動物が嫌いなひとにいいひとはいない
松原さんはいいひとだ。
とても気が利いて、紳士で、しかもカッコいい。
社内の女子がみんな夢中になるのもわかる。
でも彼は、あたしのものだ。
「ごめんなさい、待ちました?」
待ち合わせ場所のポチ像の下で既に立っている彼に、あたしは声をかけた。
「僕も今来たところだよ」
爽やかな笑顔が秋風を春の香りに変える。
着ているものもいい匂い。薄手の茶色いセーターのその胸に、思わず頬をくっつけてみたくなる。
絶対にこのひとはいいひとだ。
このひとの胸が、あたしの安住の場所だ。
彼が予約してくれていたレストランで食事をしながら、あたしはつい、仕事の話をしてしまった。
「今回、松原さんが発案したあの殺鼠剤、すごく画期的だと思います。発売までこぎつけられますよ、絶対! 売れるといいな」
すると松原さんは困ったような表情になり、苦情をいった。
「食事の時にネズミの話はやめてよ」
「あ……っ。ごめんなさい」
松原さんのネズミ嫌いはよく知っているはずだったのに、あたしのバカ!
そうでなくても食事中にネズミの話なんて、常識を疑われても仕方ないよね……。
でも彼はすぐに笑顔に戻ると、楽しいデートを台無しにしないよう、スムーズに話題を変えて、あたしに質問してくれた。
「ところで高梨さん、趣味は何? まだ聞いてなかったよね?」
「あっ……。あたし、ペットと遊ぶのが何よりの趣味です」
「ペット……?」
松原さんの顔色がまた曇った。
「何か動物……飼ってるの?」
「わんこ飼ってます。ペキのぶさかわいい子で……写真見ます?」
「いや、いいよ」
松原さんが困ったような笑いを浮かべる。
「食事中に動物とか見たくない」
うちの子の名前すら聞いてくれなかった。
しばらく沈黙が続き、あたしたちは気まずい感じでレストランを出た。
並んで街を歩いていると、前から舗道をねこが歩いてきた。
「あ! ねこねこ!」
あたしは喜びの声をあげた。
「きゃー! かわいい! 松原さん、ほら、ねこねこ!」
松原さんは後ずさっていた。
苦笑を浮かべながら、言う。
「俺……、ねこ、嫌いなんだよね」
「え……」
意外すぎた。
殺鼠剤メーカーに勤めてる開発部のエースだから、ねこは絶対に好きだと思ってた……っていうかむしろ『同胞』みたいに仲間意識をもってるものだと思ってた。
「あの目つきが嫌なんだ」
嫌悪の表情をかわいいねこに向けながら、今にも石でも投げつけそうな恰好で、松原さんは言った。
「意地悪そうで……。庭にウンコとかするし……。またそれが臭いのなんの……」
泣きそうな顔で信じられないものを見るように見つめているあたしに気づくと、松原さんは「あっ……」と漏らし、聞いてきた。
「高梨さん……ねこ、好きなの?」
あたしはコクコクとうなずいた。
ねこだけじゃない、あたしは動物が大好きだ。殺鼠剤メーカーに勤めてるけどじつはネズミだって好きだ。仕事と割り切って、また鼠害に遭ってるひとのことを考えて勤めてるけど、ネズミが罠にかかって困ってたら助けてあげたいほうだ。
「そっ……か。ごめん……」
松原さんが頬をポリポリと指で掻きながら、告白した。
「俺……、ねこがっていうか……、動物全般が嫌いなんだ」
ガーン! と、あたしの頭の中であの効果音が鳴った。
動物好きなひとがいいひとだとはべつに思っていない。けど、その逆は間違いないと、あたしは常日頃、思ってた。つまり──
動物嫌いなひとに、いいひとは、いない──
そう、思ってただけに、いいひとだなぁという印象しかなかった松原さんのその告白はショッキングだった。
「……なんで?」
あたしは悪いひとを問い詰めるように聞いた。
「なんで動物が嫌いなんですか?」
「なんていうか不潔だし、どんなウィルスもってるかわからないし、何より『かわいい』ってのがどうしてもわからないんだ。何考えてるかわかんないし、生理的に無理なんだ」
人種差別をするタイプのひとみたいにハキハキと答える彼のことを、あたしはそれこそ嫌悪感を抱いて、しげしげと見てしまった。
きっとこのひと、内面は悪いひとだ。そう、決めつけてしまった。
それでもそこで帰ることもできず、ダラダラと彼とのデートを続けてしまった。
「駅前の駐車場にクルマ停めてあるんだ」
歩きながら、松原さんが言った。
「午後はどっかドライブに行かない? 帰りはクルマで送るよ」
「あ……、はい」
ほんとうは早く帰りたかった。
趣味が合わないどころか悪い人間に違いないこのひとと付き合い続ける気はもう失せていた。
動物はかわいいものだ。かわいがるのが当然だ。
動物が嫌いなひととなんて考え方が合うわけがない。それどころか動物が嫌いなひとなんて、たぶん、人間じゃない!
