルは、いつもより強く、彼女の肩にしがみついていた。
センターに戻ると、夜の静けさが満ちていた。
モノカゲは帳簿を開き、返却の印を押す。
丸い印が、紙の上に残る。
けれど、彼女の指はすぐに離れなかった。
少しだけ、ためらう。
「……返したのにね」
誰に言うでもなく、呟く。
カゲマルが、指先にしっぽを巻きつけた。
温かい。
それが、今の答えだった。
モノカゲは倉庫の扉を開ける。
棚には、片割れた忘れ物が並んでいる。
片方だけの靴。
音の出ないイヤホン。
半分だけ残ったキーホルダー。
完全には戻らないものたち。
モノカゲは思う。
忘れ物は、元に戻らないこともある。
でも。
戻らないからといって、何もできないわけじゃない。
少しだけ、冷たさを和らげる。
それだけで、意味がある。
倉庫の扉を閉めると、カゲマルが小さく鳴いた。
それは肯定にも、慰めにも聞こえた。
忘れ物センターには、今日も片割れのまま眠るものがある。
そして、その一つひとつに、誰かの“続き”が残っている。




