表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: nime


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/39

忘れ物14 返ってきた鍵

忘れ物14 返ってきた鍵


 朝の忘れ物センターは、いつも通りの朝だった。


 札を「準備中」から「受付中」に裏返し、鍵束の重みを確かめる。帳簿を開いて昨日の記録を眺め、ペン先を試し書きする。引っかからない。紙も乾きすぎていない。湯を沸かす音も、途中でほどけずに最後まで耳に届いた。


 倉庫の扉を開ける。冷たい空気がゆっくり流れ出て、床の線の上に薄く溜まる。棚を順番に見回り、保留棚の角の埃を布で軽く払う。


 特に異常はない。


 そう言ってしまえば終わる朝だった。


 カウンターに戻ると、カゲマルは入口の近くで影を伸ばしていた。近づきはしない。ただ、そこにいる。影があることで、日常が日常のまま保たれているように見えることがある。


 開店して間もなく、来訪者が現れた。若い女性だった。髪はきちんとまとめているのに、目の下にうっすらと疲れが残っている。手には小さな封筒を握っていた。封筒は紙ではなく、布の袋だった。


「おはようございます」


 モノカゲが声をかけると、女性は少し緊張したように頷いた。


「忘れ物の相談で……」


 袋の口を開けると、中から一本の鍵が出てきた。古い鍵だった。頭の部分が丸く、刻みが深い。今の鍵よりも少し重く、金属の色も落ち着いている。鍵の根元には、短い紐が結ばれていた。紐の先には、もう何もついていない。


「鍵、ですか」


「はい。引っ越しの整理をしていたら出てきて……」


 女性は鍵を見つめながら言った。


「もう使えない鍵なんです。今は、そこに住んでいないので」


 使えない鍵。役目を終えたもの。捨てればいいはずのもの。


 それでも女性は、捨てなかった。


「でも、返したい人がいる気がして」


 モノカゲは鍵を受け取り、手のひらに乗せた。冷たく、硬い。金属の重みは正直で、嘘をつかない。持った瞬間、胸の奥に小さな状態が残った。


 ――閉めたまま。


 感情ではない。悲しみでも、後悔でもない。ただ、閉められている。閉めている。閉めたまま。


 モノカゲはそれを「寂しさ」だとは言わない。「名残」だとも決めない。


「こちら、どちらのお住まいの鍵でしょう」


 女性は少しだけ視線を上げ、すぐに落とした。


「祖母の家です。小さい頃……よく預けられていた家」


 鍵の紐を指で触りながら、女性は続ける。


「母が仕事で忙しくて。私は放課後、祖母の家に行っていました。母が迎えに来るまで」


 記憶の中の家は、いつも薄暗い。けれど温かい。そういう家がある。


「祖母は、もう亡くなっています」


 女性は淡々と言った。淡々としているのは、平気だからではない。平気だと思える瞬間と、そうでない瞬間が混ざっているからだ。


「鍵は、返しそびれたんです」


 返しそびれるものは、返す予定があったという証拠だ。


 モノカゲは頷いた。


「返したい、というのは……ご家族のどなたかに、でしょうか」


「たぶん……叔父です。祖母の家は、叔父が管理していて」


 女性は指先を揉みながら言った。


「家自体は、もう空き家なんです。解体するか、売るか、話をしているって聞きました」


 空き家。誰もいない家。


 鍵はまだ閉めることができるのに、開ける人がいない。


「鍵を返すことで、何かが変わるかは分かりません」


 モノカゲはいつもの言い方で、選択肢を置く。


「ですが、返却という形を取ることはできます」


 女性は小さく息を吐いた。


「返したら……終わる気がするんです」


 終わる、という言葉は、終わらせる、という意味にもなる。


「終わっていいこともあります」


 モノカゲはそれ以上言わなかった。終わらせてはいけないものもある、と付け足すのは簡単だ。でも、それは今の女性の手の中にない。


 手続きを進める。預かり票に日付、分類、特徴、状態。分類は「鍵類」。備考に「祖母宅の鍵」と書く。祖母、という言葉が確定してしまうが、女性の口から出た言葉なら大丈夫だ。


