後編
帰宅してドアを閉めるなり、洗濯物が飛んできた。
タオル、ハンカチ、シャツ、パンツ、靴下が、狙い違わず顔面に命中した。
まず、靴を脱ぐ。散らばった洗濯物を拾い集めながら簡単に畳み、片手で胸に抱える。もう片方の手には鞄を持つ。新聞が飛んできた。甘んじて顔で受けることにした。
「不服玉で中学生死傷」の文字が迫り、額に当たって落ちた。拾うのは、後回しにする。妻の制球能力はすこぶるよい。怒れば怒るほど正確になる。標的にならなければ、なかなか面白い性質だと思う。
「ただいま」
「帰ってくるんじゃないわよっ」
こんにゃくが飛んできた。不意を突かれて顔面を直撃する。冷たいこんにゃくでよかった。それ故に生臭いが。身構えたところへ大根が迫った。丸々一本だ。洗濯物を放棄し、両手で鞄を持って盾にした。追突の衝撃で、半歩下がる。大根が撃墜されて宙を舞うのがちらりと見えた。
「大根まるごとは、まずいだろう。大根は」
「うるさいっ」
タッパが飛んできた。中身は空だ。プラスチックだから軽く受け流した。食卓には昨日の残り物、カボチャの煮物とひじきの煮物が出ていた。鞄を油断なく構えつつ、カボチャ目指して斜めに進む。はんぺんが飛んできた。間違いない。
「今夜はおでんか」
「おでんなんか、作ってやるものか。このボケ、カス、ナス」
お玉が飛んできた。危険だ。あと一息でカボチャに手が届きそうだというのに、どうしよう。ふと、手近に箸立てを見出し、素早く引き抜く。
「一体、何をそんなに怒っているんだ?」
鞄で鎖骨から上を隠しながら、陰でカボチャに手を伸ばす。目指す一つ向こうのカボチャに、フォークが突き刺さった。さすがに手が震えたが、勇を鼓して差し箸する。マナーなぞ構ってられない。夢中で口に入れながら、後退する鞄に、皿が当たって落ちた。派手な音を立てて割れる。鼓膜が痺れる。遂に来た。
「何を恍けたことを言ってるの。ふざけないでよ、この嘘つき。狸親父。下司野郎」
小皿が連発で飛んで来る。箸を捨てて鞄で受ける。次から次へと落ちて粉みじんだ。足元が危ないから、退却せざるを得ない。
「何の話か、全然わかんないよ」
「馬っ鹿野郎! あんた、結婚してから、ずっと給与明細偽造してたでしょ。わかってんのよ。一体いくら誤摩化したのよ」
中皿が飛来した。受け損ねて、どうにか屈んで避けた。敵は頭上を掠め、壁に激突した。下にソファがあって、破壊は免れた。
「わかっているなら、訊くなよ。細かいことなんか、いちいち覚えてないし」
「きいーっ。ああいえばこういう。へりくつばっかりこねてんじゃないわよ」
「なんでわかったんだ?」
コーヒーカップが投げ込まれた。鞄を前に突き出して、僅かでも打ち返す。あんまり後退しすぎると、足の踏み場がなくなる。陶器やガラスの破片を踏んで怪我したら大変だ。傷が深くて治りにくい。
「奥様同士のお茶会に呼ばれたんだってば。昨日給料日だったでしょっ」
コーヒーカップが連続し、後からソーサーが来た。全部鞄で跳ね返す。丈夫な革鞄を買って正解だった。傷だらけだが、味があると解釈している。
妻に内緒で有名ブランドの品を選んだから、簡単には買い替えられないという事情もある。いくら給料をごまかしていたとはいえ、元が大した金額ではないのだから、ピンハネしてもたかが知れている。
「俺の明細が本物で、他の人の分が偽物かもしれないだろ」
「まあっ。どこまでずうずうしいのかしら、この男。結婚前、経理部にいた人が言うんだから間違いないわよっ。この恥知らず、自己中心男、極悪非道」
妻は息を切らして、口を噤んだ。いつもはこの辺りで終わるのだが、今回はもう少し時間がかかりそうだ。
小休憩の間に、新聞の見出しを思い出した。付き合い始める前から、妻の不服玉を見たことがない。妻がこの罵声と投擲を止めたら、代わりに不服玉を産む訳だ。ぽこぽこ玉をこぼすなんて、可愛らしく思える。どちらが、ましだろうか。
やおら襟を掴まれた。目を血走らせ、髪を振り乱した妻が迫る。包丁まで握っていた。
「さあ、ちょろまかした金を返してもらおうじゃないの」
どちらが、ましだろうか。
壁に造り付けの棚は黒檀製で、前面をガラス扉が覆う。適度な間隔を置き、一つ一つが絹のクッションを頂く石の台座に鎮座する様は、宝石と見紛うばかりだ。
黄色い砂嵐の中に、緑色の炎がちらつくもの、紫色の氷柱と炎が交互に現れるもの、黒と白の流体が戦い続けるもの、橙色の火花でいっぱいのもの。美しく見えるのは、満更陳列の仕方のせいばかりではない。そこに並ぶのは、色合いといい、中身の形状といい、不服玉としては珍しい物ばかりだった。
「これは、エベレスト登頂を目指した若者が、制覇目前にしてクレバスに落ち、隙間から眺めた一瞬の空の美しさを誰にも伝えられないもどかしさから生まれた」
「これは、生まれつき盲目の少女が、最新の治療法により、奇跡的に視力を得たのに、数ヶ月後に再び失明することを知った時の絶望から生まれた」
不服玉を観賞する目がある。一つ一つの前に立ち止まる度、それぞれの物語をそらんじる。語りに耳を傾ける者はない。その部屋には鑑賞者以外、誰もいない。
「これは、多重人格を持つ人間が」
鑑賞者は飽くことなく不服玉を愛で、来歴を語り続ける。棚にはまだ空きがある。空の台座が、新たな不服玉を迎え入れるべく、準備を整えている。