忘れ物1 黄色い傘
忘れ物1 黄色い傘
雨の匂いは、乾く前がいちばん切ない。
街の端、線路沿いに建つ小さな建物の看板には、白い文字で「忘れ物センター」とだけ書かれている。派手さはなく、どこか古い郵便局みたいに角が丸い。窓口の硝子は毎朝きれいに磨かれ、外から見れば、ここが“泣き場所”だなんて誰も思わない。
モノカゲは、鍵を回す。
カチャリ、と音がして、扉が少し重たく開いた。
暖房の切れた室内はひんやりしている。けれど、冷たさの中に、紙と布と金属が混ざった独特の匂いが漂っている。忘れ物の匂いだ。忘れられて、でも捨てられてはいないものたちの匂い。
モノカゲは小さな体をすり抜けさせるように入って、扉を閉めた。ピンク色の制服は、彼女の外見と同じくらい幼く見える。帽子も名札も、郵便職員みたいにきちんとしているのに、鏡に映る姿だけがいつも少しだけちぐはぐだった。
──大人なのに。
彼女はその言葉を胸の奥にしまい、今日の始業の手順をなぞる。
窓口の札を裏返して「受付中」にする。帳簿を開く。ペン先を確認する。保管庫の温度計を見て、針が定位置に戻っていることを確かめる。
そして最後に、棚の上。
黒と紫の影が、丸まって寝ていた。
「おはよう、カゲマル」
声をかけると、影がふるりと揺れた。カメレオンに似た小さな生き物。けれど鱗はなく、毛もなく、輪郭が少し曖昧で、光の角度によっては“そこにいない”ように見える。
カゲマルは片目だけ開けて、モノカゲの方を見た。
その瞳の奥に、紫色の小さな灯りが瞬く。
「今日は雨、止んだみたいだよ」
カゲマルは答えない。代わりに、しっぽの先がくい、と動いた。
それが「聞いてる」の合図だった。
モノカゲは小さく笑って、窓口の奥へ回る。
そこには、全国から集まった荷物が山のように積まれている。駅の改札、バス停、商店街、海辺のベンチ。忘れ物は、いつだって人の生活の隙間からこぼれ落ちる。
箱の側面には管理番号の札。見落としのないように丁寧に貼られ、薄い膜のような透明な封が施されている。
忘れ物センターの倉庫に眠るものは、変わらない。
時間に削られない。
埃をかぶらない。
壊れない。
だからこそ――
変わっていくのは、それを忘れた人の心だけだ。
モノカゲは荷物を一つずつ受け取り、帳簿に記録していく。
片方だけの手袋。折れた鉛筆。小さなぬいぐるみ。使い古した定期券。
どれも、それぞれの人生の断片。
指先で触れるたびに、ほんのかすかに胸の奥が鳴る。
声ではない。
言葉でもない。
忘れられた“最後の感情”の残響。
それは薄い音のように、胸の内側に響いてくる。
嬉しい、悔しい、寂しい、安心。
そのどれかが、強いほどに。
そして、強いほどに――時間とともに消えていく。
だからモノカゲは急ぐ。
返せるうちに。
返されるべきところへ。
今日の荷物の中に、それはあった。
細長い段ボール箱。中身は明らかに傘だ。
黄色い。
箱の角から覗く布が、雨の日の太陽みたいに鮮やかだった。
モノカゲの手が、止まる。
彼女は自分でも驚くほど慎重に、その箱を引き寄せた。
管理番号を確かめる。
回収場所:○○線 △△駅 車内。
回収日時:昨日。
──昨日。
まだ新しい。
まだ間に合う。
そう思った瞬間、指先が箱の封に触れた。
とたんに胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
音。
遠い金属音。電車が揺れる音。濡れた床の匂い。
そして。
小さな胸いっぱいの、あたたかい焦り。
『だいじょうぶ』
言葉ではないのに、意味だけが伝わる。
『はぐれないで』
誰かが誰かに向けた、必死な願い。
モノカゲは息を呑んだ。
視界の端で、カゲマルがすっと顔を上げた。
紫色の灯りが強くなる。
カゲマルは、黄色い傘に向かって舌を出すように、かすかに首を傾げる。
──反応してる。
モノカゲは箱の封を解き、傘をそっと取り出した。
子ども用の小さな傘。
持ち手は白いプラスチックで、ところどころ擦れている。大切に使われていたのが分かる。
傘の布は黄色。だけど、ただ明るいだけじゃない。雨の日の暗さの中で、誰かを守ろうとした色だ。
「……早く返さないと」
モノカゲは、自分の声が少し震えているのに気づく。
彼女は帳簿を開き、管理番号のページに指を滑らせた。
回収場所は駅。忘れたのは電車。
感情の断片が示すのは――
子ども。
親。
買い物袋の重さ。
雨。
“はぐれないで”という願い。
モノカゲは、思う。
この傘はただの道具じゃない。
雨から守るための壁であり、迷子にならないための目印であり、今日の安心そのものだ。
それが失われたままの一日を、想像する。
胸が痛くなる。
モノカゲはカゲマルを見た。
「行こう」
カゲマルは、棚から軽やかに跳び降りた。影が床を滑るように動き、モノカゲの肩にちょこんと乗る。
彼は軽い。けれど、時々、とても重い。
それは彼が“誰かの落とし物かもしれない”という、答えのない事実の重さだ。
モノカゲは鞄を肩にかけ、黄色い傘を包んで持ち上げた。
傘が、ほんの少しだけ、熱を持っているように感じる。
窓口の札を裏返し、「準備中」にする。
今日の配達に出る合図だ。
夕方。
