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忘れ物センター便り  作者: nime


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忘れ物12 歩いてしまう靴

忘れ物12 歩いてしまう靴


 朝、倉庫の扉を開けたとき、モノカゲは一瞬だけ、自分が鍵を間違えたのではないかと思った。


 いつもの匂いが、少しだけ違う。金属と紙と埃が混ざった、慣れ親しんだはずの空気に、わずかな温度差がある。暖かいわけではない。冷たいわけでもない。ただ、昨日までと同じ場所のはずなのに、同じではない。


 倉庫の空気は、毎日少しずつ違う。湿り気、埃の舞い方、棚板の鳴り方。だから「違う」と思っただけで、異常と決めつけるのは早い。けれど、今朝の違いは、季節のせいでも掃除のせいでもない気がした。


 モノカゲは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。呼吸をすると、匂いはいつもの倉庫に戻る。錯覚だった、と言い切ることもできた。


 床に引かれた線に沿って歩き、棚を順番に確認する。触れてはいけない順番がある。理由は説明されない。理由を説明されないまま守られるものほど、長く残る。


 昨日、確かにこの位置に置いたはずの箱が、少しだけ手前にある。数センチ。触れなければ気づかない程度のずれ。箱の角は欠けていない。床に擦れた跡もない。箱自体が重いことは知っている。重いものは、自分で動かない。


 モノカゲは箱に触れず、そのまま通り過ぎた。


 記録はしない。断定できないことは、ここでは起こっていないのと同じだ。


 扉を閉める前に、保留棚の方角へ視線をやる。昨日の封筒のことが、目を向けさせる。けれどモノカゲは目を向けただけで終える。確認すれば、確認したという事実が増える。


 カウンターに戻ると、開店の札を裏返した。今日も忘れ物センターは、忘れられたものを迎え入れる準備が整った。


 湯を沸かし、記録用紙を揃え、ペン先を試し書きする。紙に引っかからないことを確かめる。それでも、今朝はペンがわずかに乾いている。インクが薄い。季節のせいにするには、薄さが一定すぎる。


 最初の来訪者は、若い父親だった。抱きかかえた子どもは、すでに眠っている。肩に預けられた小さな頭が、規則正しく上下していた。眠りの重みが、父親の腕にだけ集まっている。


「忘れ物の相談で……」


 父親は声を落とし、紙袋を差し出した。袋の持ち手は、指の跡で少し柔らかくなっている。何度も握り直した証拠。


 中に入っていたのは、子ども用のスニーカーだった。青と白の、よくある色合い。サイズは小さく、つま先のゴムが少しだけ擦れている。靴紐は、片方だけ短く結ばれている。ほどけたままの結び目は、本人がほどく途中でやめた形だった。


「片方だけ、なくしてしまって」


 父親は言った。


「公園で遊ばせていたときです。滑り台のところで……気づいたら、もう一足がなくて」


 話し方は淡々としている。焦りも怒りもない。けれど淡々としているのは、気持ちが落ち着いているからではなく、眠っている子どもを起こさないためかもしれなかった。


「探したが見つからなくて。管理事務所にも問い合わせました。落とし物にも、まだ出てないって」


 父親は紙袋の口を押さえながら続ける。


「買い直せばいいんですけどね。片方だけ残ってると、どうにも……」


 言い切らない。言い切ると、片方が「ただのゴミ」になってしまうから。


「もう履けないんです」


 それだけが、少しだけ強い調子だった。


「でも……捨てるタイミングが分からなくて」


 モノカゲはスニーカーを受け取り、カウンターの上に置いた。軽い。子どもが走るために作られたはずの靴は、今は動きを失っている。


 そっと触れた瞬間、感情は来なかった。


 代わりに、身体の奥で何かが前に傾く。


 ――まだ、行ける。


 言葉というより、癖に近い。歩く前の、わずかな体重移動。踵が上がる前の、短い溜め。靴が覚えているのは、喜びでも寂しさでもない。動作の名残だった。


 モノカゲはそれを、感情と呼ばなかった。


 父親の腕の中で、子どもが小さく身じろぎした。父親は反射的に背中を軽く叩く。叩き方が慣れている。毎日やっている手。


「こちらで、一時的にお預かりできます」


 父親はほっとしたように頷いた。


「ありがとうございます。あの……返ってくることって、ありますか」


 返ってくる、というのは靴の片方のことだ。けれど父親の目は、靴よりも少し遠くを見ていた。


「あることも、あります」


 モノカゲはそう答えた。期待を煽らないように、否定もしない。


「返ってこなかったら……そのときは」


「そのときに、また決められます」


 父親は小さく息を吐いた。吐いた息が、ようやく自分の体に戻ったような顔をする。


「……この子、最近ひとりで靴を履けるようになったんです」


 突然、父親はそう言った。言ってから、言い過ぎたと思ったのか、口を閉じる。


「それで、今日も自分で履かせたんです。片方だけ、紐がほどけてたのに」


 責めるでもなく、誇るでもなく、ただ事実として。


 モノカゲは頷いた。頷くことで、話を促しすぎないように。


「じゃあ、しばらく置いてください」


 父親は預かり票にサインをし、子どもを抱え直して帰っていった。扉の鈴が鳴り、音が途中でほどけて消える。今日はそれが、少しだけ早い。


 午前中は他にも来訪があった。


 鍵束を忘れた老人。手袋の片方だけが戻ってきた若い女性。子どもの落書き帳を持ち込む母親。どれも、よくある忘れ物だ。よくあるからこそ、ここに来る。


 モノカゲはひとつずつ受け取り、必要な手順を踏み、必要以上の言葉を増やさない。


 昼前、倉庫へ運ぶ箱を抱えたとき、床の線の上に小さな砂粒が落ちているのに気づいた。誰かが外から持ち込んだのだろう。けれど、砂粒はひとつだけだった。ひとつだけの砂粒は、足跡にならない。足跡にならないものは、どこから来たのか分からない。


