(四)灼熱の北風③
帝国軍が闇の中で蠢動を始めた日、朝を迎えた王都でのこと。
騎士団本部にいつも通り出仕したラーソルバールを待っていたのは、第二騎士団長執務室への呼び出しだった。
「私、何か呼び出されるような事したっけ?」
隣にいたシェラに尋ねると、事情を察したのか彼女は無言のまま苦笑いで返した。
「……ああ、そういえば、先日の晩餐会の時にランドルフ団長の正装見て笑ったから、罰則で正式に降格処分になったのかな?」
そう言ったラーソルバールの後頭部を軽く平手打ちすると、シェラはラーソルバールを睨みつけた。
「団長を待たせてるんだから、馬鹿な事を言ってないでさっさと行きなさい……しっしっ!」
「へーい……」
シェラに軽くあしらわれて向かった執務室で告げられたのは、当然だが自身が口にしたものとは違っていた。
入室すると待ち構えていたように、ランドルフは椅子に座ったまま執務机の上にあった書類をラーソルバールに差し出した。
「軍務省から辞令が届いた。本日より、お前さんは昇進して二月官となるとの事だ」
そう告げたランドルフの表情は真顔のようでいて、やや口端が少し上がり笑っているように見えた。
「はい。……え、二月官ですか? いや、あの……定期昇進の頃合いはもう少し先ですし、直近で何か功績を上げたとかいう事もないのですが……」
驚きのあまり、無礼な事だと分かっていながらも上司に聞き返してしまった。
「あん? 何を言ってるんだお前は。お前さんは色々と頭が回るのに、自分の事となると疎いな……。何というかまあ、そういう所は残念な奴だな。いや、お前さんにも残念な部分があって良かった、実に良かった。安心した」
からかうように言ってから、ランドルフは気分が良さそうに笑った。
「もしかして、慣例に従って年間に二階級しか上げられないから、という理由で前年度で上げ損なった分を年度替わりに、とかいう話ですか?」
「なんだ、分かってるじゃないか。ベスカータ砦でゼストア軍相手に色々大仕事して、そのまま昇進無しって訳にもいかないだろうよ」
ランドルフは椅子から立ち上がると、子供をあやすように大きな掌でラーソルバールの頭を、ぽんぽんと軽く撫でる様に叩いた。
「二年目の小娘が二月官って……、周囲の方々は扱いに困りますよ?」
「俺に言っても無駄だ。いや、騎士達への調整はするが、文句が有るってんなら軍務省に言ってくれ。……それにまあ、今更だわな」
「それは……」
一年目で一月官で中隊長。それだけでも他に類のないものだというのは認識しているが、今回で更に上回るものになるという事でどんな影響が出るか想像するのも恐ろしい。第八中隊のモレッザのように嫉妬の眼を向けつつも、ある程度自制してくれるのなら良いのだが。
「何にせよ、昇進を嫌がるのはお前さんくらいのもんだ。……おお、そうだ。これは先日、俺の正装を笑った罰だな!」
「ぐ……」
してやったりと笑うランドルフに返す言葉も無く、ラーソルバールは新たな階級章と書類を素直に受け取るしかなかった。
王都でラーソルバールが階級章を手に苦悶の表情を浮かべている頃、帝国との国境にある小さな山の中で、草木をかき分けつつ進む一団があった。リガント子爵らが率いる暴発した帝国軍の兵達である。
「思ったより下草が多くて行軍が遅いな。今夜中にはここを抜けて、報告のあった手近な村を占拠したいのだが……」
リガントはぼやいた。
村を制圧したら、そこを拠点に街道伝いに国境門をヴァストールの内側から攻め落とせばいい。そう考えていたが、思い描いたようにはなかなかいかない。
「長時間動き続けですので、兵達に疲労が出始めています。せめて食事の時間を取らせたいと愚考致します」
副官がリガントの言葉に応じた。
ヴェイヤール将軍が追っ手を寄越す可能性もあると考え、夜を徹して進んだ結果である。確かにこのまま無理な行軍を続ければ疲労が溜まり、次の行動に移りにくくなる。夜間に行軍した事もあり、無理はできない。
「もう少し進んだら、休息を取ると全体に伝えろ」
リガントも貴族然とした生活が身に沁みついているため、我慢強い方ではない。樹木に手をかけ、疲れを吐き出すように大きく息をした。
こうした帝国軍の動きは、ヴァストールの斥候が掴んでいた。
山中の鳥が慌ただしく飛び立つ様子などが、遠くからも見て取れていたからである。その報告は逐次、国境警備兵や第五騎士団に入っていた。
報告を聞くたびに距離が縮まる軍靴の足音。
「予想通り季節外れの北風か。砂塵を巻き上げて随分と熱を帯びたものになりそうだな……」
準備は万端。迫り来る衝突を見据え、グレイズは剣を手に舌なめずりをした。




