勉強を教えてくれる和水さん(前)
「じゃあ今日はちょっと宿題だすぞ」
もう少しで授業が終わりそうなタイミングでのその発言は、少し緩んできていた教室の空気をガラリと変えてしまった。担任の言葉を聞いたクラスメイトたちから嘆きの声が上がる。
数学を担当している僕たちの担任は、普段滅多に宿題を出さない先生として有名だ。けれど一度宿題を出すと決めると、結構な量の宿題をドサッと出してくることでも有名だった。もちろんクラスメイトたちもそれを知っているからこそ、今の教室は阿鼻叫喚の状況。
どのくらい多く出されるかといえば、それはまぁえげつないくらいの量で、すでに宿題を諦めるかぁというぼやきも聞こえてくるくらいだ。
「あ~、言っておくがな、ちゃんと宿題をやってきてるかチェックするから。やって来なかった奴にはそうだな、追加で同量の宿題を出すからまぁそのつもりで」
それは最恐の脅し文句だった。ただでさえ挫けそうな大量の宿題を、さらに倍にされるだなんて正気の沙汰じゃない。教室中がどんよりとした空気に支配された瞬間だった。
「ねぇねぇ馬締君、ちょっと聞いて欲しいことがあるの」
担任が教室から出て行ってすぐ、僕なんかに話しかけてくれる女の子がいた。僕みたいな非モテの童貞に、こうして皆の前で大っぴらに声をかけてくれる女の子はこのクラスには一人しかいない。
伊刈レミさん。僕の前の席の小柄で華奢なギャルだ。守ってあげたくなるような可愛らしい女の子で、そんな子から話しかけてもらえるだけでも僕の嬉しみは頂点に達してしまう。
「どうしたの伊刈さん?」
「あのねあのね、レミ今すご~く困っててね。馬締君はいつもレミを助けてくれるから、また頼りたくなって、ダメかな?」
僕は凄まじく感動していた。この前伊刈さんは、チビでガリガリで運動神経もクソみたいな僕を頼りになると言ってくれた。そして今、あの時の言葉が伊刈さんの本心だと証明するかのように、また僕なんかを頼ってきてくれたのだ。
可愛い女の子から頼ってもらえるだなんて、男に生まれてきたことをこれ以上感謝するシチュエーションはないだろう。
「僕でよければ何でも力になるよ!」
「わぁ、ありがと~流石馬締君! 頼りになる~」
「え、えへへ、その、困ったときはいつでも言ってね」
伊刈さんはクラスメイトの中でも唯一、こうして明るく話しかけてくれる人だから、僕は単純に彼女の力になりたかった。そう、これは言うなれば普段の恩返しであって、決して変な下心ではない。
「それで、困ってることって?」
「あのね、実はレミ、今日は一か月前から重要な予定が入ってたの。それでね、たぶん今日は家にも帰れそうになくて」
「え、家に帰れないって、それは大変な予定だね」
「でね、さっき数学の宿題が出されたでしょ? 今日の夜はきっと朝まで一晩中忙しいから、あれもきっとやれる時間がないと思うの」
「そんな!? それだと伊刈さんは先生から倍の宿題を出されちゃうよ!」
「うん……けど、どうしようもなくて困ってたの。でね、どうしようって考えてたら真っ先に馬締君の顔が浮かんできて、馬締君ならきっとなんとかしてくれるかもって思ったの」
伊刈さんの言葉を聞いて、僕はもう感激して涙が溢れそうになっていた。
困ったときに真っ先に僕の顔が浮かんでくるほどに、伊刈さんの中で僕は頼りになる存在として認識されているだなんて、本当に夢のようなことだ。本当は頼りない僕なんかをそこまで評価してくれている伊刈さんのために、僕は何としても彼女を助けてあげたくなった。
「任せて! 僕が絶対に伊刈さんの分の宿題もやっておくから」
「え……馬締君いいの?」
