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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物15 返せなかった写真

忘れ物15 返せなかった写真


 朝の忘れ物センターは、穏やかだった。


 札を裏返し、鍵束の重みを確かめ、帳簿を開く。ペン先は紙に引っかからず、湯の沸く音も途中で途切れない。窓の外では、車が一台通り過ぎ、遠い犬の鳴き声が一度だけ聞こえた。


 倉庫の扉を開けると、冷たい空気が静かに流れ出し、床の線の上に薄く溜まった。棚の影はいつも通りの長さで床に落ち、重なりすぎない。モノカゲは決まった順番で棚を見回り、保留棚の角の埃を布で払う。


 特別なことは、何もない。


 何もない、というのは、助かる。何もない日は、何かを守れる。


 カウンターに戻ると、カゲマルは入口近くで影を丸めていた。こちらを見ているようで、見ていない。存在がそこにあるだけで、仕事の流れを乱さない距離。モノカゲはそれを、ありがたいと思う。


 開店してしばらくは、よくある忘れ物が続いた。


 駅で落としたらしい定期入れ。片方だけの手袋。子どもの帽子。持ち主はそれぞれ違う顔をして、同じように「すみません」と言い、同じように「ありがとうございます」と言って帰っていく。


 忘れ物は、どれも生活の端っこだ。端っこだから、置き去りにされる。端っこだから、拾い上げられる。


 午前の最後に来たのが、中年の女性だった。


 派手さはないが、身なりは整っている。鞄を胸の前で抱え、何度か深呼吸をしてから、カウンターに近づいた。息を吸うたびに肩が少し上がり、吐くたびに少しだけ下がる。体が先に緊張して、言葉が追いかけている。


「忘れ物の……相談で」


 声は落ち着いているが、語尾がわずかに揺れている。


 女性が取り出したのは、一枚の写真だった。白黒で、縁が少し波打っている。長い時間、箱の中にしまわれていたのだろう。表面には細かな擦り傷があり、光にかざすと淡く反射した。


 写真には、若い男女と、女性に抱かれた赤ん坊が写っている。男女はぎこちなく笑っている。赤ん坊はカメラを見ていない。視線が、少し外れている。カメラの外に誰かがいて、赤ん坊はそちらを見ているような表情だった。


「実家の整理をしていて……見つけました」


 女性は写真から目を離さずに言った。


「裏に、何も書いてなくて」


 モノカゲは写真を受け取り、裏面を確認した。名前も日付も、スタジオ名もない。ただ、紙の色が均一でないことだけが分かる。指で触れると、角がわずかに柔らかくなっていた。持ち歩かれたのではなく、箱の中で何度も触れられた角だ。


