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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物18 乾かないレインコート

忘れ物18 乾かないレインコート


 


 雨は朝から途切れなく降っていた。


 忘れ物センターの入口にかかる小さな庇から、細い水筋が落ちている。水は一度、錆びた鎖を伝い、それからコンクリートの縁で跳ねて、ほとんど音を立てずに地面へ消えた。


 モノカゲは制服の袖口を軽く払ってから、ドアを開けた。靴底が床に触れると、まだ乾ききらない空気が、わずかに重さをもって迎えてくる。外の雨が強い日ほど、室内は静かに感じられた。世界が、雨音の薄い膜で包まれるからだ。


 受付のカウンターの横に置いたタオルは、昨日よりも柔らかいままだった。乾ききっていないという意味ではなく、湿度が布の手触りをほどいている。


 梅雨に入ってから、センターの中はいつもより遅い。訪れる人の足取りが慎重になるせいで、空気の流れも控えめになる。傘を畳む音、コートの水滴を払う音、靴が床を確かめる音。どれも必要以上に響かない。


 かげまるは入口脇に座り、耳を伏せていた。雨を嫌がる様子はない。ただ、動かない。床に落ちた水滴が近づくと、一歩だけ距離を取る。その程度の反応だった。濡れた足跡を避けているのか、たまたまなのか、モノカゲは判断を置いたままにする。


 カウンターの上には、すでに一つの忘れ物が置かれている。


 黄色いレインコートだった。


 子ども用の、小さなサイズ。フードの縁には透明なつばが縫い付けられ、背中の内側には名前タグがある。文字はすっかり薄れていて、もう誰のものかは読み取れない。タグの角だけが、何度も洗われた布の端のように柔らかく丸まっている。


 モノカゲは手袋越しにそれに触れた。


 感情は来なかった。


 代わりに、静かな状態だけが伝わってくる。


 ――まだ、濡れている。


 言葉というより、手触りに近い感覚だった。外側は乾いている。縫い目も問題ない。それでも内側だけが、雨上がりの草のような湿り気を残していた。乾いた布と湿った布が隣り合うときの、温度差のない不自然さ。


 モノカゲは、レインコートを軽く振った。水は落ちない。フードの透明なつばに曇りが一枚残り、指先の動きで、その曇りが少しだけ形を変える。


「……乾きにくいですね」


 そう言ったのは、カウンターの向こうに立つ依頼者だった。


 三十代後半くらいの女性で、肩までの髪を後ろでまとめている。濡れた様子はないが、服の裾に小さな雨染みがいくつか残っていた。雨の日に慣れている人の歩き方をしている。早足ではなく、ためらいなく、しかし急がない。


「引っ越しのときに、たぶん……しまい忘れたんだと思います」


 彼女はそう言い、視線をレインコートから外した。カウンターの角を指でなぞる仕草が、必要以上に丁寧だった。木目の小さな凹凸を確かめるように、同じ場所を二度なぞって、やめる。


 モノカゲは頷いただけで、理由を尋ねなかった。言葉の隙間に詰まっているものは、尋ねれば形になる。形になれば、戻れなくなることもある。


「お預かりします」


 そう告げ、レインコートを畳む。布は軽く、音も立てない。だが畳み終えたとき、指先に残るわずかな湿り気が、はっきりと分かった。


 依頼者の女性は、手元のバッグの口を閉じたり開けたりした。そこに何かを入れる予定があるかのように。けれど結局、何も入れない。


「お子さんの、ですか」


 モノカゲは、確認のためだけに言った。詮索のためではない。


「はい」


 短い返事だった。声に余計な抑揚はない。抑えたというより、最初から整っている。


「今は……もう小さくて」


 女性はそう付け足してから、言い直すように口を閉じた。小さくて、という言葉が、レインコートのサイズの話なのか、時間の話なのか、どちらにも聞こえた。


 モノカゲは受領票に日付だけを書き、番号を押した。インクは滲まない。今日の湿度でも、紙はきちんと乾いている。


「倉庫へご案内します」


 女性が頷く。傘を持っていない手が、自然に胸の前に上がり、すぐに降りる。手持ち無沙汰の動き。


 通路へ出ると、照明はいつも通りだが、今日は反射が柔らかい。湿度のせいで、棚の金属が光を吸っているように見えた。床のワックスも、いつもより鈍い。


 倉庫の扉を開ける。空気は一段、落ち着く。整理された棚の匂い。段ボールと布と金属の匂い。ほんの少しの防虫剤。


 レインコートは返却可能棚の一角に置かれた。特別な位置ではない。触れてはいけない順番も、保留の印も付いていない。乾燥棚の近くに置いてもよかったが、モノカゲはそうしなかった。乾燥棚は“乾かすべきもの”が並ぶ。今日のそれは、乾けば済む話ではない。


 それでも、モノカゲはすぐに手を離さなかった。


 女性は何も言わず、隣に立っていた。倉庫の中で声を出すと、どこかへ吸われていく。吸われていくから、言葉は軽くなる。軽くなるから、言ってしまえる。そういう場所だ。


 モノカゲは、椅子を一つ引いた。


「こちらへ」


 女性は一度首を振った。それから、少し遅れて小さく息を吐き、腰を下ろす。座るとき、膝を揃えて閉じる。その動作だけが、少しだけ強張っていた。手は膝の上に置かれるが、指先は揃わない。