「もちろんだよ。だって伊刈さんには家に帰れないほど大変な予定があるんだもん。一晩中急がしくて仕方ないのに、それで宿題を倍にされるなんてかわいそうだよ」
「ありがとう馬締君。私、馬締君にはいつも助けてもらってばかりだね」
「そんな、気にしないで、困ったときはいつでも言ってね」
「うん! それじゃあ私のノートを渡しておくね?」
当然のようにノートを僕に渡してくれる伊刈さん。僕が代わりに宿題をやっておくのだから必要なことだけど、僕にとっては信じられないような出来事だった。
だって普通の女の子は、僕みたいな非モテ童貞に自分の私物を触られるのを嫌がるはずだからだ。ちょっとかすってしまったくらいで舌打ちされることだってあるのに、伊刈さんは彼女の方からノートを僕に渡してくれたのだ。
それはきっと、伊刈さんから僕への信頼の証。僕は頼りになる人として、本当に伊刈さんから認めてもらえているということだ。
「あ、あの、ノートはすごく丁寧に扱うから!」
「ふふ、別に元から汚いノートだしそんなに気にしないでいいよ」
「そんな、あ、あと、宿題は絶対に全問正解で終わらせておくから!」
「わぁ~馬締君って本当に頼もしいなぁ」
「あは、あはは、そんなことないよ。それより、伊刈さんは体調気を付けてね。今日の予定が何かは聞かないけど、一晩中忙しいみたいだから」
「あぁ、ちょっと身体を動かしてくるだけだから。激しい時もあるけど、ちょっと汗かくくらいの軽い運動みたいなものだし心配しないで」
「ひ、一晩中運動ですか!? それってやっぱり大変なんじゃ?」
「大丈夫大丈夫! 何回も休憩挟むし、私ってこう見えて結構体力もあるから」
「そうなんだね。宿題のことは心配しないで行ってきてね」
「ありがと! やっぱり馬締君は頼りになるな~」
「はぅ」
はい、頂きました。今回も伊刈さんからのハグを頂きました。正直に言うと狙っていたわけだけど、毎回こうして感謝をハグで伝えてくれる伊刈さんはやっぱり天使なんだと確信した。その時だった――
「クソビッチ」
――ボソッとした呟き。けれど僕の耳ははっきりとその声をとらえた。
伊刈さんも目の前で笑顔のまま固まっている。まるで空気ごと凍り付いてしまったような気がした。
訪れる一瞬の静寂が痛い。
「それじゃ、宿題はよろしくね馬締君!」
「ぇ、ぁ、うん! 伊刈さんは予定大変そうだから身体に気を付けてね」
「……うん、ありがと!」
一時はどうなることかと思ったけれど、幸いなことに先ほどの呟きは伊刈さんには聞こえていなかったらしい。伊刈さんは可愛らしく手を振ると、笑顔のまま離れて行った。
伊刈さんが充分に離れてから、僕はホッとして胸をなでおろした。あれが聞こえていたらどうなっていたかと考えると、今でも冷や汗が出てきそうだ。
僕は呟きの発信源をチラリと横目で見てみた。
隣の席の和水さんはいつものように窓の外を見ていた。気だるそうに頬杖をつき、重い大きな胸を机に載せて、机の下では大胆に足を組み、立派な太ももをさらけ出している。
その姿は何らいつもと変わりない。周りに一切の関心を示さないその様子は本当にいつも通りすぎて、さっきの呟きがまるで僕の幻聴だったかもしれないとすら思えてくる。けれど、たしかに聞こえたのだ。
確かに和水さんはいつも伊刈さんのことをクソチビビッチと言っているけれど、本人の前で言ってわざわざ自分から他人を関りにいくような人でもない。
どうして和水さんは急にあんな挑発的なことを言ったのか、僕はそれなりに気になっていたけれど、和水さんのムチムチとした太ももをチラ見しているうちに、何を気にしていたのかすら忘れてしまった。