雨は止んでいた。けれど空はまだ灰色で、雲の底が低い。
駅前の商店街には水たまりが残り、車のタイヤが通るたびに薄い水が跳ねる。
モノカゲは人混みの端を、すり抜けるように歩く。
小柄な彼女は、よく子どもに間違えられる。
けれど彼女の歩き方は、子どもが真似できないほど静かで、迷いがない。
背筋がすっと伸びているのに、どこか影を引きずっている。
カゲマルは、時々ふっと姿を薄くして、通行人の視界から消える。
彼が“目立つ存在ではいけない”と知っているからだ。
モノカゲも知っている。
忘れ物センターは、持ち主を呼び出さない。
恥ずかしさや後悔や、言い訳をしないで済むように。
人が失くしたものを、取り戻すまでの時間は、とても繊細だ。
だからこそ、そっと返す。
“気づいたら戻ってきていた”みたいに。
そうすれば、人は自分を責めずにすむ。
そうすれば、また明日を生きられる。
モノカゲは商店街を抜け、線路を渡り、住宅街に入った。
目的地は、小さなアパート。
二階建ての古い建物で、外階段の手すりには雨粒がまだ残っている。
階段を上がると、薄い灯りが漏れる部屋がひとつ。
窓のカーテン越しに、影が二つ。
母親らしき大人と、小さな子ども。
モノカゲは立ち止まり、息を整える。
胸の奥で黄色い傘が鳴っている。
感情の断片が、薄く、薄く――それでも確かに。
焦り。
安心。
泣きたいのをこらえる気配。
モノカゲはドアの前に近づいた。
呼び鈴は押さない。
彼女は鞄から、透明な封蝋のような小さな道具を取り出す。
忘れ物センターのアイテム。
“返却の印”を結ぶための封。
それを傘の持ち手に、そっと触れさせると、薄い光の膜が一瞬だけ広がった。
膜はすぐに消える。
けれど、そこに“帰るべき”という印だけが残った。
モノカゲは黄色い傘を、玄関先の隅に丁寧に置く。
雨が当たらない位置。
倒れない角度。
誰かが開けたとき、最初に目に入る場所。
そこまでしてから、彼女は一歩下がった。
ほんの少しだけ躊躇う。
──この瞬間が、いちばん怖い。
返すということは、終わらせるということだ。
傘に残った感情は、ここで消える。
痛みも、願いも、守ろうとした気持ちも。
それが消えてしまうのは、寂しい。
けれど消えなければ、忘れ物はずっと“忘れられたまま”苦しい。
モノカゲは静かに踵を返し、階段へ向かった。
その背中に、カゲマルのしっぽがそっと巻きつく。
まるで「大丈夫」と言うみたいに。
階段を下り切ったところで、玄関の鍵の音がした。
ガチャ。
ドアが開く。
モノカゲは振り返らない。
振り返ってしまえば、きっと顔が見たくなる。
見てしまえば、涙が出てしまう。
それは仕事じゃない。
それは、個人的な願いだ。
モノカゲは歩く。
足音を消して。
そのとき。
胸の奥で、黄色い傘がほどけた。
ふわり。
あたたかいものが抜けていく。
最後の感情が、薄い光のように広がる。
『……ありがとう』
言葉じゃない。
でも、確かに。
モノカゲの視界が一瞬、滲む。
背中の向こうから、子どもの声が聞こえた。
「わっ……! あった!」
母親の声が重なる。
「よかった……ほんとによかった……」
その声は、泣いていた。
泣きながら笑っていた。
モノカゲは、立ち止まりかける。
けれど、カゲマルが肩の上で小さく鳴いた。
違う。
ここで立ち止まらない。
ここで振り返らない。
“気づいたら戻ってきていた”のままでいい。
モノカゲは夜の空気を吸い込んだ。
雨の匂いは、乾く前がいちばん切ない。
でも、乾いてしまったら終わりじゃない。
乾いた後に残るのは、確かな記憶だ。
忘れ物センターに戻ると、室内は朝より少し暖かかった。
モノカゲは帳簿に返却完了の印を押す。
管理番号の横に、小さな丸。
それだけで、この傘は“返せたもの”になる。
カゲマルは棚の上に戻り、丸くなる。
紫の灯りが、さっきより少しだけ穏やかだ。
「……よかったね」
モノカゲは小さく呟いた。
自分に言ったのか。
傘に言ったのか。
分からない。
分からないことが、この仕事には多い。
返せるものと、返せないもの。
間に合うものと、間に合わないもの。
そして、忘れられてもなお、待ち続けるもの。
モノカゲは窓口の奥の扉を開けた。
そこは倉庫。
天井まで届く棚が何列も並び、箱、袋、ケースが整然と積まれている。
どれも丁寧に保管され、汚れも傷もない。
まるで時間が眠っているみたいだ。
その棚の間を歩くと、時々、胸の奥が小さく鳴る。
薄い薄い、最後の感情。
ここに眠る忘れ物の数だけ、世界には“返せなかった優しさ”がある。
モノカゲは倉庫の入口で立ち止まった。
黄色い傘は返せた。
けれど――
返せなかったものは、まだここにある。
それが、明日には増える。
明後日にも。
そうして倉庫は、静かに静かに満たされていく。
モノカゲは扉を閉め、窓口へ戻る。
カゲマルの丸い背中を見上げて、彼女は少しだけ笑った。
「明日も、返そうね」
カゲマルのしっぽが、ふわりと揺れた。
その動きは、どこか肯定みたいで。
どこか、祈りみたいだった。
忘れ物センターには、今日も返せたものと、返せなかったものが並んでいる。
そして、誰にも見えないところで、最後の感情が静かに薄れていく。