 モノカゲはレインコートを棚の手前に置き、タグの位置を見た。薄い文字の上に、布の毛羽立ちが影を作っている。読めないままの名前。


 ――まだ、濡れている。


 感知は変わらない。急かしてくるような圧もない。ただ、そこで待っている。


「雨の日は……」


 女性が、棚を見たまま言った。


「よく転んでたんです。あの子」


 モノカゲは視線を上げない。視線を上げれば、話の続きを求める合図になってしまう。


「泣かなかったんですよ。不思議なくらい」


 女性は口元に、かすかな笑みを浮かべた。それが過去の出来事だということは、声の調子で分かる。遠い、というほどではないが、今の生活からは切り離された時間。


「転ぶと、膝が濡れて。靴も濡れて。袖口も濡れて……」


 言いながら、彼女は自分の袖口を親指で摘まむ。そこに雨染みはない。それでも摘まむ。


「でも、泣かない。泣く代わりに、動かなくなるんです。じっとして……こっちを見て」


 “こっち”が誰なのかは言わない。


「濡れるのが、嫌だったみたいで。だから、ちゃんと着せてたんです。レインコート」


 それ以上、言葉は続かなかった。続ける気がないというより、続けると別の話になるのだろう。別の話は、ここではしない。


 モノカゲはレインコートを持ち上げた。重さは変わらない。湿り気も、そのままだ。内側の布が、指の腹にゆっくりと寄ってくる。


 返却は可能だった。返さない理由も、特にはない。


 けれど、返すことは“正しい”こととは限らない。


 モノカゲは棚の前で、少しだけ待った。待つ、という行為は、誰かのために時間を置くことだ。時間を置けば、急いで言葉にしなくて済む。


 女性は、その沈黙を破らなかった。代わりに、バッグの持ち手をぎゅっと握り直し、ほどく。


「引っ越し先は、坂が多いんです」


 ぽつりと、違う話が出た。


「雨の日、滑るから……傘をさすと片手が塞がって、怖くて」


 それは、今日傘を持っていない理由にも聞こえた。あるいは、理由を言い訳にしているだけかもしれない。


 モノカゲは肯定も否定もしない。


「手が空いているほうが、安心しますね」


 それだけ言った。雨の日の安心は、誰かにとっては傘で、誰かにとっては手の自由だ。


 女性は頷いたようにも見えたし、見えなかったようにも見えた。視線はずっと、棚とレインコートの間に置かれている。


 モノカゲは決めた。


 レインコートは、過去を閉じ込めるものではない。ただ、使われていた時間を持っているだけだ。持っている時間を返す。返す相手は、持っていた人ではなく、持っていた時間に触れていた人。


 モノカゲは、それを女性に差し出した。


「こちらです」


 女性は一瞬、受け取るのをためらった。それから、両手で丁寧に受け取る。布を落とさないように、受け皿のある両手。


 内側に触れ、わずかに眉を寄せたが、何も言わなかった。湿り気に驚く様子も、怒る様子もない。ただ、確かめる。


 代わりに、胸元へ引き寄せる。


 抱きしめる、というほど強くはない。ただ、布が身体に触れる距離まで近づけて、静かに目を伏せた。呼吸が一つ、深くなる。


 それから、ゆっくりと畳む。


 角を揃え、フードを内側に入れ、最後に背中を撫でる。その動作には迷いがなく、繰り返してきた手順であることが分かった。雨の日の帰宅後、玄関先でやっていたのだろう。


 背中を撫でた指が止まる。


 女性は、撫でた場所をもう一度撫でるでもなく、引っ込めるでもなく、しばらく置いたままにした。


「……ありがとう」


 それだけ言って、彼女は立ち上がった。


 倉庫を出るとき、女性は足元を一度見た。床には何も落ちていない。落ちていないことを確認してから、前を向く。


 受付へ戻る途中、かげまるが通路の端に座っているのが見えた。女性は一瞬だけ目を止め、しかし言葉にはしなかった。かげまるも何もしない。視線を動かしたようにも見えるが、耳の角度が変わっただけかもしれない。


 入口のドアの前で、女性は立ち止まった。


 外を見ると雨は小降りになっていた。霧のような粒が、地面に薄く広がっている。水たまりはできかけて、できかけのまま揺れている。


 女性はバッグから折り畳み傘を取り出した。少し迷ってから、開く。布が広がる音が、雨音の中に小さく混ざる。


 レインコートは、畳んだままバッグの中へしまわれる。しまい方は丁寧だった。急いでいる人の仕草ではない。


 ドアが閉まると、雨音が少しだけ遠くなった。


 モノカゲは倉庫へ戻る。


 返却可能棚の、その一角。


 レインコートが置かれていた場所に、薄い水染みが残っていた。指でなぞれば消える程度の、小さな跡。棚板の木目の上に、色の違いが一枚だけ重なっている。


 モノカゲは拭かなかった。


 記録も取らない。


 拭けば消えることと、消すべきことは、同じではない。


 かげまるが近づき、その前で立ち止まる。鼻先を近づけるでもなく、ただ、そこにあるものの距離を測るように立つ。


 床を一度、踏みしめるように前足を置き、それ以上は動かない。


 雨は、まだ降っている。


 倉庫の奥まで、静かに。


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