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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物13 呼ばれない名前

忘れ物13 呼ばれない名前


 その朝、モノカゲは倉庫で、影を見間違えた。


 棚の間を歩いていると、床に落ちる影が一瞬だけ揺れた。低く、丸く、どこか見覚えのある形。反射的に足を止め、「カゲマル」と呼びかけそうになって、口を閉じた。


 そこには何もいなかった。


 ただ、棚の影が、少しだけ重なっているだけだった。光の角度が変わったのだろう。そう言い聞かせれば済む程度の出来事だった。


 けれど、重なり方が妙に「寄って」いた。影は、普通なら光源から遠ざかるほど薄くなる。今の影は、薄くなる前に一度だけ濃くなった。濃くなるはずのない場所で。


 モノカゲはその場で息を止め、吐いてから、また吸った。匂いはいつもの倉庫の匂いだった。金属と紙と埃と、どこか遠い湿り気。静けさはある。あるのに、音の届き方だけが違う。


 見間違いを訂正する必要はない。訂正すると、最初に見たものが「誤り」だったと確定してしまう。ここでは、確定しないまま通り過ぎる方が安全なこともある。


 モノカゲは歩き出し、決まった順番で棚を見ていく。触れてはいけない順番がある。誰も理由を言わない。それでも守られている。守られているものは、理由が分からないほど強い。


 保留棚の角に、小さな埃の溜まりがあった。昨日掃除したはずの場所だ。埃は毎日溜まる。溜まる速度が少し違うだけ。モノカゲは指で拭い、布に落とし、何事もなかったように倉庫の扉を閉めた。


 カウンターに戻ると、湯を沸かし、札を「受付中」に裏返す。鍵束の重みを確かめ、預かり票を揃え直す。右端が一枚だけずれていたので指先で整える。ずれは小さい。小さいずれほど、あとで大きく見える。


 開店して間もなく、来訪者があった。背の高い中年の男性で、帽子を胸の前で持ち、落ち着かない様子で指を動かしている。待合椅子は二脚。男性は座らず、入口寄りに立っていた。


「おはようございます」


 モノカゲが声をかけると、男性は少し驚いたように顔を上げた。驚きの奥に、呼吸の置き場所が見つかったような安堵が混ざった。


「あ……ああ。忘れ物のことで」


 差し出されたのは、小さな紙箱だった。角が擦れて柔らかくなっている。蓋を外すと、古い首輪が入っていた。革は柔らかく、金具には細かな傷がついている。使い込まれた物特有の、丸みを帯びた存在感。


 首輪には名札がついていた。ただし、名前の部分だけが削れている。故意ではなく、長い時間をかけて擦り切れたような削れ方だった。文字の周りだけが薄く残っていて、まるで「ここに何かがあった」と示す枠だけが残っている。


「……名前が、読めませんね」


「はい」


 男性は短く答えた。短さは、話したくないからではなく、話したら自分の言葉が勝手に増えてしまうことを知っている人の短さだった。


「呼ばなくなって、外したんです」


 それ以上の説明はなかった。けれど、その一文だけで、十分だった。


 モノカゲは首輪を受け取り、そっと手に乗せた。革の温度は低い。乾いているのに、硬くはない。指先が触れた瞬間、いつもの“最後の感情”は来なかった。


 代わりに、胸の奥に、静かな状態が残る。


 ――呼ばれるのを、待っている。


 悲しみでも、寂しさでもない。期待とも違う。ただ、止まったままの時間。待っている、というより「待つ以外の姿勢を知らない」ものがそこにある。


 モノカゲはすぐに断定しない。断定しないことが、ここでは唯一の安全策になる。


「こちらで、お預かりしますか」


 男性は少し迷い、それから頷いた。頷き方が遅い。遅い頷きは、頭では決めていても体が追いついていない。


「捨てることも考えました。でも……名前を思い出したら、迎えに来ようと思って」


 思い出す、ではなく、思い出したら。思い出すことを、未来に置いている言い方だった。


「名札は……このままですか」


 モノカゲが確認すると、男性は帽子の縁を指でなぞった。


「削れたのは、自然にです。……前は読めたんですけど。気づいたら、こうなってた」


 自然に削れる文字は、毎日少しずつ削れていく。毎日少しずつ削れていくものは、削れていることに気づきにくい。


 男性は続けようとして、やめた。言葉をやめたとき、喉の奥が少しだけ動いた。


「最後に呼んだのは、いつ頃ですか」


 モノカゲは踏み込みすぎない範囲で尋ねた。必要な情報ではない。けれど、ここに持ち込まれた理由が「忘れた」ではないと分かっているとき、人は質問の形を必要とすることがある。


 男性は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……呼ばなくなった日から、呼ばないんです」


 答えになっているようで、答えになっていない。けれど、それでいい。


 手続きを進める。預かり票に日付、分類、特徴、状態。分類は「衣類/装身具」。備考欄に「名札削れ」とだけ書く。名前、とは書かない。名前と書くと、名前があるように見えてしまう。


 保護袋を取り出し、首輪を入れる。透明は安心ではない。見えることが怖いこともある。だが、見えないまま置くのが怖いこともある。


 そのとき、床を滑る影が、カウンターの下を通り過ぎた。


 カゲマルだった。


 首輪を見ると、影は止まり、少し距離を取ったまま座り込む。じゃれつくことも、離れることもない。ただ、そこにいる。影なのに「座る」という姿勢が分かる。姿勢は、意思に近い。


