掃除を手伝ってくれる和水さん②
「……何をしているの」
そう言って無表情で見下ろしてくる和水さんは、僕から見るとまったく和んでいるようには見えなかった。
僕は和水さんを見上げる。本当に文字通り見上げる。
和水さんはそれだけ背が高かいのだ。たぶん180近くあるんじゃないかと思う。僕は160ない。チビだ。だからまっすぐ視線を向けると、和水さんの胸を自然と見てしまうことになる。
一度は和水さんの胸に目が釘付けになってしまったわけだけど、その時僕はあることに気が付いた。
僕の背中や後頭部が感じていた、この世の何よりも柔らかな感触。
あれはもしかして、和水さんの大きな胸だったのではないだろうか。
その可能性を思いついた時、僕の額からは汗が流れて来た。
僕はさっきまで天国のような場所にいて、これから本当の天国へ旅立たなければならないかもしれない。
「ねぇ?」
恐怖で僕が固まっていると、しびれを切らした和水さんが喋るように促してくる。いつまでも黙っていたら余計にイライラさせてしまうと判断した僕は、その瞬間には土下座の体勢に移行していた。
「申し訳ありませんでした! わざとじゃないんです!」
渾身の土下座だ。勢い、角度、額を地面にこすりつける強さ、どれをとっても完璧だと自信が持てる。これならなんとか半殺し程度で、天国に行かなくても済むかもしれない。
そんな僕の楽観的な考えを、和水さんは予想以上の返答で覆してきたのだった――。
「急に土下座なんかしてどうしたの? ほら、つかまって」
僕は耳を疑った。あの和水さんが今僕に何と言ったのか。まるで都合のいい幻聴だ。けれど、顔を上げるとかがんだ和水さんが手を差し出してくれていて、どうやら聞き間違いではなかったらしいことがわかる。
信じられない光景だった。
あの無口でクールで、いつも眉間に皺を寄せて他人を威嚇している和水さんが、今はかがんで僕に手を差し伸べてくれている。
しかも和水さんの表情はいつものように鋭くない。困ったように眉を曇らせ、僕を心配してくれているようにすら見えるのだ。
そして何よりも僕が驚いたこと、それは――
――かがんでいる和水さんのスカートの中が、土下座している僕からはばっちり見えてしまっていることだった。
あれは、なんだろう。僕は小さい逆三角形の布から目が離せない。
「ぱ、ぱぱ、ぱ」
「パパ? 大丈夫? どうしたの?」
ハッとして我に返る。危ない所だった。動揺してパンツと自分から言ってしまうところだった。
今は何故か普段とは違って怒っていないように見える和水さん。きっと何かいいことでもあった直後なのだろう。僕は運がよかったけれど、もしパンツまで覗き見たとバレてしまったら、本当に天国行きが決まってしまうかもしれない。
「な、なんでもないよありがとう」
僕は努めて平静を装いつつ、ひそかにパンツは見続けることにした。
「ほら、いつまでも床に手をついてたら汚いよ」
「あ、うん。ありがとう」
和水さんに手を引かれる。せっかくのパンツは名残惜しかったけれど、僕は鋼の意志で立ち上がった。
そこで意識する。今、和水さんと手を繋いでいるということを。
和水さんの手は信じられないほどスベスベで、ふにふにで気持ちよかった。
「ちょっとくすぐったいかな」
「へ? ご、ごめんなさい!!」
なんという魔力だろうか、僕は自分でも気が付かないうちに、和水さんの手をもみもみしてしまっていた。そんなことを僕がしてしまったのも、全て和水さんの手が気持ちいいから仕方なかったとはいえ、これは非常にマズい。
流石に怒られるかと思ったけれど、和水さんはそれでも怒らなかった。
「別に、気にしてないよ」
「え、本当ですか?」
「それより、どうして一人で掃除?」
「えっと、伊刈さんに用事があるからと頼まれたので」
そう答えた瞬間だった。今まで普通に喋っていた和水さんが一瞬にして般若の形相に早変わりしたのだ。
「チッ……あのクソビッチが」
体感温度が真冬並みに下がったような気がした。恐怖で身体が震えて、気を抜けばチビってしまいそうだ。
少しの間鬼のような怒気をたぎらせていた和水さんは、僕が怯えていることに気が付いたのか、慌てたようにさっきまでの表情に戻してくれた。
