表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: nime


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/39

忘れ物17 返しそびれた傘

忘れ物17 返しそびれた傘


 雨の朝だった。


 忘れ物センターの玄関マットは、いつもより少しだけ重い。靴底に水を含んだ感触が残り、歩くたびに微かな音を立てる。傘立ての受け皿には水滴が溜まり、一定の間隔で床に落ちていた。水滴が落ちるたび、受け皿の縁が小さく震える。震えは小さすぎて、誰も気づかない。けれど、その「気づかれない揺れ」が雨の日にはいくつもある。


 モノカゲは札を「受付中」に裏返し、鍵束の冷たさを確かめる。帳簿を開くと、紙が湿気を含んで、わずかに柔らかくなっていた。ページをめくる音が、乾いた朝より少しだけ鈍い。ペン先は引っかからない。書ける日だ。


 湯を沸かす。湯気はいつもより白く、天井に届く前にほどけた。音は途中で消えず、最後まで耳に届く。湯の匂いは、雨の匂いと混ざって、輪郭が曖昧になる。


 倉庫の扉を開けると、冷たい空気が静かに流れ出した。雨の日の冷気は、匂いを連れてくる。金属と紙と、少しの埃。それから、濡れたコンクリートの匂い。棚の影は短く、床の線からはみ出さない。


 異常はない。


 異常がない日は、仕事が進む。進むはずだ。


 モノカゲは棚を順番に見て回り、保留棚の角の埃を布で軽く払った。埃は湿気を含むと、舞い上がりにくい。舞い上がらない埃は、そこにあることを強く主張しない。主張しないまま、少しずつ溜まる。


 カウンターに戻ると、カゲマルは入口付近で影を小さくしていた。湿った床を避けるように、少しだけ浮いて見える。そこにいるが、主張しない。今日はそれでいい。


 午前中は、傘の相談が続いた。


 雨の日は、傘が集まる。集まって、間違われて、また戻っていく。似たような黒い傘、似たようなビニール傘。柄の傷や、留め具の緩み、骨の癖で区別する。


 ある男性は、ビニール傘を受け取った瞬間に首を傾げた。


「同じなんですけど、違うんです」


 モノカゲは「同じではない」と言い切らない。そのかわり、柄の端の小さな削れを指で示した。


「こちらは、少し欠けています」


 男性は削れを見て、ほっとしたように笑った。


「そうそう。これです。欠けてるやつ」


 欠けていることが、持ち主の証拠になる。完璧な物は、誰の物にもなりにくい。


 別の女性は、折り畳み傘を二本、まとめて持ってきた。


「どっちがどっちか分からなくなって……」


 モノカゲは内側の布の縫い目を見た。片方だけ、糸が少し太い。


「こちらは修理されています」


「……あ、私です。直したの」


 思い出すきっかけは、たいがい小さい。修理の糸一本で、記憶が戻る。


 傘の案件が続くと、センターの中の湿度まで高くなる気がした。実際の湿度は変わらない。ただ、濡れた物が持ち込まれるたび、空気が水を思い出す。


 昼前に来たのが、若い女性だった。濡れたコートの裾を気にしながら、カウンターの前に立つ。髪の先から、ぽたぽたと水が落ちる。落ちた水は床に広がらず、点のまま残る。


「忘れ物の相談を……」


 差し出されたのは、スマートフォンだった。画面には、黒い折り畳み傘が写っている。持ち手の部分に、小さな傷があった。傷は、わざとつけた印ではない。いつの間にか、そこにできた傷だ。


「これです。電車に置き忘れて」


 女性は画面を見つめながら言った。


「どうしても、これじゃないと嫌で」


 嫌だ、という言葉は強い。けれど、強い言葉ほど、守りたいものが小さくて弱いことがある。


 モノカゲは画面を確認し、頷いた。


「特徴は、その傷ですね」


「はい。あと、少し重いです。……祖父の傘なので」


 祖父、という言葉は、静かに置かれた。


 女性はスマートフォンをしまい、手を重ねた。指先が冷えている。雨に濡れたせいだけではない。


「雨の日、苦手なんです」


 女性は続けた。


「傘はあるのに、外に出ると……落ち着かなくて。濡れるのが嫌というより、雨の音が」


 雨の音は、距離を曖昧にする。近くの音も遠くの音も、同じ膜の向こうにあるように聞こえる。


「祖父は、雨の日でも平気でした」


 女性は笑った。笑いは小さく、すぐに消えた。


「『雨は、空の掃除だ』って言う人で。変ですよね」


 変ではない。そういう言葉を言う人がいた、という事実が、傘に残っている。


 話を聞くと、その傘は、祖父が毎日使っていたものだった。雨の日も、晴れの日も、鞄に入れていた。派手ではないが、丈夫で、閉じるときの音が少し低い。折り畳むとき、骨が一本だけ遅れて畳まれる癖がある。


