和水さんの背中
一瞬だけ暗転した視界が戻ると、僕はまた先生とクラスメイトたちに覗き込まれていた。
「意識あるか?」
「あ、はい」
「おっと、まだ動くなよ。とりあえずちょっとそのまま安静にしてろ」
「わ、わかりました」
「あとまた鼻血出てるから、ティッシュ出せるか?」
「は、はい。自分でできます」
ポケットティッシュを鼻にあてると、一種んで真っ赤に染まってしまった。二回目だからなのか、結構な量の血が出ているらしい。
「これはもう保健室だな。流石にこれ以上無理したくはないだろ?」
「あはは、はい、もう大丈夫です」
「頭も打ってるかもしれんからな、誰かに連れて行ってもらおう」
「す、すいません」
多分誰も来たがらないだろうなと思った。
僕は例外として、大抵の男子は体育が好きだ。せっかくの授業中に僕なんかを連れて離脱したい人なんていないだろう。
そうなれば誰かが嫌な役を押し付けられることになってしまう。せっかく心配してくれているクラスメイトに悪いし、気まずくて最悪な状況になってしまう。
そこまで考えて、一人で行くと先生に言おうとした時、誰かが走って来る音が聞こえてきた。
「どいて」
「え? あ、すまん」
低い威嚇するような声と、それにビビったような隣のクラスの男子の声が聞こえる。
それだけで、僕は誰が近づいてきたのか分かったような気がした。
「先生、私が連れて行きます」
そう言って僕の頭のすぐ傍に立ったのは思った通り和水さんだった。
真下から見上げている僕には、ジャージの隙間から和水さんのお臍が見えてちょっと幸せな気分になった。
「え、いつの間に来たんだお前、女子のところに戻っていいよ」
「いえ、私クラスの保健委員なので」
「あ、そうなの? でもわざわざ女子に行ってもらうのも悪いなぁ」
「大丈夫です。責任を持って保健室に連れて行きますから」
「あ、そう? ならお願いするか」
半ば強引に和水さんは押し切ったようだった。というより保健委員だなんて初めて聞いたけれど本当なのだろうか。
「立てる?」
和水さんがかがんで手を差し出してくれている。
「あ、ありがとう和水さん」
僕は純粋に嬉しくて、和水さんの手に捕まろうとした。のだが――
「うわっ!?」
「ちょっと、大丈夫!?」
――僕が捕まろうとした手を、和水さんは一瞬で引っ込めた。思わずよろけてしまうと和水さんがすぐに身体で支えてくれ、心配そうな顔で覗き込まれる。
僕がよろけたのは和水さんのせいなのだけど、どういう意図でこんなことをしているのかまるで分からない。
「フラフラしてる。これじゃあ立てない」
「え、僕は別に」
「遠慮しないで、こういう時の保健委員だから、ほら」
和水さんはかがんだまま僕に背を向ける。何がしたいのかよく分からない。
「ほらって言われても」
「おんぶしてあげるから、早く乗って」
「え……ぇええええ!?」
おんぶという行為がどういうものだったのか、それを一度でも意識してしまったら手遅れだ。
和水さんにおんぶされている自分の姿を想像する。何とも情けない姿だ。
例え僕が和水さんよりも20センチ以上身長が低かったとしても、とてもじゃないけれどクラスメイトたちの前で女の子におんぶされるわけにはいかない。
「いえ、立てますから大丈夫です」
少し抵抗してみる。その瞬間に腕を掴まれて引っ張られた。
鼻血の流しすぎでフラフラになってしまっていたのか、僕は急なことで抵抗も出来ずに和水さんの背中に寄りかかってしまった。
顔のすぐ近くに和水さんのうなじがある。
少しだけ汗ばんでいるそこからは、なんだか離れがたいいい匂いがした。
「ほら無理じゃん。遠慮しなくていいから」
「いえ遠慮ではなく、というか今も和水さんが引っ張るから」
「はいはい、まだあまり喋らない。じゃあ行くから、つかまってて」
「え、うわっ!?」
脚に腕をまわされて、僕は今完全に和水さんにおんぶされてしまっていた。
視界がいつもより高い。
身長が180近くある和水さんに背負われているのだから当然だ。僕は160もない、身長的に考えれば、今の状況もあまり不自然ではないような気さえしてくるから困ったものだ。
男が女の子に背負われて違和感がないなんて、僕のちっぽけなプライドはもう欠片もなく風化した。
そして、僕のくだらないプライドなんかよりも気になることがある。
それは周りからの視線だ。
男子諸君の内の何名かから痛々しいほどの突き刺すような視線を感じる。
大方和水さんを密かに狙っている人達だろう。僕はちょっとだけ優越感に浸りたい気分になったけれど、相手ピッチャーが唾を吐いて本気で地面を蹴りつけていた姿を見て止めておいた。
何事も謙虚が一番だ。自分から相手を煽る必要はない。
「あの、和水さん」
「どうしたの?」
「おんぶしてもらっておいてなんですけど、早く保健室に行きましょう」
「ん、わかった。なるべく急ぐから」
頷いた和水さんは僕が言った通りにスピードを上げて歩いてくれた。
「いぃい!?」
それはよかったのだけれど、僕は自分が失言をしたことにすぐ気が付いた。
和水さんが急げば急ぐ程、背負われている僕は揺れる。そうするとどうなるでしょう?
僕は今は和水さんの背中にうつ伏せで覆いかぶさっています。
おんぶされているのだから、それが当然の姿勢です。
ですが、そうするとある個所が和水さんの背中に当たってしまいます。
しかも僕が和水さんを急かしたばかりに、揺れは激しくなってしまい、上下に激しく擦られます。
……和水さんの背中に擦れてヤバイ。
「あの、和水さん! やっぱりゆっくり、ゆっくりでお願いします」
自分の過ちに気が付いた僕はすぐに和水さんにスピードを落とすようにお願いした。
このままでは、擦れて気持ちよくなった僕の何かがヤバイことになってしまうからだ。
まさに死活問題。
「なんで? 早く保健室に行かないと」
「いや、とにかくです! そうしないとヤバイんです!」
「興奮すると鼻血がでるよ」
「それはもういいんです! それよりもっと重要なところに血が……あっ」
「……ん?」
終わった。
何が終わったかって、僕の人生、かな。
和水さんの背中で擦れる刺激に耐えきれなかった僕のあそこは、ついに反応してしまった。
まだちょっとだけど、今完璧に反応してしまっている。
我慢なんて無理、一瞬だった。童貞の僕には感じる刺激が強すぎたのだ。
もう確実に和水さんも背中にある感触を感じているはずである。
僕は和水さんの背中の上で、ただ両手で顔を覆った。
もはやなんの言い逃れも出来ない現行犯。
和水さんから飛んでくるのは鉄拳か言葉のナイフか。
どちらにしろこれからの学校生活には致命傷だろう。
僕は静かに審判の時を待った。
「それくらい元気なら大丈夫かな」
「……え?」
「ふふ、だしちゃダメだよ」
「んなっぁ!? 何をですか!?」
信じられないことに、僕は許されたらしい。
僕を背負って歩き続ける和水さんは、背中の感触に気が付いているはずなのに笑っている。
これでもまったく怒る気配のない和水さん。僕が倒れた時にわざわざ駆けつけてくれたりと異様に優しい。
観察日記のことも含めて、僕はますます和水さんことが分からなくなった気がした。
続きは明日投稿します。