「他の人もいないの?」
「ひぇ……はい、みんなで用事があるみたいなので」
「……そう。なら手伝うから」
「へ?」
素っ頓狂な声が出た。まさかそんな事を言ってもらえるなんて、まるで考えていなかったから。
「あの、いいんですか?」
「うん、いいよ」
「あ、はぁ、ありがとうございます」
和水さんはあまりにもあっけらかんと答えるものだから、僕もそれ以上は何も言えなくて、流れで掃除を手伝ってもらうことになった。
本当にどういう風の吹き回しなのだろうと考える。
誰とも関わろうとしない和水さんの噂は一年の頃から聞いたことがあった。
二年になって同じクラスになり、まだ数週間しか経っていないけれど、その噂が本当だったということももう知っている。
それが今はこうだ。考えても何が起きているのか僕にはまったく分からなかった。
とりあえずは和水さんに負担をかけないように掃除を頑張らなければいけない。すこしでも重労働は僕がやるべきだろう。
「あの、じゃあ僕が机を運ぶので、掃き掃除をお願いしてもいいですか?」
「やだ」
「えぇ」
そう思った瞬間からこれである。やっぱり本気で手伝うつもりはなかったのかと思っていると、僕は和水さんに箒を押し付けられた。
「重いものは私が運ぶから」
いきなりのことで僕が何も言えないでいる間にも、和水さんは机をせっせと運びだす。その姿を見て僕は慌てて駆け寄った。
「だ、だめですよ! 僕が運びますから!」
「どうして?」
「どうしてって、男の僕が重いの運びますから、和水さんは女の子だし」
「……へぇ」
説得を聞いてくれたのか、和水さんが持っていた机を床に置いた。それを見て僕は代わりに運ぼうとしたけれど、何故か和水さんが僕の前からどけてくれない。いや、それどころか一歩、また一歩と和水さんが近寄ってくる。
「ぁ、あの、どうしました?」
和水さんからの返事はない。ただじっと僕を見つめたまま近寄って来る。和水さんの目を見ていると、何故か獲物を狙う肉食獣を想像してしまい、僕はただ後ずさることしかできない。
和水さんが近づいてくるごとに僕は一歩下がる。
それを続けていれば、こうなることは必然だった。
「あ……」
もう下がれない。僕は壁際に追い込まれていた。なんとか逃げようとする前に、ドンッと耳元で音がして、気が付けば顔の脇に和水さんの腕が見える。
壁ドンだった。しかも両手バージョン。
後ろは壁、両脇は腕で塞がれた。さらに悪い事に、壁に突っ伏す形になっている和水さんの大きな胸が僕の顔の数ミリ先まで迫っている。
ものすごい圧迫感だった。
急に壁ドンされて、僕はもう脳のキャパシティーがとっくに超えてしまっていたけれど、それでも童貞としての能力が生かされたのか、とっさに口呼吸から鼻呼吸に変えることだけは忘れなかった。
和水さんは、いい匂いがした。
僕が鼻息を荒くしていると、和水さんがニヒルに笑う。ゾクッとするような妖艶な笑顔だ。
「私を女の子って言ってくれるんだ」
「ど、どういうことですか?」
「私って身長高いからさぁ、か弱い女の子には見えないかなって」
か弱いかどうかで言われたら、か弱くはなさそうだと思ったけれど、なんとなくそれは心の内にしまっておいた方がいい気がした。
「し、身長が高くても女の子には変わりない、のではないでしょうか」
「……うれしいなぁ」
不意に顎をむにっと掴まれて上向きにされた。よくキスするときにする体勢だとすぐに分かる。たとえ男と女の位置が逆だとしてもきっとそうだ。
「あ、あの、待って!」
「だ~め」
僕の顔に向かって、和水さんの綺麗な顔がどんどん近づいてくる。それはもう目と鼻の先にまで迫っていて、僕はただ目を瞑ることしかできなかった――。
「でも私より小っちゃいんだから、キミが掃き掃除ね」
「……へ?」
目を開けると、クスクスと笑っている和水さんがいた。ただ揶揄われただけらしいことを察し、身体から力がぬけた僕はその場にへたり込んだ。
そんな僕に、和水さんがまた手を差し出してくれている。
正直、どうして急に和水さんが話しかけてきてくれたのかは分からない。
ただ、僕は初めて見た和水さんの笑顔に見惚れていて、惚けたまま差し出された手につかまった。
続きは明日投稿します。