忘れ物11 返されなかった手紙
忘れ物11 返されなかった手紙
朝の忘れ物センターは、いつもより少しだけ静かだった。
静か、という言葉は便利だ。耳に入ってくる音が少ないときにも使えるし、音はあるのに、どこか届き方が違うときにも使える。
今日の静けさは後者だった。足音は鳴る。帳簿の紙をめくる音も、カウンターを拭く布の擦れる音も確かにある。けれど、それらが奥へ向かう途中でほどけて、薄くなり、倉庫の扉の前でふっと消えてしまう。
音が吸われている――そう言い切るのも違う。吸われるほど強い力があれば、きっと寒気や圧力のようなものを伴うはずだ。今日はそこまでではない。ただ、届くべき場所に届いていない。そんな、わずかな「行き止まり」だけが、空気に混ざっていた。
モノカゲはその違和感を、業務開始の合図のように受け取った。
開店前の手順は決まっている。札を「準備中」から「受付中」に裏返し、鍵束の重みを確かめる。前日の預かり票を、順番通りに揃え直す。右端が一枚だけずれていたので、指先で揃える。ずれは小さい。小さいずれほど、あとで大きく見える。
帳簿を開き、前日の記録を確認する。日付、分類、棚番号、預かり時間、返却の可否。文字は整っている。いつも通りのはずなのに、紙が妙に乾いているように感じた。
倉庫の扉を開けると、冷たい空気がゆっくりと流れ出した。温度だけならいつもと同じだ。それでも今日の冷たさは「古い冷たさ」だった。夜の冷気ではなく、長く閉じられていた引き出しの中の冷気。
「今日も、異常なし」
小さく口に出してみる。言葉にすると決まってしまう場所がある――倉庫の奥に、それがあることをモノカゲは知っている。だから、この言葉は入口でだけ。
棚をひとつずつ見回り、床の線を目で辿る。保留棚の角に、小さな埃の溜まりがある。掃除が行き届いていない証拠ではない。埃は毎日溜まる。溜まる速度が少し違うだけだ。モノカゲはそれを指で拭い、布に落としてから、何事もなかったように扉を閉めた。
カウンターに戻ると、既に一人の来訪者が待っていた。年配の女性で、背筋は伸びているが、手に持った紙袋を何度も持ち替えている。持ち替えるたび、紙袋の口がすこし開いて、中の白いものが見えた。
センターの待合椅子は二脚しかない。女性は座っていなかった。座ると、何かを認めてしまうように思ったのかもしれない。
「おはようございます」
モノカゲが声をかけると、女性は少し驚いたように顔を上げた。驚きの奥に、ほっとした色が混ざった。
「あ……はい。こちらが、忘れ物で」
差し出されたのは、白い封筒だった。厚みはほとんどなく、角も丸まっていない。宛名だけが丁寧な文字で書かれていて、差出人欄は空白のままになっている。宛名の文字は、書き慣れた人の筆跡だった。書き慣れているのに、送り慣れていない。
「投函は、されていませんね」
確認のようなモノカゲの言葉に、女性は小さく頷いた。
「書いたんです。でも……送らなかった」
言い終えた瞬間、女性は息を吸った。吸って、止めて、少し遅れて吐く。その間に、言い訳か理由か、何かを付け足したくなる空白ができる。
しかし女性は、空白を埋めなかった。
「忘れたわけじゃないんです。ただ、書いたままにした。それだけなんです」
モノカゲはそれ以上、尋ねなかった。尋ねれば、言葉は増える。増えた言葉は、本人の手からこぼれて、別の意味になる。
封筒を受け取り、カウンターの上に置く。紙の感触は新しくも古くもなく、時間だけが均等に積もったような重さがあった。封の糊は固く、切れ目はない。未開封のまま、閉じられ続けた。
「こちら、保管のご希望でよろしいですか」
モノカゲは形式の確認をしながら、指先を封筒の端に置いた。
