(二)陽炎に似たり③
「くっくっく……」
エルンガーが慌てる様子を見てか、今まで黙っていたもう一人の近衛の男が小さく笑い声を漏らした。
ラーソルバールは男に視線をやる。近衛所属の見習いが、先輩の失態を見て笑うだろうか。いや、それとも笑われたのは自分だろうか。
そう考えた時だった。
「エルンガー、もう少し臨機応変に返せないのか?」
言われてエルンガーは少し困ったように頭を下げる。
これは先輩に対する言葉ではない。かといって目下の人間を侮辱したり恫喝するような言い方でもない。しいて言うならば、悪戯が失敗したのを無邪気に笑うそれに近い。
「ん?」
ラーソルバールは思わず、声が出た。この若い男の声に聴き覚えが有ると気付いたからである。
なるほど、この人はそういう人だった。ラーソルバールは苦笑いをしたくなるところを抑え、必死に笑顔を取り繕った。
「あの、失礼ですが……ウォルスター殿下……。ご冗談が過ぎるかと……」
近くに居た使用人たちは、その名を聞き驚いて硬直する。
「おや、良く私だと分かったな」
恐る恐る口にしたラーソルバールに対し、ウォルスターは帽子を取って素顔を晒すと、愉快そうににやりと笑った。
王子の来訪という非常事態。
正体が発覚すると、ミルエルシ家の侍女達は大慌てとなった。さすがに王子の応対を玄関先で済ませる訳にもいかず、ラーソルバールは急ぎ応接室へと案内した。
クレストであれば王太子の師という直接の繋がりがあるため、王子相手でも何とかしようも有るのだろうが、不幸な事にまだ仕事で城に居る時間。
ラーソルバールにとって、ウォルスターは初対面ではないというのが救いではあるが、かといって王家の人間を遇する方法など身に着けている訳では無い。逃げ出したいのを堪え、覚悟を決めるしかなかった。
「殿下がそのようなお姿で二人で来られたというのは、つまり……お忍びという事でしょうか?」
テーブルを挟んで向かい合うように座る王子に、差障りがない質問を投げかける。
「ああ、今日は暇だったので久々にラーソルバール嬢の顔を見に来ようと思ったのだが、周囲の目があって色々と面倒なのでな。この格好が丁度良かったということだ」
ウォルスターは背後に立つエルンガーに視線を送ると、苦笑い浮かべる。差し詰め彼は共犯者であるとともに、護衛兼監視役といったところなのだろう。
「殿下にとっては城を抜け出すための偽りの姿というのは分かりますが、我が家に近衛の方が訪れたという事を周囲はどう思うか……」
「懸念は分からなくもないが、まだ兄上の婚約者第二位という立場は変わっていないのだから、近衛による取次が有ってもおかしくは無いだろう?」
誠実を絵に描いたような王太子の兄とは違い、少々奔放な面を見せる王子だというのは過去の経緯からも分かっている。それだけに顔を見に来たという言葉を含め、どこに本音があるのかも分からない。
「それはそうなのですが……」
言っている事は正論だが、ラーソルバールとしてはどのような影響があるか分からないだけに、素直に納得できる話では無い。とはいえ、相手が王家だけに下手に反論する訳にもいかず言葉を濁さざるをえなかった。
丁度その時、エレノールが飲み物を手に部屋に入ってきた。
「失礼いたします」
運んで来た冷やした果実水が目の前のテーブルの上に置かれると、ウォルスターは毒見をさせる事無くすぐに手に取り一気に飲み干した。
「ふう……。外はまだ暑いから冷たい物は嬉しいな」
「殿下、お毒見もまだですのに……」
一瞬のことで止めるのも間に合わなかったようで、エルンガーは半ば呆れたように苦笑いをする。
「ミルエルシ家が私の命を狙って何の利もないからな。特にラーソルバール嬢には私を恨むような理由も無いのだから、疑う必要もないだろう?」
ウォルスターは部下の心配を事も無げにかわす。
いやいや、恨みが無い事もないですよ。と、ラーソルバールは心の中で応じた。
エラゼルの誕生会で無理やりダンスに引きずり出された事に始まり、今日を含めて心臓に悪い思いを何度かさせられていますからね。もっとも、命をどうこうする程ではありませんが。
目で訴えかけたが伝わるものでもない。
そんなラーソルバールの思いなど知る由もないウォルスターは、やや前のめりになると、再び口を開いた。
「さて、落ち着いたところで、気になっているであろう用件について話そうか」
「……はい、何でしょうか?」
「今日、騎士団の方が休暇だということは聞いていたのでな。本人に直接話すべきと思って来たのだ。相談と言うか……いやほぼ決定事項なのだが……」
この直後、ウォルスターの口から告げられた内容は、ラーソルバールを絶句させるには十分過ぎるものだった。




