(一)皇帝③
「閣下が進言されれば、考え直していただけるかもしれません」
アシェルタートは青ざめつつも、一縷の望みにかけた。だが、それはすぐに脆くも崩れ去る。
「無駄だ。アフルール公爵がお諫めしたが、陛下は耳を貸すことは無かった。ゼオラグリオも、そして私も同じように時期尚早だと反対したのだが……な」
ドグランジェは語尾を濁らせた。
宰相であるアフルール公爵、ゼオラグリオ候爵、そしてドグランジェ候爵と高位の三家の当主の言葉にも揺らぐことが無かったという事実を突きつけられ、アシェルタートは苛立つように唇を噛む。
この話はまだ公にはされていないだけに、何も知らないはずの者が出来る事など有るはずもない。自らの無力さを感じずにはいられなかった。
「それとな……、三名とも明日からひと月の謹慎処分を受けることになった。公には恐らく病気療養と扱われるだろう」
「それは……何と申し上げれば良いか……」
続けて聞かされた言葉に、アシェルタートは力無く肩を落とした。
それから間もなく。新年の宴は何事も無かったかのように、美しく着飾った人々と優雅な演奏という演出と共に華やかに始まった。アシェルタートもドグランジェに付き添うように会場入りし、開宴にはぎりぎりで間に合ったものの、もはや宴を楽しむというような気分では無くなっていた。
その元凶とも言える皇帝の前には開宴後から参加者たちの挨拶の列ができ、途切れる様子も無い。アシェルタートも挨拶に行かなくてはならないと思ってはいたが、どうにも踏ん切りがつかないまま立ち尽くしている。
「あの方が新しいルクスフォール伯爵だそうよ……」
「まだお若いし端正なお顔立ちをしておられるのに、まだ婚約者も居ないのだとか……」
女性たちが自分の事を話しているのか。アシェルタートは自身の事にも無関心で、漠然と聞き流す。果実酒の入ったグラスを手に、視線が定まらないような虚脱感に襲われていた。
「あら、アシェル。お久しぶり」
目の前に現れた女性の言葉でアシェルタートは我に返る。彼女は栗毛色の髪を揺らすように少し首を傾げると、その優美な顔に微笑みを浮かべた。
「あ、ああ……ミゼレーア嬢。久しぶりだね」
彼女は父の友の一人であったカスペリオン伯爵の長女であり、アシェルタートと同い年の幼馴染でもある。ある程度の年齢になった今でも、軽口を叩ける程度には良い関係を維持していた。
「何をそんなに深刻そうな顔をしているのかしら? 怖がって若い娘が寄って来れないじゃない」
「ああ、いや……。父の跡を継ぐにあたって色々とあってね……」
アシェルタートがそう答えると、ミゼレーアは鼻でふふんと笑った。
「どうだか……。女にでも振られた後のような顔をしていたわよ」
当たらずとも遠からず。もし戦争が始まってしまえは、想い人は手の届ない存在になってしまう。アシェルタートは片眉を少し動かしてから苦笑いを浮かべた。
「そんなに酷い顔をしてたかい?」
「ええ、それはもう」
そう言って笑いながらミゼレーアは口元を扇子で隠すと、アシェルタートに顔をそっと近付けた。
「陛下のご意向でまた戦争が始まるそうよ……。今度は南方の国々と、という話。その事を耳にはさんだのではなくて?」
耳元で小さく囁かれた言葉に、アシェルタートは身を強張らせた。
ああ、そうか。彼女の父親も大臣職に就いていたのだったか、と理解が及んだものの僅かに動揺が顔に出ていた。
「あら、図星だったのね」
カスペリオン家の領地はルクスフォール家の北東に位置し、その境を接している。ともに帝国の南部地域に位置しており、開戦ともなればルクスフォール領程ではないにせよ、悪い方向に影響が出るのは間違いない。
「ドグランジェ閣下と一緒だったところを見ると、やはり何があったかも知っているってことね……」
アシェルタートは否定することなく、黙したまま手にしていたグラスの中身を少し口に含んだ。
「ほら、御覧なさいな。陛下はややご機嫌が悪そうよ……」
挨拶で余計なことを口走った者が居たのか、そうでなくともドグランジェが語った通りの出来事が有ったならば納得できるところはある。皇帝自身が決断したことを重臣らに否定されたのだから、機嫌が悪くなるのは無理からぬこと。
新年の宴を前にした時だっただけに重くはない処分で済まされたとはいえ、その腹には見た目以上の怒りを抱えていてもおかしくはない。今日この場で下手なことを言えば、即座に牢獄に叩き込まれる可能性も有り得るだけに、何か抱えていても陳情するような事はするな、というミゼレーアの心遣いなのだろう。
「ああ、そうだね……。今日は余計なことを言わず、挨拶だけで済ませるよ。……それより君は、世の令嬢たちに倣って良い結婚相手を見繕いにこの場に居るわけじゃないのかい?」
「なに? 私を厄介払いしたいということ? 残念ながら私は彼女たち程には、焦っていないわよ」
アシェルタートに好意の視線を送っている娘たちをちらりと見やってから、ミゼレーアは微笑んでみせた。
「まあ……君は器量も良いし家柄も良い。加えて才覚もある。相手には困らないだろうしなあ……」
「ふふ、いざとなったら貴方が娶ってくれればいいだけだし?」
「え……あ……?」
想定外の切り返しに狼狽えるアシェルタート。
「じゃ、邪魔者は去るわね。また今度!」
冗談とも本気ともつかぬ言葉を残し、ミゼレーアは微笑みを浮かべながら彼女の父のもとへと歩いて行った。
残されたアシェルタートは、ひとり大きくため息をついた。
「何もできないというのは、虚しいものだな……」
そして……。
宴は無事に終わり、皆がそれぞれの思いを抱えつつ帰路につく。
この日、時を動かす歯車が大きく音を立て回り始めた事を幾人が気付いていただろうか。