そっと触れた瞬間、いつもの“最後の感情”は来なかった。
普段なら、物が抱えていた最後の熱が、ふっと立ち上がる。寂しさ、怒り、照れ、安堵。どんな色でもいい。ただ、その色がそこにあることが、物が物としてここに来た証拠になる。
けれど今日は、色がない。
代わりに胸の奥に残ったのは、短い一文のような状態だった。
――まだ、読まれていない。
声でも、感情でもない。ただの事実に近い感覚。それは「そうだった」という確認であり、「そうであれ」という願いでもありうる。モノカゲはすぐに断定しない。断定しないことが、ここでは唯一の安全策になる。
女性の指先が、カウンターの端を軽く撫でた。爪の先が少し白い。
「中身は、確認されますか?」
モノカゲの問いは、手順としての問いだ。けれど相手は手順だけでは答えない。
女性は首を横に振った。
「いいえ。たぶん……読まないほうがいいんだと思います」
読まないほうがいい。誰にとって、なのか。女性自身か、宛名の相手か、それとも手紙そのものか。
「読み返したことも、ありませんか」
モノカゲは一歩だけ踏み込んだ。深くは踏み込まない。
「一度だけ、封筒の上から……触って。重さを確かめました」
女性は紙袋を抱え直した。
「中が軽いのに、捨てられないんです。不思議ですよね。重いものなら、諦めがつくのに」
それは不思議ではない。軽いものほど、持ち続けられる。
モノカゲは頷き、預かり票を取り出した。
「返却については、いくつか方法があります」
いつも通りの説明。ただし、結論を示す言い方はしない。
「送り先に返すこともできますし、こちらで保管することもできます。処分、という扱いもあります」
処分、と言ったとき、女性の目が少し揺れた。揺れたが、落ちなかった。
「返したら……どうなるんでしょうね」
女性の声は小さい。小さいのは弱いからではない。小さくすることで、言葉が勝手に増えるのを防いでいる。
「何かが起こることもありますし、何も変わらないこともあります」
モノカゲは封筒を見下ろしながら答えた。ここで「変わらない」を約束するのは危険だ。「変わる」を約束するのも危険だ。どちらも人の未来を奪う。
「返さない場合も、同じです」
女性は少し笑った。笑いというより、口元が形だけ笑いに近づいた。
「そうですね。何もしなくても、何かは起こる」
言葉が増えた。増えた言葉が、女性自身を刺さないか、モノカゲは気を配る。
しばらくの沈黙のあと、女性は静かに言った。
「じゃあ……預けます。返さないまま」
それは逃げではなかった。置いていく、という選択だった。返さないことが、相手への不誠実だと決めつけない。返すことが、必ずしも優しさだとも決めつけない。
「保留、という形になります」
モノカゲは短く言った。
「保留……待つ、ということ?」
「待つこともできますし、待たないこともできます」
女性は眉をわずかに上げた。
「待たない保留って、変ですね」
「変なものも、ここにはあります」
モノカゲがそう言うと、女性は今度こそ小さく笑った。笑いはすぐに消えたが、消えるまでの間に、肩の力がほんの少し抜けた。
預かり票を書き終えると、モノカゲは封筒を透明な保護袋に入れた。透明は安心ではない。見えることが怖いこともある。だが、見えないまま置くことが怖いこともある。
倉庫へ向かう途中、床を滑るように影が現れた。カゲマルだった。
いつもなら、忘れ物が持ち込まれる気配を察すると、数歩遅れて現れる。興味を示すときは距離を詰め、危険なものだと感じるときは、こちらの足元に絡むようにして進路を変えさせる。
今日のカゲマルは、違った。
封筒を見ると、いつもなら距離を取るはずのその影が、動かない。威嚇もしない、鳴き声も上げない。ただ座って、保護袋越しの白さを見ている。