そんなことを考えているうちに駐車場に着いてしまった。
車は郊外へ出た。
森の隙間を縫って走る。松原さんの車はあたしの好感度絶大な銀色のマツダ3だ。天気はよく、秋の風はキラキラしてて、気持ちいいドライブのはずなのに、あたしの気分は暗かった。
今、この、ハンドルを握ってるこのひとは、動物が嫌いなんだ……。
今、もし、目の前にねこが飛び出してきたりしたら──
きっとこのひとは悪魔が嬉しがるみたいな笑顔を浮かべて、アクセルを踏み増して、積極的に轢き殺しに行くことだろう。
どうか──
どうか、ねこが飛び出してきませんように!
そう祈っていると、目の前にたらったーという足取りで動物が飛び出してきた。
たぬきだ!
このへんはたぬきの飛び出しが多いのだ。よく轢かれてる。かく言うあたしも一度だけ轢いてしまったことがある。避けられず、仕方なく──
でもまだじゅうぶん避けられるよ!
お願い! 松原さん!
人間なら命を敬う心をもって!
ブレーキを踏んで!
そんなふうに、あたしが祈るまでもなく、松原さんはブレーキを踏んでいた。
ゆっくり減速しながら、たぬきに近づきながら、追い払うように手を動かして、二回ほど言った。
「ほらっ、行けっ」
たぬきはしばらくびっくりしたようにこっちを見てたけど、そのうち歩き出すと、車が完全に停まる前に道路から退いて、ガードレールの下を潜って森の中へ逃げていった。
松原さんは後ろから車が来ても追突されないよう、ハザードランプも焚いていた。
完璧な対処のしかたで、たぬきを救ったのだった。
「このへん、たぬきの飛び出しが多いからなぁ……轢かれなくてよかったね」
そう言って笑う彼の横顔をしげしげと見つめながら、あたしは聞いた。
「動物……嫌いなんじゃなかったの? てっきり轢くかと思った」
「ひどいなぁ」
冗談を聞くように、松原さんは笑ってくれた。
「いくら嫌いでも、命は尊重するよ。同じ地球に暮らす仲間じゃん」
「エコロジストなの?」
「そんなんじゃないよ」
松原さんが笑いながら、あたしをたしなめるように言う。
「なんでも型にはめて考えないほうがいいよ。もしかして俺のこと、動物嫌いだから悪人だとか思った? 色んなひとがいるってだけだよ。動物嫌いの中には積極的に轢き殺しにいくヤツも確かにいるだろうけど、そいつだってたぶん人間は轢きにはいかない。俺は人間はもちろん、動物でも轢きたくない。それだけ」
動物が嫌いなひとにいいひとはいない──
あたしはそう、思ってた。
でも実際は、色んなひとがいるんだ。
あたしは動物大好きだけど、自分がいいひとだなんて思っちゃいない。いいところもあれば悪いところもあって、醜いところもあれば美しいところもあるんだと思ってる。
動物嫌いのひとだって同じだ。一人の人間の中に色んなところがあるから、世の中に同じ人間なんて、二人としていないんだ。
同じことを言うひとでも中身は全然違う。
言うことは同じだとしても、それを言うのには色んな理由、色んな歴史ががあったりする。
最近、SNSとかで、『こういうことを言うヤツはこういうヤツだ』みたいな決めつけをよく見かけるけど、それって思考放棄だと思う。
パターンに当てはめて、はい終わり。
その一言を聞いただけでもうその後そのひとの言うことは聞かない。
簡単でいいとは思う。でも自分の頭で考えて、新しい気づきを得るなんてことは、ない。
あたしは松原さんとアパートの同じ部屋で暮らしはじめた。
もう『松原さん』なんて呼び方はしてないんだけどね。
「ね、ユーヤくん。チョチョにミルクあげといてくれない?」
洗濯物を干しながらあたしが頼むと、彼は「お……、おう」と言いながら、犬用のミルク缶を手に持った。
あたしの連れてきたペキニーズのチョチョを、ユーヤくんはけっして可愛がってはくれない。
でも、あたしが頼むと頑張ってお世話をしてくれる。
「コイツ、ほんとうにミルクが好きだな。もう人間の年齢でいえばオッサンのくせに……」
ほんとうは犬のお世話なんかしたくないってわかってる。
それでもあたしのことを思って、チョチョのことも受け入れてくれた優しいひと。
あたしもそれまでみたいにチョチョを寝室に入れたりせずに、部屋の中に柵を作ってキッチンからこっちはわんこ立入禁止にした。チョチョもなんとか慣れてくれた。
チョチョのお散歩には二人で行く。リードをたまに持ってくれたりもする。
天気のいい土手を並んで歩きながら、チョチョがうんちをしたら始末してくれる。
彼は動物嫌いだけど最高の恋人。
動物が好きなどんなひとより彼のことが好き。