「返却先の連絡先は分かりますか」


「はい。叔父の番号なら」


 女性が携帯を取り出し、画面を見せる。モノカゲは番号を控え、確認のために一度だけ読み上げた。


 女性は頷く。


 カゲマルはカウンターの下を静かに通り過ぎた。鍵には近づかない。鍵は生き物の匂いを持っていない。物としての冷たさを、最後まで保っている。


 モノカゲは電話をかけた。


 数回の呼び出し音の後、低い声が出る。


『はい』


「忘れ物センターの者です。○○様のお宅の鍵をお預かりしており、返却についてご相談したく」


 名を出すとき、モノカゲは慎重になる。名前は世界を決める。


 叔父は一瞬沈黙し、それから短く答えた。


『……ああ。あの家の鍵ですか』


 声の奥に、扉を開ける前のためらいがあった。


「お心当たりはありますか」


『たぶん。古い鍵なら、まだ何本か残ってる。ただ……』


 ただ、の後が続かない。


 モノカゲはその沈黙を急かさない。


『返すなら、受け取ります』


 叔父はそう言って、受け取り場所と時間を指定した。短い会話だった。短い会話ほど、大事なことが含まれている。


 電話を切ると、女性は少しだけ肩を落とした。


「受け取ってくれるって……良かった」


 良かった、の中には、怖かった、も混ざっている。


「返却の手続きは、こちらで進めます」


 モノカゲは伝票を作り、女性に控えを渡す。


「もし、お渡しする前に気持ちが変わったら」


 言いかけて、止めた。


 気持ちが変わることを否定しない。しかし、変わることを前提にするのも違う。


「いつでも、ご連絡ください」


 女性は頷き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 女性が帰った後、センターはいつもの静けさに戻った。


 午後、モノカゲは鍵を梱包した。厚い紙に包み、紐で結び、宛先を記す。古い鍵は、紙の中でも重さを失わない。


 配送の手配をし、送り状を貼る。作業は淡々としている。淡々としているのに、指先だけが少し慎重になる。


 鍵は「閉めたまま」だ。


 閉めたままの鍵を動かすことは、閉めていた時間を動かすことでもある。


 夕方、叔父から連絡が入った。荷物は受け取った、という短い報告だった。


『確かに、うちの鍵でした』


 それだけ言って、叔父は少し黙った。


『……ありがとう。返ってくると思ってなかった』


 返ってくると思っていなかったものは、返ってきたときに重い。


 モノカゲは「どういたしまして」とは言わなかった。


「受け取っていただけて、良かったです」


 それだけを返した。


 叔父は電話を切る前に、ぽつりと言った。


『あの家、来月には解体することになりました』


 モノカゲは「そうですか」とだけ返した。


『最後に……閉めておきます』


 叔父の声は、そこで少しだけ震えた。


 閉めておく。


 鍵が抱えていた状態と、同じ言葉だった。


 電話が切れた後、モノカゲはしばらく受話器を置けなかった。


 夜、閉店の札を裏返し、最後の巡回をする。倉庫の灯りをつけると、棚の影が床に落ちる。影はいつも通りの形だった。長すぎない。重なりすぎない。


 鍵があった棚の前で、モノカゲは足を止めた。


 そこには何もない。


 何もないのに、棚板の中央に、薄い跡が残っていた。傷でも汚れでもない。拭けば消えるのに、拭く前から消えそうな跡。


 置かれていた重みの記憶。


 モノカゲは布を取り出し、棚板に手を伸ばしかけた。


 そして、拭かなかった。


 拭けば、跡は消える。跡が消えれば、鍵がここにあったことも、すぐに「なかったこと」になってしまう。


 返っていったものは、返っていった。


 それでいい。


 それでも、跡は残っていてもいい。


 モノカゲは小さく言った。


「……お疲れさまでした」


 誰に向けた言葉かは分からない。鍵か、家か、女性か、叔父か、あるいは自分自身か。


 灯りを落とす。


 倉庫は静かだった。


 鍵がいなくなった棚には、薄い跡だけが残った。閉めたままの時間が、最後に一度だけ、ここを通ったように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