その視線は「欲しい」でも「怖い」でもなかった。
モノカゲは足を止め、しばらく一緒に封筒を見た。
「……これは、返されないかもしれないね」
独り言のように呟く。
カゲマルは反応を示さなかった。ただ、その場に留まり続けた。耳も尾もない影が、なぜか「座っている」と分かる。影にも姿勢がある。
倉庫の扉を開ける。冷気が、昼より深い。
保留棚は入口から三つ目の列の端にある。よく触れられる棚だ。けれど、よく見られない棚でもある。保留棚に置かれたものは、返却棚ほど物語を持たない。持っているのに、語られない。
モノカゲは棚板の埃を布で一度だけ撫で、封筒を置いた。置く位置はいつも同じ。棚板の印から指一本分内側。端に寄せない。落ちるからではない。端に寄ると、物は「端の役割」を引き受けてしまう。
番号札を添え、帳簿に記録する。
日付――。
分類――「書簡」。
棚番号――保留棚、三列目、上段。
備考――「未開封」
書き終えた瞬間、ペン先が紙に引っかかった。普段は引っかからない。モノカゲは引っかかりを無視しない。ペンを持ち替え、もう一度同じ場所をなぞる。
カゲマルは棚の前から動かなかった。
「ここでいい?」
問いかけても、答えはない。答えがないことを、答えにしない。
女性が帰った後、センターは再び静かになった。
モノカゲはカウンターに戻り、湯を沸かした。湯気が立つ音は、今日に限って遠い。近くで鳴っているのに、耳の奥に届くまでに一枚膜がある。
昼の業務は淡々と流れた。鍵、手袋、子どもの靴下。笑って返されたものも、泣いて返されたものもあった。いつも通りの小さな物語が、カウンターを過ぎていく。
ただ、封筒のことだけが、時間の外に置かれているようだった。
夕方、倉庫の扉の前でモノカゲは一度立ち止まった。中に入る必要はない。保留棚は閉じられている。記録も取った。
けれど、今日の静けさが「行き止まり」だとするなら、その行き止まりは倉庫の中にある。
モノカゲは扉に手を置いた。冷たい。
触れるだけで、開けなかった。
夜、閉店の札を裏返し、最後の巡回をする。倉庫の灯りをつけると、棚の影が一斉に床へ伸びた。影はいつも同じ形で伸びるはずだ。今日は、少しだけ長い。
棚を一列ずつ見ていく。触れてはいけない順番がある。モノカゲはその順番を守る。守ることは、信仰ではなく習慣だ。習慣は、長く続くほど強い。
保留棚の前で、ふと足を止めた。
違和感があった。
封筒は、確かにそこにある。透明な保護袋の中で、白い面がこちらを向いている。昼間に置いた位置と比べると――
ほんの少しだけ、奥へ寄っていた。
数センチ。指二本分にも満たない。
誰かが触った形跡はない。保護袋に皺もない。落ちたわけでもない。風が入る構造でもない。棚板は水平で、歪みもない。
位置が、変わっただけだった。
モノカゲは帳簿を開きかけて、やめた。
記録は、事実を固定する。固定した瞬間、事実は「そうでなければならないもの」になる。
この変化を、今はまだ、そうしてはいけない気がした。
棚の奥に向かって、カゲマルの影が見えた。暗がりの中で、影が影を持つように重なっている。
モノカゲは封筒に手を伸ばさなかった。触れれば何かを受け取るかもしれない。受け取ったものに名前をつければ、名前が世界を決めてしまう。
代わりに、ただ言葉を落とした。
「……まだ、ここにいる」
返されないことを、責めるための言葉ではない。返されないことを、肯定するための言葉でもない。
いる。
それだけ。
灯りを落とす。
倉庫は何も答えなかった。ただ、静けさだけが、以前より少しだけ深くなっていた。
音がほどけて消える場所が、ひとつ増えたように。