 モノカゲは砂粒を拾い、手のひらで潰した。硬い。砂ではなく、靴底の欠片のようだった。


 倉庫へ向かう途中、カゲマルが現れた。床を滑る影は、スニーカーを見ると少しだけ速度を落とす。


 興味を示しているようにも見えたが、近づきすぎない。距離を保ったまま、周囲を回る。回り方が一定で、まるで円を描く練習をしているようだった。


 棚にスニーカーを置く。片方だけの靴は、バランスを失いがちだ。モノカゲは倒れない位置を選び、そっと手を離した。


 置く位置には癖がある。棚板の印から指一本分内側。端に寄せない。端に寄ると、物は「端の役割」を引き受けてしまう。


 分類は「衣類/履物」。棚番号を記録し、備考に「片方のみ」と書く。書いた瞬間、ペン先がわずかに引っかかった。引っかかりは小さい。小さい引っかかりほど、あとで大きく見える。


 モノカゲは紙を押さえ、同じ場所をなぞらずに、次の行へ進んだ。


 昼過ぎ、巡回のために再び倉庫に入ったとき、違和感ははっきりしていた。


 スニーカーは、倒れていない。落ちてもいない。


 ただ、つま先の向きが違う。


 朝は棚の奥を向いていたはずが、今は通路の方を向いている。移動した形跡はない。置き直した覚えもない。


 モノカゲはしゃがみ込み、床と棚板を確認した。擦れた跡はない。靴底にも、新しい汚れはついていない。


 向きだけが、変わっている。


 直せばいい。そうすれば、いつもの倉庫に戻る。直してしまえば、これは「ただの置き間違い」になる。


 モノカゲは、直さなかった。


 触れず、記録せず、その場を離れた。


 離れながら、背中に視線を感じた。振り返ると、カゲマルが棚の足元に影を落としていた。影は、靴のつま先と同じ方向を向いている。合わせたのか、合わせられたのかは分からない。


 午後の受付に戻ると、モノカゲは指先を洗った。触っていないのに、洗う。手順にない手順は、気持ちの整理のためにある。


 夕方、父親に連絡を入れる。


「特に変化はありません」


 それは嘘ではない。起こった変化を、変化と呼ばない選択をしただけだ。


「そうですか」


 父親は少し残念そうに言い、それから続けた。


「……もし、戻らなかったら。こっちも、いつかは処分すると思います。でも、今じゃない」


 言葉が増えるのは、覚悟がまだ薄いからではなく、覚悟が形を探しているからだ。


「歩かなくなったときに、迎えに行きます」


 父親は最後にそう言って、電話を切った。


 意味を確認する必要はなかった。確認した途端、意味が固定される。


 閉店の札を裏返し、最後の巡回に入る。湯を捨て、カウンターを拭き、鍵を数える。鍵束の重みが、朝より少し軽い気がする。軽くなったのは鍵ではなく、自分の肩かもしれない。


 夜、閉店後の倉庫は、昼よりも広く感じられる。物の輪郭が薄れ、影が長く伸びる。棚の影はいつも同じ形で伸びるはずだ。今日は、少しだけ長い。


 棚を一列ずつ見ていく。触れてはいけない順番がある。モノカゲはその順番を守る。守ることは、信仰ではなく習慣だ。習慣は、長く続くほど強い。


 スニーカーの前で、モノカゲは足を止めた。


 位置は変わっていない。向きも、そのままだ。


 ただ、靴底が、ほんの少しだけ擦れている。


 誰も履いていないはずなのに。


 擦れは、棚板の角と擦れた形ではない。床を滑ったときにできる擦れにも似ているが、距離が足りない。足りない距離の擦れは、「動かなかった」ことの証拠にも、「動こうとした」ことの証拠にもなる。


 モノカゲはカゲマルを見る。カゲマルは棚の前に座り、影を揺らしている。じゃれつくでもなく、警戒するでもない。けれど、影の揺れが一定のリズムを持っていた。子どもの歩幅より少し短い。


「……歩いた、わけじゃない」


 言葉にすると、違う気がした。


 靴は歩いていない。ただ、歩こうとしただけだ。


 歩こうとして、止まった。


 止まったまま、向きだけを変えた。


 灯りを落とす。


 倉庫は静かだった。けれど、その静けさの中に、わずかな前傾が残っている。


 次に進む準備をしたまま、止まっているものの気配が。


 扉を閉める直前、床の線の上に、昼に拾ったのと同じような小さな欠片が落ちているのが見えた。


 モノカゲは拾わなかった。


 拾えば、それが「落ちた」と決まってしまう。


 決めないまま、鍵を回す。


 錠の音は鳴った。鳴ったのに、どこかでほどけて、薄くなり、消えた。


 倉庫の中には、歩く準備だけを残した靴が、片方だけで置かれていた。


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