「祖父が亡くなってから、これを使うようになりました」


 女性は息を吸い、吐く。


「形見って、飾るものだと思ってたんです。でも……使うと、近くにいる気がして」


 近くにいる気がする。気がする、という曖昧さは、確定しないまま守るための言い方だ。


「私、雨が苦手で。でも、この傘だと……濡れない気がして」


 濡れない、というのは、物理的な話ではない。


 モノカゲは傘の写真に触れるように、指先を近づけた。感覚は薄い。


 ――まだ、閉じられている。


 感情ではない。状態だ。閉じられている、というのは、雨を閉じ込めることでも、何かを守ることでもある。


「鉄道会社に確認します」


 モノカゲは預かり票に必要事項を記入し、路線と時間帯を確認した。女性は細かいことをよく覚えていた。何両目に乗り、どの駅で降りたか。席に座ったか、立っていたか。傘をどこに置いたか。


「座席の下に、立てかけたんです。駅に着いて、急いで降りて……」


 急いで降りた、と言ったとき、女性の眉が少しだけ寄った。急いだ理由は、雨だけではない。


 鉄道会社に連絡を入れると、傘はすでに回収されていた。特徴も一致する。返却の手続きは問題なく進んだ。


 電話口の担当者は確認しながら言った。


『折り畳み傘、黒。持ち手に小傷。留め具の端が擦れてます。……これですね』


 モノカゲは「はい」と答える。確かに、それだ。


 昼過ぎ、女性に連絡を入れる。


「見つかっています。午後にお渡しできます」


 受話器の向こうで、息を吸う音がした。


『……よかった』


 その「よかった」は、雨が止んだときのよかったではない。


 午後、女性は再びセンターを訪れた。コートは乾いているが、空気はまだ湿っている。髪は整え直されているのに、頬のあたりだけ雨粒の跡が残っている気がした。


 モノカゲは保管袋から傘を取り出した。写真で見るより少しだけ古かった。持ち手の傷も、留め具の擦れも、そのままだ。骨の一本だけが、わずかに曲がっている。


「ありましたよ」


 差し出すと、女性は一瞬、受け取るのをためらった。それから、両手で受け取る。片手で掴むと軽いはずなのに、両手で受け取るのは、傘が軽くないからだ。


「……これです」


 女性は持ち手の傷を親指でなぞった。傷の上をなぞる指が、少しだけ震える。


 無意識に傘を開こうとして、止めた。室内だと気づいたからだ。手元で、傘が一度だけ鳴る。低い音。骨が鳴る音。


 女性は笑ってしまいそうになり、息を吐いた。


「祖父、これ閉じるとき、こういう音がしたんです」


 音の記憶は強い。映像よりも先に戻ってくることがある。


「濡れなくて、済みました」


 その言葉は、雨のことだけを指していなかった。


 女性は深く頭を下げ、傘を大事そうに抱えて帰っていった。出口の前で一度だけ傘の留め具を確かめ、ちゃんと閉じたままにする。閉じたまま、持ち帰る。


 夕方、雨は小降りになった。


 モノカゲは倉庫を巡回する。傘が置かれていた棚は空だ。何も残っていない。拭く必要もない。


 ただ、入口の傘立ての受け皿を見ると、水滴が一滴だけ残っていた。乾いているはずの時間なのに、なぜか消えずにいる。湿度のせいにするには、一滴だけがはっきりしすぎている。


 モノカゲは布を取らなかった。


 拭けば消える。消えれば、何も残らない。今日は、何も残らなくてもよかった。けれど、一滴が残っていること自体が、悪いことではない気がした。


 灯りを落とし、扉を閉める。


「……返せた」


 小さな独り言は、雨音に混じって消えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