 男性はカゲマルを見た。見えたのか、見えなかったのか分からない顔をする。視線が一度だけ床に落ち、すぐに戻った。


「……それは」


 問いかけになりかけた言葉が、途中で止まる。


「こちらの……」


「ええ。業務の一部です」


 モノカゲは短く答えた。説明しすぎない。説明しすぎると、相手の記憶まで説明に塗り替えられてしまう。


 男性は小さく頷き、帽子を被り直した。


「じゃあ、お願いします」


 それだけ言って、男性は出ていった。扉の鈴が鳴り、音が途中でほどけて消える。今日の音は、消えるのが少し早い。


 午前中は他にも来訪があった。鍵束、傘、学生鞄に挟まった定期入れ。日常の忘れ物たち。モノカゲは淡々と受け取り、淡々と返し、淡々と預かった。


 昼前、カウンターの端に小さな毛が落ちているのに気づいた。黒い毛。カゲマルのものに似ている。拾い上げると、毛ではなく細い糸だった。首輪の内側の、ほつれた繊維。


 糸は軽い。軽すぎて、落ちた音がしない。


 倉庫へ向かう。首輪を持ったまま、歩調がわずかに緩む。首輪は軽い。軽すぎて、何かを失った重さだけが残っているようだった。


 倉庫の扉を開けると、冷気がゆっくりと流れ出た。温度はいつもと同じ。けれど今日の冷たさは「古い冷たさ」だった。長く閉じられていた引き出しの中の冷気。


 保留棚に置く。棚板の中央。端には寄せない。名札がこちらを向くように置いてから、向きを少しだけ変える。名前が削れている部分が影に隠れるように。


 隠したいからではない。見えるものほど、見えないものが目立つから。


 番号札を添え、帳簿に棚番号を書く。書き終えた瞬間、ペン先がわずかに引っかかった。普段は引っかからない。引っかかりは小さい。小さい引っかかりほど、あとで大きく見える。


 モノカゲは同じ場所をなぞらず、ペンを置いた。


 カゲマルは棚の前に来て、少し距離を取ったまま止まった。影が棚板の端に沿って伸びる。伸び方がまるで、見えない線を測っているようだった。


「ここでいい?」


 問いかけても答えはない。答えがないことを、答えにしない。


 昼の間、首輪は何も起こさなかった。位置も、向きも、そのままだ。


 ただ、倉庫に入るたび、カゲマルが必ずその棚の前で立ち止まった。立ち止まる時間が一定で、まるで数を数えているようだった。


 午後の受付が途切れた頃、モノカゲは棚卸し用の紙を眺めた。白い紙に並ぶ棚番号。数字はただの記号のはずなのに、今日はひとつだけ目に刺さる番号がある。保留棚、三列目、上段。


 そこに置いたのは首輪だ。


 首輪の名札から名前が消えている。


 名前が消えているのに、そこにある。


 モノカゲは紙を伏せ、湯を注ぎ直した。


 夕方、男性に連絡を入れる。


「特に変化はありません」


 男性は電話口で、少しだけ笑った。笑いは短く、すぐに消えた。


「そうですか。それなら……しばらく、お願いします」


 言い終えた後、受話器の向こうで小さな沈黙があった。沈黙の中に、言わなかった言葉がある。


「……名前、思い出せそうですか」


 モノカゲは尋ねない方がいい質問を、あえて尋ねなかった。代わりに、別の言い方を選ぶ。


「迎えに来るタイミングは、いつでも」


「ええ」


 男性の返事は短い。


「思い出したら、って言いましたけど……たぶん、思い出してます」


 声が小さくなる。


「でも、呼ぶのが、難しい」


 難しい、という言葉の中には、出来ないも含まれるし、しないも含まれる。


 モノカゲは「分かりました」とも「大丈夫です」とも言わない。


「お預かりします」


 それだけを返す。


 電話が切れた後、カウンターの上に首輪の形が残っているように見えた。もちろん、残っていない。目の残像だ。


 閉店の札を裏返し、最後の巡回に入る。カウンターを拭き、鍵を数える。鍵束の重みは朝と同じはずなのに、手のひらに乗る感覚だけが少し違う。


 夜、閉店後の倉庫は、昼よりも広く感じられる。物の輪郭が薄れ、影が長く伸びる。棚の影はいつも同じ形で伸びるはずだ。今日は、少しだけ長い。


 棚を一列ずつ見ていく。触れてはいけない順番がある。モノカゲはその順番を守る。守ることは信仰ではなく習慣だ。習慣は長く続くほど強い。


 保留棚の前で足を止める。


 首輪は動いていない。位置も、向きも、そのままだ。


 ただ、金具の向きだけが、揃っている。


 隣の棚に置かれた、別の首輪と。


 隣の首輪は、以前からここにあったものだ。種類も違う。金具の形も違う。なのに、二つの金具が同じ方向を向いている。まるで、並んで歩くときに自然と歩幅が揃うみたいに。


 モノカゲはしばらく立ち止まり、それ以上近づかなかった。近づけば、確かめてしまう。確かめれば、確かめたことが増える。


 棚の奥に、影が重なって見えた。


 朝に見間違えた影と、同じ重なり方だった。


 そこにいるのがカゲマルなのか、別の何かなのか、判断できない。


 判断しない。


「……呼ばれなくても、待つんだね」


 独り言は、倉庫に吸い込まれて消えた。


 待つ、という言葉を選んだことが正しいのかどうかも、モノカゲは確かめない。


 灯りを落とす。


 名前を失った首輪は、静かに棚に残った。呼ばれる日を待つとも、待たないとも言えないまま。


 扉を閉める直前、床の線の上に、細い糸が一本落ちているのが見えた。昼に拾った糸と同じ色。


 モノカゲは拾わなかった。


 拾えば、それが「落ちた」と決まってしまう。


 決めないまま、鍵を回す。


 錠の音は鳴った。鳴ったのに、どこかでほどけて、薄くなり、消えた。


 倉庫の中には、呼ばれる前の名前だけを残した首輪が、静かに置かれていた。


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