「たぶん……私の両親です」


 女性はそう言って、すぐに続けた。


「でも、確信はありません」


 たぶん、と、ありません。その二つの言葉の間に、長い時間が挟まっている。


 モノカゲは写真を手のひらに乗せた。軽い。紙一枚分の重さしかない。それでも、胸の奥に小さな状態が残った。


 ――まだ、見られていない。


 見られていない、というのは、誰にも知られていない、という意味とは少し違う。見られていないまま、置かれている。確認されていないまま、存在している。


 モノカゲはそれを感情だとは呼ばない。


「差し支えなければ、もう少しお話を聞かせてください」


 女性は小さく頷いた。頷いた後、唇を結び直す。言う準備をする仕草。


「私は……養子なんです」


 その言葉は、用意されていたように、静かに出てきた。


「育ててくれた両親は、もう亡くなっています。大切にしてもらいました。今でも、感謝しています」


 感謝、という言葉に、余計な飾りはなかった。守るものがはっきりしている人の言い方だった。


「……子どもの頃から、知っていましたか」


 モノカゲの問いに、女性は少しだけ首を振った。


「はっきり言われたのは、大人になってからです。でも、なんとなく分かっていました。親戚の言い方とか、写真の少なさとか」


 写真の少なさ。家族の写真が少ない家はある。けれど、少ない理由がいつも同じとは限らない。


「両親――育ての親は、私のことを隠そうとはしませんでした。『あなたはあなた』って。それで、私はそれを信じてきました」


 信じてきた、という言葉は、今も信じている、という意味にも聞こえるし、信じていた、という意味にも聞こえる。


「でも、最近になって……実の親のことを考えるようになって」


 女性は写真の縁をそっと撫でた。撫で方が丁寧すぎて、逆に触れたくないものを触っているようにも見える。


「きっかけは、片付けです」


 実家を整理しなければならなくなったこと。育ての親が亡くなって、家を閉じる手続きを進めていること。段ボールを開けるたび、知らなかった自分が出てくること。


「箱の底に、これがありました。母の字で『大事』って書いたメモが一緒に入っていて」


 大事。大事、という言葉は便利だ。何が大事かは書いていないのに、大事だと決まってしまう。


「もし、そうだったら……この写真を返すことで、何かが分かるかもしれません」


 分かる、という言葉は、明るい意味でも、暗い意味でも使える。


「でも、違ったら」


 女性はそこで言葉を止めた。違ったら、の先にある言葉は、一つではない。


「返すことで……壊してしまう気もして」


 壊れるのは、写真か、記憶か、今の自分か。


 モノカゲは写真をそっと置き、女性の方を見た。


「写真を返すことは、真実を確定させることになります」


 断定ではない。可能性の話だ。けれど、この女性にとっては、可能性でも十分に重い。


「確定することで、楽になることもあります」


 そして、続ける。


「でも、確定しないままでいられることが、支えになる場合もあります」


 女性は黙って聞いている。聞きながら、自分の中の言葉を整理している顔だった。


「……私、両親に救われたんです」


 突然、女性はそう言った。


「救われた、って言うと大げさですけど。たとえば、私が熱を出したとき。父が夜中に車で病院へ連れて行ってくれて。母が車の中でずっと背中をさすってくれて」


 白黒写真の外側に、色のある記憶が現れる。


「そういう記憶が、たくさんあります」


 それは、育ての親の記憶だ。


「なのに、最近、ふと考えてしまうんです。私の顔は誰に似てるのか、とか。声の癖は、とか」


 探すことは悪いことではない。ただ、探すとき、人は今あるものを手放しそうになる。


「写真が本物だったら、私は……うれしいのかもしれない。でも、うれしいって感じた瞬間に、罪悪感も出てきそうで」


 罪悪感の正体は、誰かへの不義理ではなく、自分の中にある秩序の揺れだ。


 モノカゲは選択肢を並べた。


「返却を試みることもできますし、こちらで保管することもできます。処分、という形もあります」


 処分、という言葉が出ても、女性の表情は大きく変わらなかった。最初から、その選択肢は遠い場所にある。


「……返さない、という選択も」


 モノカゲは一拍置いて、続けた。


「あります」


 女性は、ゆっくりと息を吐いた。


「返さない、ですか」


 その言葉を、確かめるように繰り返す。


 モノカゲは、はっきりと言った。


「今回は……返さない方がいいと思います」


 理由を、異変に求めない。倉庫の都合にも、世界の仕組みにも、責任を預けない。


「写真が返されることで、“今のあなた”が失われる可能性があります」


 女性は驚いたように目を上げた。


「失われる……」


「真実が悪い、という意味ではありません」


 モノカゲは言葉を選ぶ。


「ただ、真実が“今”必要かどうかは、別です」


 女性は、写真に目を落とした。


「私は……逃げているわけじゃないでしょうか」


 問いかけは、自分自身に向けられている。逃げ、と名付けてしまえば、すべてが単純になる。単純にすると、人は前に進める。けれど、単純にした瞬間、手元の大事なものが欠けることもある。


「逃げる、という言葉は」


 モノカゲは首を横に振った。


「ここでは、使わなくていいと思います」


 しばらくの沈黙の後、女性は写真を差し出した。


「預かってください」


 声は震えていない。


「今じゃない、という選択をしたいです」


 モノカゲは頷き、写真を保護袋に入れた。透明な袋越しでも、写真の存在感は変わらない。むしろ輪郭がはっきりして、そこにあるものが増えたように見える。


 手続きを進める。預かり票に日付、分類、特徴。分類は「写真」。備考欄は空けておく。書けないことがある。


 女性は控えを受け取り、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 礼の言葉は、仕事の区切りを作る。


 女性が帰った後、センターは再び静かになった。


 午後の業務は、いつも通りだった。傘、財布、携帯電話。戻るものもあれば、戻らないものもある。


 戻らないものに対して、誰もが同じ顔をするわけではない。怒る人もいるし、諦める人もいる。笑ってしまう人もいる。モノカゲはその差を、良し悪しでは測らない。


 写真のことだけが、時間の外に置かれているようだった。


 夕方、モノカゲは倉庫へ写真を運んだ。保留棚の中央。端には寄せない。置く位置を確かめ、そっと手を離す。


 カゲマルは少し離れた場所で、影を落としていた。近づかない。反応しない。反応しないことが、余計に写真を「普通の物」に見せた。


 夜、閉店後の巡回。


 写真は動いていない。位置も、向きも、そのままだ。何も起きていない。


 それでも、棚の前に立つと、空白があるように感じる。写真が空白なのではない。空白が、写真を囲んでいる。答えが欠けている、という空白ではなく、答えを置かない、という空白。


 モノカゲは小さく息を吐いた。


「……返さないのも、仕事です」


 独り言は、棚に吸い込まれて消えた。


 灯りを落とす。


 倉庫は静かだった。写真は、見られないまま、そこにあった。見られないままでも、なくならない重さを抱えたまま。


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